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なぜ巨人は12年間も「日本一」が獲れないのか…名将・広岡達朗さん「今の巨人に圧倒的に欠けているもの」

プレジデントオンライン / 2024年5月24日 10時15分

試合前、メンバー表交換に臨む巨人の阿部慎之助監督=2024年4月18日、甲子園 - 写真=時事通信フォト

野球監督には、どのような素質が必要なのか。ジャイアンツの内野手として活躍し、監督時代はヤクルトスワローズなどを日本一に導いた広岡達朗さんは「ジャイアンツの阿部慎之助新監督に私はとても期待している。阿部には前任監督の時代にはなかった『ジャイアンツらしさ』を感じる」という――。

※本稿は、広岡達朗『勝てる監督は何が違うのか』(宝島社)の一部を再編集したものです。

■世間を騒がせた「罰走」は無駄なのか?

阿部新監督の野球観とはどのようなものなのか?

たまたま高校時代からの縁があったこともあって、彼の行く末については、私としてもとても興味深かった。だから、彼が現役を引退してからは阿部に関する報道には特に注目していた。

ある日、スポーツ新聞を読んでいて、「ほぅ」とうなった。

阿部が二軍監督時代のことだ。プロアマ交流戦において、ジャイアンツの二軍は早稲田大学に敗れた。その試合後、彼は選手たちに罰走を命じた。

大学生相手に6対9で敗れた試合後、阿部はベンチ入りしていた全選手を集めて、PP(両翼ポール間をランニングする練習メニュー)を命じたという。この試合で9四死球を与えた投手陣は15往復、それ以外の選手は10往復だった。

この一件が大々的に報じられると、海の向こうのダルビッシュ有がTwitter(現・X)で反応。こんな発言を残している。

「自分が日本ハムに入った2005年より前ぐらいから当時のコーチたちと半ば喧嘩しながらも、無駄なランニングを排除していったのが現オリックス中垣征一郎さんです。球団首脳にも理解があったから2005年にはすでに日本ハムには無駄なランニングがなかった」

■それでも「ドンドン罰走をやっていきたい」

阿部の罰走に対して、暗に「無駄なランニング」と断じたのである。さらに、「才能のない選手の場合、試合で活躍するには走り込みは必要では」という、ファンからのツイートに対してはこんな意見を開陳している。

「逆にそれで才能のある選手がかなり潰されています。そもそも自分が走り込み、投げ込みを高校、プロとしていたらまずここにはいません。本来なら自分より才能のある同級生はもっといたはずです」

やはりここでも「走り込み信仰」に対して批判的な意見を述べている。それでも阿部は動じなかった。私としても、ダルビッシュに対しては、「正しいことを言って何が悪いのだ?」という思いだった。阿部は言った。

「選手たちには『オレたちはこれだけ厳しい練習を積んできたんだ』と自信をつけてほしい」

世間が騒いでいる中で、このように平然と語ったのである。ダルビッシュの発言もあり、世間からは「前時代的だ」とか「パワハラだ」という批判も多かった。それでも阿部は動じなかった。その年のオフには、こんな発言も残している。

「若手選手には、『絶対に二軍に行きたくない』と思ってもらうように、これからもドンドン罰走をやっていきたい」

■原監督時代にはない「厳しさ」が阿部にはある

その心意気や、よし。私は快哉を叫びたい思いだった。 

近年のジャイアンツに決定的に欠如していたのが、この「厳しさ」だった。指揮官である原監督には、圧倒的に厳しさが欠けていた。指揮官の慢心は絶対に選手たちに伝播する。悪い言い方をすれば、選手たちが監督のことをなめてしまうのである。厳しさのない組織は、すぐに、そして確実に堕落する。

この点だけを見ても、「阿部なら、かつてのジャイアンツらしさを取り戻してくれるかもしれない」と、私は希望を持ったのだ。

では、「ジャイアンツらしさ」とは何か。

私が現役時代のジャイアンツは、常に川上哲治さんがにらみを利かせていて、緊張感にあふれていた。「下手なプレーをしたら川上さんに叱られる」という思いが常にあって、ピリピリした空気の中でプレーをしたものだった。

監督ではなく、チームリーダーの川上さんが、チームにいい緊張感をもたらしてくれたのである。当時の「巨人方式」では、指導者があれこれと教えるのではなく、選手間で熾烈(しれつ)なポジション争いを繰り広げることで、自然発生的に切磋琢磨が芽生えて全体のレベルアップがなされていたのである。

■「優しい監督=何も教えない監督」である

しかし、いつの頃からかそんな伝統が薄れていってしまった。

その結果、指導者はロクに教えることもしなければ、選手間の競争意識も薄れることになり、かつての「ジャイアンツらしさ」がすっかり影を潜めてしまった。

こうした風潮に対して、私は危機感を抱いていたのだが、おそらく阿部慎之助もまた同じ懸念を抱いていたのではないだろうか?

自分が引退した後のジャイアンツはどうなるのか? 坂本勇人も、岡本和真も、若手に対してにらみを利かせるタイプではない。

前任である原辰徳は人当たりのいい優しい監督だった。入団前から「若大将」ともてはやされ、チームの顔として爽やかな笑顔を振りまいていた。そしてそれは、指揮官になっても変わらなかった。

私に言わせれば「優しい監督=何も教えない監督」である。

しかし、阿部はあえて「厳しい監督」となろうとしているように見える。「厳しい」ということは、その選手に対する責任感と愛情の裏返しだ。「何とかお前に育ってほしい」という思いがあればこそ、厳しく接することになるのだ。

■ジャイアンツよ、常に気高くあれ

私から見れば、原よりもずっと阿部の方が責任感が強く、選手への愛情も強い人物だと言えよう。二軍監督時代の阿部を見ていて、「お前のやっていることは間違っていない」とエールを送りつつ、同時に「阿部がチーム内で浮いてしまうことはないだろうか?」という不安も抱いていた。

けれども、一軍監督就任までの4年間、彼は決して妥協することなく、初志貫徹を実現した。こうした阿部の姿勢こそ、近年では薄れつつあった「ジャイアンツらしさ」を取り戻す契機となるのではないか?

ジャイアンツよ、常に気高くあれ――。

私が思い描いている理想を、阿部なら実現してくれるのではないか? 私は、そんな期待をしているのである。

かつてのジャイアンツは、常にチーム内に緊張感が充満していた。前述したように、チームリーダーの川上さんが厳しい人だったからである。ご存知のように、私は川上さんと折り合いが悪い時期が長く続いた。

その発端となったのは、私が早稲田大学を卒業してジャイアンツに入団したルーキーイヤーの1954年にある。

青空の下、キャッチボール
写真=iStock.com/MisterClips
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MisterClips

■「真ん中以外のボールは捕らない」と断言した真意

京都の西京極球場で、ショートゴロを処理した私の送球を、ファーストを守っていた川上さんはまったく捕ろうともしなかった。私は無性に腹が立って仕方がなかった。

今から思えば私にも非があるのだが、川上さんに向かって「あの程度のボールを一塁手が捕らないで野球になりますか!」と詰問してしまったのである。

あの頃の川上さんは自分の身体を中心とした四角い枠に収まるボールしか捕ろうとしなかった。ワンバウンドなど論外で、大きく足を広げたり、目いっぱい腕を伸ばしたりして捕球するということは皆無だった。

実際に川上さんは私を部屋に呼んで「オレは真ん中以外のボールは捕らない」とハッキリと言った。私は「なぜ捕らないのか? どうして練習しないのか?」と言いたいのをグッとこらえるのに必死だった。

こうした厳しさで他の野手陣に「きちんと送球しなければ」という意識を植えつけようとしていたのか、それとも単に守備に関する意欲が欠如していたのかはわからないが、私は「困ったことになったな」と悩んでいた。

そんなときに、私とショートのポジションを争っていた平井三郎さんが救いの手を差し伸べてくれた。平井さんは私にそっと耳打ちをした。

■「今に見てろよ」という反骨精神が選手を育てる

「ヒロ、負けるなよ。川上さんをぎゃふんと言わせるような正確な送球をすればいいんだ」

千葉茂さんにも同様の言葉をかけてもらった。この言葉がどんなに救いとなったことか。だからこそ、私は必死に練習をした。その根底にあったのは、「絶対に川上さんに文句を言わせないぞ」という反骨精神だった。

その点、川上さんもフェアだった。私がいいボールを投げれば「ヒロ、今のはよかったぞ」と言い、少しでも逸れれば「どこに投げているんだ!」と罵声が飛んだ。

改めて振り返ると、いかに理想的な組織だったのかと感じる。

中心となるリーダーが徹底的に厳しさを押し出せば、当然、他の選手は「よし、今に見てろよ」と反発心を抱き、さらに努力するようになる。そして、その姿を先輩たちが陰でサポートする。こうした相乗効果は確実にチームに好影響をもたらす。

南海ホークスから移籍してきた別所毅彦さんも厳しい人だった。私は何度も「あんなへたくそなショートがいたら、オレは勝てない」とハッキリと言われた。

当時は悔しくて仕方なかったけれど、今では川上さんにも、別所さんにも感謝の思いしかない。強い組織のあり方を教えてくれたからである。

幸いにして、前述したように阿部新監督には、随所に「厳しさ」が垣間見える。彼はジャイアンツの伝統でもあるピリリとした緊張感を、再びチーム内にもたらすことができるのだろうか?

■現役引退後に20キロ以上のダイエットに成功

2021年から2023年にかけて、ジャイアンツはリーグ優勝を逃した。2年連続Bクラスとなったことで、原監督の下で監督としての英才教育を受けていた阿部が「V逸」の詰め腹を切らされるのではないかという報道もあったが、原が勇退したことで、阿部にチャンスが巡ってきた。

彼はこのチャンスを絶対に逃してはならない。

現役晩年の頃と比べて、阿部はかなりスリムになった。報道によれば、現役時代の最高体重と比べて20キロ以上もダイエットに成功したという。現役引退後、指導者に転じるにあたって、阿部は自らの意思でスリムになることを決意した。「初めはダイエット目的だった」と語っているが、そこには「継続することの大切さを、身をもって示したい」という思いもあった。

■厳しい指導とパワハラはまったく違う

埼玉西武ライオンズ監督時代の辻発彦が、私のことを見習って「いつでも自分で(選手に)手本を示せるように、体型維持を心がけている」と述べていた。阿部もまた同様の志を持っていたのだ。

二軍監督時代には、選手たちに対して、「自分で考えて動くこと」を説いていたという。それを称して阿部は「行動」ではなく、「考動」という造語を用いていた。

伸び盛りの若い選手はほんのちょっとしたきっかけで飛躍的に技術が向上することがある。指導者が自らの理念を掲げ、根気強く練習につき合っていくことが大事であるが、二軍監督時代の阿部は、なかなかいい指導をしていたように思う。

そんな阿部新監督に何よりも伝えたいのは、「世間の意見は気にするな」ということである。先に挙げた「罰走騒動」に見られるように、現在では少々厳しい指導をすると、すぐに「パワハラだ」と非難され、やがては凄まじいバッシングの集中砲火を浴びることになってしまう。

しかし、我々はプロ野球界の住人である。

厳しく自己を律したプロフェッショナルたちが一丸となって、日々勝利を目指していかねばならぬのである。自分を律することができぬ者、チームとしての調和を乱す者がいれば、厳しく指導するのが指導者の役目である。

それは決してハラスメントではない。

■信念を貫き、世の中を変えよ

世間が何と言おうと関係ない。自分の言動に自信と責任を持った上で、「黙ってオレについてこい!」という気概がなければならない。阿部にはその気概がある。

決して妥協することなく、自分の信念を貫き、そしてきちんと結果を残せば、選手たちはもちろん、世間もまた変わってくる。世論も変わるはずだ。

広岡達朗『勝てる監督は何が違うのか』(宝島社)
広岡達朗『勝てる監督は何が違うのか』(宝島社)

危害の及ばない安全な場所から無責任なことを言う人間はたくさんいるだろう。そんな者の言葉に耳を傾けたり、心を痛めたりする必要など微塵もない。

死ぬ気でやり抜けば、必ず阿部の真意は選手にも、世間にも伝わる。

私はこれまでずっと、「どんな選手でも根気強く指導すれば必ず成長する」と言い続けてきた。それは今回も同様だ。

信念を持って死ぬ気で取り組めば必ず世間も変わる――。阿部には、ぜひとも頑張ってもらいたい。

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広岡 達朗(ひろおか・たつろう)
野球解説者
1932年、広島県呉市生まれ。早稲田大学教育学部卒業。学生野球全盛時代に早大の名ショートとして活躍。1954年、巨人に入団。1年目から正遊撃手を務め、打率.314で新人王とベストナインに輝いた。引退後は評論家活動を経て、監督としてヤクルトと西武で日本シリーズに優勝し、セ・パ両リーグで日本一を達成。1992年、野球殿堂入り。2021年、早稲田大学スポーツ功労者表彰。『動じない。』(王貞治氏・藤平信一氏との共著)、『巨人への遺言』『中村天風 悲運に心悩ますな』『日本野球よ、それは間違っている!』『言わなきゃいけないプロ野球の大問題』『プロ野球激闘史』(すべて幻冬舎)など著書多数。

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(野球解説者 広岡 達朗)

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