この世には「読むと魂が汚れるテクスト」が存在する…内田樹が「SNSの荒野」を歩くときに必ず守っていること
プレジデントオンライン / 2024年5月23日 10時15分
※本稿は、内田樹『勇気論』(光文社)の一部を再編集したものです。
■ナースには「特殊な能力」を持つ人がいる
ずいぶん前にですけれど、ある大学の看護学部の先生のナースたちと看護をめぐって対談したことがありました。僕はその時に、ドクターというのは自然科学者だけれども、ナースというのは魔女の系譜を引き継ぐ呪術的な医療者であり、この二つの医療原理が習合しているところが近代医療の妙味であるというようなことを話したのです。その話がナースの方の気に入ったらしく、実はナースの中にはいろいろな特殊な能力を持つ人がいるという「ここだけの話」をしてくれました。
僕が対談したナースの方は「死期近い人のそばにゆくと屍臭がする」という能力をお持ちでした。だから、夜勤で病室を巡回する時、病室のドアを開けた時に屍臭がすると「この患者は朝までもたない」とわかる。同僚に似たような能力を持つ人がいて、その人の場合は、「死期近い人のそばにゆくと鐘の音がする」のだそうです。でも、二人がそんなことを言っても、ドクターたちは笑って相手にしなかった。まあ、そうですよね。
■修羅場となった救急病棟で医師が質問したこと
ところがある時に付近で大きな事故か何かがあって、救急に次々と重傷者が運ばれてくるということがあった。医療資源は有限ですから、助かる可能性のある患者から助けるという「トリアージ」をしなければならない。修羅場となった救急病棟で、ついにドクターたちがこの二人に向かって「この患者、屍臭してる? 鐘鳴ってる?」と訊き出したのだそうです。
人間が死にかかっているわけですから、当然、それなりの生理学的な変化は生じている。ただ、それがごく微細な情報なので、体温計とか血圧計というような通常の計測機器では感知できない。でも、その微細な情報を感知できる人がたまにいる。別に超能力ではありません。できあいの計測機器では検知できない感覚入力を感知できる敏感な感受性を持っているということです。計測機器の感度というごくごくアナログな差異の問題です。
こういうタイプの感受性を磨き上げるための訓練というものを、昔の人はたぶん子どもたちにいろいろな遊びをさせることを通じて行っていたのだと思います。
■「ハンカチ落としをしたらどう?」
これも10年ほど前のことですが、僕の合気道の弟子が、子どもたちのための合気道教室を開くことになりました。相手はまだ小さな子どもたちなので、飽きさせないように、いろいろな遊びをまじえて稽古をしたいと思うのだけれど、何かいい遊びはないかと訊いてきました。僕は少し考えて「ハンカチ落としをしたらどう?」とアドバイスしました。
もう最近ではあまりやる人がいませんが、ハンカチ落としというのは、子どもたちを内側に向いて円く座らせて、鬼が一人その外側を歩き、誰かの後ろにハンカチを落として、その子が気づかないうちに一周回ってタッチしたら、その子が負け。自分の後ろにハンカチが落とされたことに気づいた子どもが立って鬼を追いかけ、もとの場所に戻る前にタッチしたら鬼の負けという遊びです。
ハンカチは落としても音がしませんし、落とした後も、鬼は手の中にハンカチを握っている「ふり」をしていますから、自分の後ろにハンカチを落とされても、それについては視覚情報も聴覚情報も与えられません。でも、勘のよい子は、ハンカチが地面に落ちるより先に立ち上がって鬼を追い始めます。
![木製のテーブル上のハンカチ](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/4/2/1200wm/img_42ec374336fc1ecb2467d80e86b3c5401345492.jpg)
■鬼の心に兆した「一瞬の悪意」を感知している
この子はいったい何を感知していたのでしょう。たぶん鬼の心に兆した「一瞬の悪意」のようなものを感知しているのだと思います。「一瞬の悪意」が微細な足どりの変化、息づかいや体臭の変化として現れる。
これは小さな子どもが危険な環境を生き延びるためには、たいへん重要な能力だと思います。太古の時代に、人間たちの生活圏にはさまざまな危険がありました。異族や野獣と遭遇した時に、「戦って勝つ」という可能性は子どもにはまずありません。遭遇してから逃げ始めても間に合わない。
でも、危険なものに遭遇するよりはるか手前で「このままこの方に向かって歩き続けると『なんだか悪いこと』が起こりそうな感じがする」というアラートが鳴って、歩みを止めて、方向転換すれば、危険に遭遇しなくて済む。子どもに大人を倒せる戦闘能力やライオンに走り勝つ走力を求めるより、「悪いことが起きる予兆を感じる能力」を育てる方がはるかに効率的です。
■「ざわざわする」能力の育成をやめてしまった
そう考えたら、「かくれんぼ」もそうですね。何も見えないし、何も聴こえないのだけれど、「そこ」に何かが隠れているということがわかる。そういう気配がする。「邪気」とか「殺気」とかを感じ取れる能力は、体力的に弱い個体が生き延びる上では死活的に重要です。ですから、そういう感受性を人類は太古からさまざまな仕方で育ててきたのだと思います。ごく最近まで。ハンカチ落としやかくれんぼは僕の子ども時代まで、1950年代までは子どもたちにとって最も親しみ深い遊びでしたから。
でも、ある時期から、子どもたちが遊びを通じて「危険なものの接近を感じると、ざわざわする」能力を身につけるということを学校でも家庭でも配慮しないようになりました。むろん、第一の理由はそれだけ社会から危険なものが少なくなったということです。それ自体は慶賀すべきことですけれども、だからと言って、この能力を育てる訓練を完全に止めてしまってよいのでしょうか。
■現代社会においても「呪いの言葉」は人の命を奪う
文明社会にもさまざまな「異族」や「野獣」は姿かたちを変えて蟠踞(ばんきょ)しています。
![内田樹『勇気論』(光文社)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/0/1200wm/img_e0beeae5e46e4076652318acf1b80f0978731.jpg)
例えば、SNSでの心ない書き込みのせいで自殺する人はいまも少なくありません。これは現代社会においても、「呪いの言葉」に人の命を奪うだけの力があることを示しています。「呪殺」なんて前近代のもので、もうそんな非科学的なものはなくなったと思っている人が多いかも知れませんが、そんなことはありませんよ。いまでも呪いは十分に有効です。だから、呪いの言葉を他人に投げつける人は多くが匿名を選びます。呪いが相手にうまく届かないと、それは発信者に戻ってくることを知っているからです。return to senderです。それを避けるために発信者名を明らかにしない。
ですから、僕はSNSの荒野を歩く時には、太古と同じように、「こっちへ行くと、何か悪いことが起こりそうな気がする」と感じたら、足を止めて、そっと方向転換するようにしています。ディスプレイに並ぶ文字列を遠くから一瞥しただけで「これは読んではいけない」ということがわかる。「読むと魂が汚れるテクスト」「読むと生命力が減殺されるテクスト」というものがこの世には存在します。存在するどころか、巷はそういうテクストにあふれています。そういうものにはできるだけ近づかない方がよい。それを遠くから感知してアラートが鳴るような設定にしておく。僕はそうしています。
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神戸女学院大学 名誉教授、凱風館 館長
1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。2011年、哲学と武道研究のための私塾「凱風館」を開設。著書に小林秀雄賞を受賞した『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)、新書大賞を受賞した『日本辺境論』(新潮新書)、『街場の親子論』(内田るんとの共著・中公新書ラクレ)など多数。
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(神戸女学院大学 名誉教授、凱風館 館長 内田 樹)
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