NHK大河ドラマでは「不仲」とされたが…藤原道長と次兄・道兼が孫の代まで親密な関係を続けた意外な理由
プレジデントオンライン / 2024年4月28日 17時15分
■不仲だった次兄・道兼と道長の間に起きた変化
藤原兼家(段田安則)の三男(正妻の子としては次男)である道兼(玉置玲央)と、五男(正妻の子としては三男)の道長(柄本佑)。この2人は、NHK大河ドラマ「光る君」の放送が開始された当初から、仲が悪い兄弟として描かれた。兄の道兼が弟の道長を虐待していた、といったほうが正確かもしれない。
ところが、このところ2人の関係に変化がみられる。そのきっかけは、第14回「星落ちてなお」(4月7日放送)で描写された。父の兼家が自分の後継者として、長男の道隆(井浦新)を指名したとき、道兼は「父上は正気を失っておられる。父上の今日あるは、私の働きがあってこそ」と、怒りをあらわにした。そして父の死後は、自暴自棄になって酒におぼれた。
第15回「おごれる者たち」(4月14日放送)では、そんな状態の兼家のもとを道長が訪れた。そして、「まだこれからではありませぬか。兄上は変われます。変わって生き抜いてください。この道長がお支えいたします」と伝えた。
この流れは、第16回「華の影」で、より明確になった。都じゅうに疫病が蔓延している状況を放置してはならないと考える道長は、関白である兄の道隆に「兄上から帝にご奏上いただき、疾病の対策を陣の定めでおはかりください」と訴えるが、「そのつもりはない」と一蹴されてしまう。その直後、道長は道兼とすれ違う。
その際、道兼から「どうした、そんな顔をして」と尋ねられた道長は、「関白と話しても無駄なので、自分で悲田院を見て参ろうと思います」と返答する。これに対し、道兼は「やめておけ。都の様子ならオレが見てくる」「汚れ役はオレの役目だ」と告げ、自分が救護施設の悲田院に向かったのである。
■長兄・道隆に真っ向から反発する
むろん、これはドラマの筋書きで、史実を記したわけではない。けれども、栄華をきわめて、身内ばかりを抜擢するなど専横ぶりが目立つようになった道隆に対し、道兼や道長が反発し、対抗しようとしていた様子は、史料からも読みとれる。
道長から見て行こう。前述のように、第16回で道長が道隆に疫病対策が必要だと願い出た際、道隆は内裏への相次ぐ放火のほうが一大事だといい、「帝と中宮様をねらったものであれば、中宮大夫のお前こそどうするつもりだ」と、逆に問い詰めた。
「中宮大夫」。道隆の長女で一条天皇の中宮になった定子のために、新たにもうけられた役所である中宮職の長官のことで、この職責を道長は負っていたのである。道隆にすれば、末弟の道長を定子に仕えさせ、抱き込もうとしたのかもしれない。
だが、道長は中宮大夫には就任しながら、兄には最初から露骨に反発した。定子が立后する日、つまり正式に中宮になる日は正暦元年(990)10月5日だったが、道長は中宮職の責任者でありながら儀式を欠席している。
中宮大夫に就任した道長について、『栄華物語』は「こはなぞ、あなすさまじと思いて、参りにだに参りつき給はぬほどの御心ざまも猛しかし(これはなんということだ、まったく心外だ、と思い、役所に寄りつきさえなさらないほど、ご気性が勇ましかったことだ)」と記している。
もっとも、『栄華物語』は、道長の栄華を記すのが目的の物語なので、必ずしも信用できない。だが、藤原実資も日記『小右記』に「大夫、重服に依り、見えず(中宮大夫の道長は喪に服しているのを理由に、出席しなかった)」と書いているから、道長が定子の晴れ舞台にあえて列席しなかったことはまちがいない。
■道隆の長男に対し道長が行ったこと
第15回では、道隆が主催する弓競べの場で、道長が道隆の長男の伊周と競い合い、勝つ場面が描かれた。
正暦4年(993)3月に道隆邸で弓競べがあり、道長が的の中心を射抜いて景品を獲得したことは、『小右記』に記されている。また、『大鏡』にもそれと似た話として、道隆が自邸で弓競べを開催し、伊周を優勝させて箔をつけようとしたところが、道長が現れて伊周に勝ってしまった、という逸話が載っている。
『大鏡』の逸話については、創作だと考える学者も多いが、『小右記』の記述は、実際のできごとを描写していると考えられる。そこには、伊周と競ったとは描かれていないが、多くの人が列席する弓競べの場で、道長が景品を獲得したとは記されている。
列席者から見れば、道長は道隆の身内。集まった客に遠慮する立場なのに、多くの客を差し置いてみずから景品を手にしたわけで、背景には、道隆に反発する気持ちがあったと考えるほうが自然ではないだろうか。
■元服式で務めた役の意味
兄の道隆に反発した道長が頼ったのは、一人は姉の詮子だった。彼女にとっても、兄の道隆や道兼はかなり年上だったのに対し、末っ子の道長は年下で、ともにすごした時間も長かった。このため、詮子は道長には、ほかの兄弟よりも親しみを感じていた。
そして、「光る君へ」で描かれたのと同様、道長は道兼との距離も縮めていた。
長徳元年(995)2月27日、道長は道兼の次男(長男は夭折した)、兼隆の元服式に参加し、加冠の役を務めている。平安時代、男性は元服して「大人」になると、髪を頭頂部で髷に結って、それをおおうように冠を被った。当時の男性にとって、この冠は非常に重要で、それを脱ぐのは下着姿になるくらい恥ずかしいことだとされていた。
したがって、元服式でも加冠の儀がいちばん大事で、それを務める加冠の役の重要性はいうまでもなかった。たとえば天皇が元服する際は、太政大臣がいれば、その座に就いている貴族が務めるものだった。だから、道兼の嫡男の加冠なら、兄で関白の座にあった道隆が務めるのが順当なところだったが、それを道長が務めたのである。
■道隆 vs 道長・詮子・道兼
道隆はそれから1カ月半後の4月10日に死去する。死因が持病の飲水病、つまり糖尿病だったか、大流行していた疫病の疱瘡、つまり天然痘だったか、どちらともいいきれないが、死去する1カ月半前には、加冠を務められる状態ではなかったかもしれない。
だったら、長男ですでに内大臣になっていた(道長はまだ権大納言だった)伊周が務めてもよさそうなものだが、じつは、道隆も伊周も、多くの公卿たちが参加した兼隆の元服式を欠席している。そして、結局、道隆との関係を悪化させていた道長が加冠の役を務めたということは、次のことが考えられるだろう。
専横がすぎる道隆との関係は、道長だけでなく道兼もまた悪化させていた。また、道兼は兄の道隆を祖とする中関白家と対抗するようになり、自分を中心とする派閥に弟の道長を導き入れた。
そして、おそらくは一条天皇の母である詮子も、道兼の構想を受け入れた。だから、死期を悟った道隆が、伊周を内覧(天皇に奏上する文書に事前に目をとおす役割で、職務は関白に近い)に就けようとしても、関白を辞して伊周に譲ろうとしても、詮子の意を受けた一条天皇は却下したのである。
■親子2代で道長と共闘した
こうして、ついに道兼と道長のあたらしい派閥はメインストリームに躍り出た。道隆が死去して半月あまりの4月27日、道兼を関白にする詔が下り、同日、道長は左大将に昇進した。この時点では、道長は自分がまもなく政権のトップに躍り出るなど、予想もしていなかったことだろう。
ところが、5月2日、天皇に関白就任について御礼のあいさつを言上した道兼は、そのまま立てなくなり、わずか6日後の5月8日、死去してしまう。疫病の恐ろしさである。
道長が加冠の役を務めた元服式の直後、関白の長男となった兼隆は、以後、目覚ましい出世を遂げることが予想されたが、父の急死によって、輝かしい未来を断たれてしまう。
だが、道隆の遺児の伊周と隆家が道長に反抗し、自滅していったのとは対照的に、父の死後、兼隆は道長の側近として歩み、道長も道兼との約束にたがわないように、兼隆を後見し続けた。
時は下って寛仁元年(1017)、三条天皇の第一皇子で道長とは血縁関係にない敦明親王が皇太子を辞任し、その後を受けて、道長の外孫である敦良親王が皇太子になった。『大鏡』には、敦明親王が辞めたのは、兼隆にそそのかされたからだと書かれている。
史実と断定できる話ではないが、そういう話が書き残されるくらいだから、兼隆は道長との関係がずっと良好で、尽くしてきたのだろう。「派閥」は継承されたのである。そのなかで、息子もまた「汚れ役」を得意とした、ということかもしれない。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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