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皇后・定子は自ら剃髪し身重のまま出家した…藤原道長のライバル・伊周による「法皇暗殺未遂事件」の意外な結末

プレジデントオンライン / 2024年5月19日 10時45分

2020年2月26日、ミュージカル『ミス・サイゴン』制作発表記者会見に臨む高畑充希さん - 写真=時事通信フォト

996年正月、藤原伊周・隆家兄弟と花山院との間で、従者同士が闘乱に及び死傷者を出す事件、「長徳の変」が起こった。歴史評論家の香原斗志さんは「伊周と隆家は配流、2人の兄をかくまったことで皇后・定子の地位も落ちた。政敵の自滅により藤原道長の政権基盤は盤石になった」という――。

■なぜ伊周と隆家は法皇に矢を放ったのか

「矢を射かけられたのは花山院。長徳の変のはじまりである」という、伊東敏恵アナウンサーの語りで終わった。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第19回「放たれた矢」(5月12日放送)。

藤原道長(柄本佑)が右大臣に任命され、公卿のトップの座に就くと、内大臣のまま据え置かれた藤原伊周(三浦翔平)と、その弟で中納言の隆家(竜星涼)は、道長への反目を強めていった。そして、ある夜が訪れた。

伊周はこのころ、太政大臣だった故藤原為光(阪田マサノブ)の次男、斉信(金田哲)の異母妹、光子(竹内夢)のもとに通っていた。ところが、その夜は為光邸の前に見事な牛車が停まっていたので、伊周は早々に退散した

帰宅した兄に隆家が「あれ? 女のところに行ったんじゃないのか? ふられたの? 男が来ていたとか?」と問いかけると、伊周は酒をあおりながら、「まさかあいつに裏切られるとは思わなかった」と泣き顔である。そこで隆家は、「よし、懲らしめてやろう」と誘いかけた。懲らしめる対象は、光子のもとに来ていた男である。

伊周は「関白になれなかったゆえ、女まで俺を軽んじるのだ」と自虐的なので、隆家は「行こう。だれだか、たしかめるだけでもいい」と誘いかけ、2人は馬で為光邸に赴いた。すると帰ろうとする男の姿があったので、隆家は矢を放った。

男がすんでのところで矢を逃れて尻もちをつくと、邸内から斉信がかけつけ、「院! いかがされました、院!」と、慌てて声をかけた。「院」とはかつて出家して天皇の座を降りた花山法皇(本郷奏多)だったのである。

■史料が物語る「法皇暗殺未遂事件」

ある夜とは、長徳2年(996)正月のことだった。「光る君へ」で秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』(『三条西家重書古文書』に引用された『小右記』の逸文の長徳二年正月十六日条)には、こう書かれている。

「右府の消息に云はく、花山法皇、内大臣中納言隆家、故一条太政大臣家で遭遇し、闘乱の事有り。御童子二人殺害、首を取りて持ち去ると云々(右大臣道長様からの連絡では、花山法皇と、内大臣藤原伊周および中納言隆家が、いまは亡き一条太政大臣為光邸で遭遇し、乱闘事件が起きたという。法皇側の童子が2人殺害され、その首が斬られて持ち去られたとのことだ)」

こうして伊周と隆家の兄弟と、花山天皇との間で乱闘があったという史実が伝わるが、どんな乱闘なのかはわからない。後年に編纂されたものだが、『日本略紀』(長徳二年正月十六日)の記述は、もう少し踏み込んでいる。

「今夜、花山法皇密かに故太政大臣恒徳公の家に幸するの間、内大臣ならびに中納言隆家の従人等、法皇の御在所を射奉る(今夜、花山法皇が密かに、故太政大臣恒徳(為光)公の家をご訪問されたところ、内大臣伊周ならびに中納言隆家の従人らが、法皇がいらっしゃる場所に弓で射掛けた)」

ドラマと違って伊周兄弟自身ではないが、その従人が法皇に向かって弓を放ったというのだ。伊周兄弟は法皇暗殺未遂事件を起こしてしまったことになる。

■放たれた矢は法皇の袖を貫通した

『栄花物語』には、兄弟が法皇に矢を放つに至った背景も書かれている。ただし、この歴史物語は、作者が脚色して史実を膨らませたと思しき箇所が多い。だから、史書としてよりは文学作品として読むべきものだ、と前置きしたうえで、その内容をざっと紹介しておく。

『石山寺縁起絵巻』第3巻第1段より藤原伊周
『石山寺縁起絵巻』第3巻第1段より藤原伊周〔写真=中央公論社『日本の絵巻16 石山寺縁起』(1983)より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕

伊周は故為光の三女(斉信の妹)を恋人とし、故藤原為光邸に通っていた。一方、花山天皇は為光の四女に惚れこみ、同じ為光邸に足を運んでいた。

花山法皇は天皇時代、女御の忯子(井上咲楽)を寵愛し、その死後、ショックを受けているところを藤原兼家(段田安則)と道兼(玉置玲央)につけ込まれて出家させられた――という話は『光る君へ』の第9回で描かれた。じつは、この忯子も為光の娘で、花山法皇はその妹に目をつけたのである。

伊周は法皇が為光邸に通っていると聞き、法皇の相手は四女ではなく、美人として世評も高い三女に違いないと決めつけた。そして隆家に相談すると、「まかせておけ」と。こうして2人は、為光邸前で花山法皇を待ち伏せし、法皇が馬に乗って帰ろうとしたところに、脅かすつもりで矢を放ったところ、矢は法皇の袖を貫通。法皇は慌てて逃げ帰った――。

『栄花物語』にはそんなふうに書かれている。その内容が史実かどうかはわからないが、ただし、それを否定する史料も存在しない、と書き添えておこう。

■伊周と隆家の余罪

藤原斉信から連絡がいったのだろうか、道長はその夜のうちに事件を聞き知った。そして、都の警備と治安を担当する検非違使庁の別当(長官)であった、『小右記』の筆者の実資に連絡。20日後には関係者宅への家宅捜索も行われた。

すぐに捜索が行われた背景には、一条天皇の断固たる姿勢もあった。五位以上の貴族の邸宅を捜索するためには、通常は天皇の許可が必要だが、一条天皇は、いちいち自分に告げずにどんどん捜索するように指示したのだ。事件を起こした伊周と隆家は、天皇が寵愛する中宮定子の兄弟だが、天皇の権威を重視する天皇にとって、到底捨て置ける事態ではなかったということだろう。

一条天皇像(部分)
一条天皇像(部分)〔写真=平凡社『天皇一二四代』(1988)より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕

ここまでが「長徳の変」の第1章だとすると、乱闘事件から2カ月余りすぎた3月末、第2章がはじまった。『小右記』(三月二十八日条)によれば、道長の姉で一条天皇の母、東三条院詮子の容体が悪化した際、彼女の在所の床下から呪詛の道具が見つかったのである。

この呪詛も伊周が命じたものだとされた。道隆から関白を受け継いだ道兼が急死した際、政権の中枢は伊周ではなく道長にまかせるべきだと、一条天皇を説得したのは詮子だった。当然、伊周は彼女を恨んでいただろう。だからといって、呪詛の道具をほんとうに伊周が仕掛けたのかどうかはわからないが、伊周の仕業ということになってしまった。

加えて4月1日には、天皇家にしか許されていない「太元帥法」を伊周が僧に行わせ、道長を呪詛していたという話が一条天皇に奏上された(『日本略紀』『覚禅鈔』)。こうして伊周と隆家の罪状は、あっという間に3つになったのである。

■髪を下ろして出家した中宮定子

関白道隆の息子であるというだけで、苦労もせずに異例の昇進を遂げた伊周と隆家の兄弟。なんの軋轢も経験せず、世の酸いも甘いも知らぬまま高位に就いたため、世の理不尽に対する耐性がまったくなかったのだろう。雌伏の時間に耐えられれば、ふたたび浮上こともあったかもしれないが、彼らはそれができずに自滅した。

一条天皇は兄弟を赦さず、4月24日に関所を閉じる戒厳令を通達したうえで、内大臣の伊周を太宰権帥、中納言の隆家を出雲権守に降格。即刻配流するようにとの緊急の命を下した。

その後の兄弟の行動は、みずからの自滅にさらに追い打ちをかけるとともに、伊周の妹で隆家の姉である中宮定子の地位まで脅かすことになった。というのも、はじめて懐妊した定子が内裏を出て住まわっていた二条の邸宅に、兄弟は立てこもったのである。

『小右記』によれば、定子は体を張って兄をかばったようだが、一条天皇は許さずに家宅捜索を命じた。その結果、隆家は捕縛され、伊周はいったん逃亡したものの、数日後に出家姿で出頭。懐妊中の定子は責任をとり、髪を下ろして出家せざるをえなくなった。

未熟な若者による、あまりにお粗末な騒動だったというほかない。

■兄弟を赦免できる道長の余裕

しかし、まだ騒動は終わらなかった。伊周は太宰府に護送される途中、病気と称して播磨(兵庫県南西部)にとどまっていたが、その後、こっそり都に戻って定子にかくまわれていた。出家もウソだった。こうして定子も巻き込んでさらに評判を下げた挙句、ようやく太宰府に送られ、「長徳の変」は収束した。

もっとも、一条天皇は伊周と隆家を、徹底して断罪したかったわけではないようだ。翌長徳3年(997)3月25日、詮子の病気平癒を期しての大赦が行われ、4月5日、伊周と孝家は公卿会議をへて召喚されることに決まった。

だが、すでに前年7月、正二位左大臣に叙せられていた道長にとって、いまさら伊周と隆家の兄弟が戻ったところで、少しも怖くない。道長自身、彼らを赦免しようという天皇の意向を尊重した。

道長の最大のライバルは伊周と隆家だった。その彼らが自滅してくれたおかげで、自身はなんら手を下さずに政権基盤を固めることができた。長徳の変から1年、そんな兄弟をよろこんで赦免できるほど、道長には余裕ができていたのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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