小麦、砂糖、酵母まで「すべてが地元産」は世界でここだけ…北海道の奇跡のパン屋が「国産小麦」にこだわる理由
プレジデントオンライン / 2024年5月17日 8時15分
■東京ドーム並みの「日本一広いパン屋」
帯広にあるパン屋、満寿屋の旗艦店「麦音」の敷地面積は1万2000平方メートルだ。東京ドームのグラウンド面積(1万3000平方メートル)とほぼ等しい。一軒のパン屋としては日本一の敷地面積だろう。
実際に足を運んでみると、あまりの広さにぐるっと目を回した後、ため息が出てしまう。敷地は広い。まず小麦の畑がある。そしてエゾリスがやってくる林がある。林にはシジュウカラなどの野鳥がやってきて鳴く。
地元のシンガーが歌える広い野外ステージがある。何十人もの家族連れがピクニックできる芝生の庭もある。芝生の庭では犬が走り回る。屋外テラスの客席は150席以上だ。パン屋というよりもピクニックランドもしくはグランピングの施設だ。
店内には常時、100種類以上のパンが並んでいる。いずれも焼きたてだから、パンのにおいとバターの香りであふれている。パンの価格は非常にリーズナブルだ。ねじりドーナツが125円、十勝あんバターは255円……。菓子パンは100円台、サンドウィッチや総菜パンは200円台から300円台まで。コーヒーは80円。東京の町のベーカリーよりも2割は安い。
店内にもイートインのスペースが数十席はある。イートインテーブルの上にはオーブントースターが載っていて、食パン、サンドイッチ、総菜パン、菓子パンを買った人たちは焼き直して食べていた。
■100%十勝産小麦で焼いたもちもちの食パン
麦音でわたしを迎えてくれた満寿屋の社長、杉山雅則はオーブントースターを置いた理由を教えてくれた。
「うちのパンはすべて十勝産小麦を使って焼いています。十勝産小麦は食感がもちもちしていますから、リベイク(焼き直す)していただいたほうが外側がカリッとして、さらにおいしくなります」
そう言いながら、彼は同社製の食パン「みのりの恵み」を焼いて出してくれた。
みのりの恵みは1本(2斤)で1500円。牛乳、バター、生クリーム、マスカルポーネチーズが練り込んであるから、トーストしたパンにバターを付けずに、そのまま食べられる。牛乳、バター、マスカルポーネチーズは地元、十勝で育てられた牛から搾乳した牛乳で作ったもの。
もぐもぐと食べていたら、杉山は続いてパンを2個、オーブントースターに入れた。
白スパ(スパゲティ)のサンドとあんパンである。わたしは黙って食べた。サンドウィッチもあんパンもトースターで焼くと、香ばしいにおいがあたり一面に漂う。それは激しく食欲を刺激する。
■「日本でたった5%」国産小麦のパンにこだわる
満寿屋は帯広市を中心に十勝管内に7店舗を構える。売り上げは約10億円。創業は1950年。現社長の祖父が町のパン屋として始めた店を父(健治 故人)のと母(輝子)が発展させ、杉山は4代目になる。
彼は1976年の生まれだ。地元の高校を出て、鹿児島の第一工業大学へ進み、卒業後に渡米。アメリカン・インスティテュート・オブ・ベイキング(AIB アメリカ製パン科学研究所)でパンの製造を学んだあと、ニューヨークのベーカリーで修業した。帰国してから一時期、東京の製粉会社に勤め、その後、実家に戻り満寿屋に入社した。社長になったのは2007年のことである。
さて、満寿屋の特徴は、全7店舗で出しているパン200種類以上のすべてを十勝産小麦で作っていることにある。これは非常に珍しいことだ。なんといっても日本で販売されているパンのうち、国産小麦で作られたパンはわずか5%(業界の推定)しかない。
■「世界で一軒だけのパン屋」と呼ばれる理由
農林水産省の食料需給表によれば国内の小麦消費量のうち、日本産小麦の割合は約5%。85%は輸入小麦である。そして「麦をめぐる最近の動向」(令和6年2月)によれば「国産小麦の使用割合は、日本麺用では6割程度を占めるが、その他の用途では1~2割の使用に留まっているところだ」という。つまり、国産小麦のほとんどはうどんで、パン・ラーメン用は少ないのである。
国内産小麦だけで全商品を焼いているパン販売店はいくつかあるが、売り上げが10億円に達する満寿屋はそのなかでも最大規模といえる。
まだある。満寿屋は小麦だけが国内産なのではない。パン材料のほとんどが地元の産物だ。水は大雪山や日高山脈の雪解け水だ。前述の通り、牛乳、バター、チーズ、ヨーグルトはもちろん十勝産である。あんパンに使う小豆、豆パンに使う大正金時豆も十勝産。コロッケパンのじゃがいもやトウモロコシも地元の産品だ。
それだけではない。菓子パン作りに欠かせない砂糖、小麦を膨らます酵母もまた地元産なのである。砂糖や酵母まで地元の産品を使っているパン屋は非常に稀だ。「世界で一軒だけのパン屋」と称されることもあるが、それは砂糖、酵母まで地元で調達していることが大きな理由だから。
■「地元十勝の小麦を使いたい」農家を説得して回る
満寿屋は創業した頃は輸入小麦でパンを作っていた。だが、杉山の父で2代目社長の健治が「輸入小麦より安全性が確認できる国産小麦にしたい。それも地元十勝の小麦を使いたい」と決意し、ひとりでパン用小麦を栽培してくれる農家を探し始めたのである。
そうして、地元の小麦栽培農家を説得していた時、がんにかかっていることがわかる。それでも2代目の健治は農家を回り、説得して歩いた。何度も何度も家を訪ね、根負けして協力してくれるまで農家の主人と話をし、新しい品種の国産小麦を植えてくれるよう頼んだ。粘り強く頭を下げることだけが新しい品種、そして十勝産小麦を手に入れる道だったからだ。入手しなければならないのは小麦だけではなかった。地元の野菜や牛乳、乳製品も探し、パンの中に取り入れていった。
そして、一定量の小麦を得た後はパン作りを開始した。だが、新しい品種の国産小麦の性質をつかんでいなかった健治、部下の職人はパン作りにもさんざん苦労した。これまで使っていた米国産小麦を国産小麦に切り替えるにはパン作りに使う水、バター、砂糖などの量を調整して変えなくてはならない。一からテストしてレシピを作り直すという作業が必要だったのである。
■父が叶えられなかった夢を継いで
もっとも苦労したのは食パンだった。小麦粉と水などの含有バランスを確定させるまで何度も作り直さなくてはならなかった。絶妙なバランスでなくては十分にふくらまないのが食パンだ。
ところが、栽培、パン作りに取り組み始めてから少したった1992年、健治はがんで亡くなってしまう。後を継いだ妻の輝子は泣かなかった。夫の志を受け継ぎ、彼女もまた農家を回って頭を下げた。
小麦のほか、あんパンに使う小豆、総菜パンに使うとうもろこし、クリームパンの原料の牛乳、バターなども地元、十勝の農家から仕入れていった。パン作りも見守った。そうして少しずつ、パン用小麦の生産量は増えていき、また、満寿屋も少しずつパンの製造に地元産小麦を使用し、種類を増やしていった。
2012年、満寿屋は全店の商品すべてを十勝産小麦で作ることを達成した。杉山の父、健治が挑戦を始めてから23年後のことだった。会長だった輝子は全店の従業員や取引先を集めたパーティで喜びの踊りを踊った。若いころ、東京の劇団で女優だった輝子にとって喜びを表す最大の表現はみんなの前で自ら踊ることだったのである。
■個人経営のパン屋は3分の1しか残っていない
杉山は思い出して言った。
「父が十勝産小麦を使うことにしたのは地元の農家のためでした。うちのいちばんのお客さんは地元の農家なんです。農家のみなさんはうちのパンを大量に買って、作業の合間にひとりで3個も4個もあんパン、クリームパンを食べてくれます。そんな農家にご恩返しとして地元の小麦、乳製品、野菜だけを使ったパンを作ることにしたのです」
「私自身は十勝産の小麦、野菜のブランドを広めるために2016年から東京目黒区に店を出しました。ですが、コロナ禍の2021年に撤退せざるを得ませんでした。東京で働いてくれる従業員の都合がつかなかったのです。しかし、東京に店を出したことで、大きなメリットがありました。取材がいくつもありました。テレビにも出ました。そのため『十勝産小麦100%使用のパン』という言葉が全国区となったのです」
杉山は言う。
「日本のパン消費のうち、3分の2はスーパーとコンビニなんです。個人がやっているパン屋さんは3分の1しかありません。しかも、町から消えつつあります。国産小麦を増やそうとしている私たちにとって、これは大きなことなんです」
■それでも「いいニュースもあります」
彼の言う通りで、全国にある商店街のパンの個人店舗は減りつつある。
そしてスーパー、コンビニが販売しているパンを作る工場は輸入小麦を使用している。それは輸入小麦のほうが国産よりも2割は安いからだ。大量生産しようとすれば輸入小麦を使うしかない。
そこでパン用の国産小麦を増産するには商店街のパン販売店が必要になってくる。
杉山は「いいニュースもあります」と言った。
「当社に勤めていた人間が『十勝とやま農場』の敷地内に店を出しました。畑のなかのパン屋です。もちろん十勝産小麦を使っている店で、『ベーカリー・シュマン』と言います。もし、帯広に来る機会があればそこのパンも食べてみてください。うちで修行した人間が店を開くことを私は応援しています。そうすれば十勝産小麦を使う店が増えるからです」
■おいしいパンは、十勝にあった
杉山は「2030年、十勝がパン王国になる」というビジョンを掲げている。
「はい、十勝全体をパンのテーマパークにしようと思っています。インバウンドのお客さんや全国の方たちに来ていただけるような魅力のあるパンを作って、たくさん食べていただく。
十勝産小麦の魅力を発信していきたい。十勝産小麦で魅力ある商品をどんどん作っていきたい」
杉山が「キタノカオリという希少品種で作りました」と出してきたのが「オドゥブレ十勝」だ。キタノカオリを100%使ったもので、加水率が115%(食パンでは通常60%~70%)のパンである。オドゥブレ十勝は加水率が高いので仕込みの際にミキサーが使えない。ミキサーの攪拌部分に水を含んだパン生地がへばりついてしまうのである。そこで、オドゥブレ十勝の仕込みは職人が手作業で行わなくてはならない。
オドゥブレ十勝はそのままで食べるより、リベイクしたほうがいい。側面から切り込みを入れ1分から2分ほどトーストする。オーブントースターから出し、切り込みを入れたところにフロマージュブランを加える。贅沢な食べ方だ。
地元産のオドゥブレ十勝と地元産のフロマージュブラン。加えて、十勝の澄んだ空気。おいしいパンを食べるなら十勝に限る。
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ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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