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赤穂四十七士の行動は決して無駄ではなかった…一度は廃城にされた赤穂城が「日本屈指の復元城」になるまで

プレジデントオンライン / 2024年5月22日 18時15分

赤穂城(写真=663highland/CC BY-SA 3.0 DEED/Wikimedia Commons)

天守が現存する城は全国に12しかない。それ以外の城の「歴史的価値」は無いのだろうか。歴史評論家の香原斗志さんは「例えば、兵庫県にある赤穂城は、明治時代に廃城となったが、地元の努力で整備が進み、城全域が往時の姿を取り戻している」という――。

■「忠臣蔵」の前にあったもうひとつの刀傷事件

将軍の居所である江戸城内で刀を抜くことは、固く禁じられていた。ましてや江戸城の中枢である本丸御殿の松之廊下でのできごとだから、申し開きの余地はなかった。

元禄14年(1701)3月14日、京都から下向した勅使の接待役だった、播磨国(兵庫県南西部)赤穂(赤穂市)の藩主、浅野内匠頭長矩は、高家(儀式や典礼を司る役職)である吉良上野介義央に斬りつけた。長矩はすぐに一関(岩手県一関市)藩主の田村家に預けられ、即日切腹を命じられて、浅野家は断絶となった。

その後、家老の大石内蔵助義雄を中心とする四十七士が、吉良を斬って主君の仇を討ったことは、よく知られる。現在も赤穂城の三の丸には、旧大石邸の長屋門が残り、主君の刃傷事件を伝える早籠が到着して、その門扉を叩いたと伝えられている。

だが、じつは赤穂城主による刃傷事件は、浅野長矩がはじめてではなかった。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、播磨52万国の太守になって姫路城(兵庫県姫路市)を本拠地とした池田輝政は、一族の池田長政を赤穂に置いた。輝政の死後、赤穂は、備前(岡山県南東部)に25万石をあたえられ岡山城(岡山県岡山市)を居城とした輝政の次男忠継の所領になり、忠継が没すると、輝政の五男の政綱に分与された。

3万5000石をあたえられて赤穂藩を立てた池田政綱だったが、世継ぎがなかったので弟の輝興が相続した。ところが、正保2年(1645)に、この輝興が乱心して正室のほか侍女数人を惨殺。岡山藩にお預けとなり、所領を没収されている。

■完成してちょうど40年で明け渡し

このときまで、赤穂城は簡略な城だったと考えられている。池田輝興に代わり、5万3500石の領主として赤穂に入封したのは、浅野長矩の祖父で、常陸(南西部を除いた茨城県)から移封になった長直だった。長直は、東は千種川、西と南は播磨灘に面した地に、まったく新たに城を築いた。

築城にあたっては、甲州流の軍学者であった近藤正純が縄張りを担当。このため、寛文元年(1661)に完成した赤穂城は、武田信玄の戦術を理想とする甲州流軍学に裏打ちされ、石垣が複雑に屈曲を重ねる、きわめて実践的かつ個性的な城になった。

赤穂城本丸庭園
浅野氏によってつくられた「旧赤穂城庭園」。趣ある庭園は、哲学者・山鹿素行も制作にかかわった。(写真=663highland/CC BY-SA 3.0 DEED/Wikimedia Commons)

浅野家が改易となったのは、それからちょうど40年後のことだった。むろん、赤穂城は明け渡されることになった。浅野長矩が刃傷事件を起こしてから、城が明け渡されるまでを追ってみよう。

元禄14年(1701)3月14日、午後6時に切腹を申し渡された長矩は、すぐに田村邸で自刃。午後10時ごろ、赤穂藩士が遺体を引きとって泉岳寺に葬った。翌15日、龍野(兵庫県竜野市)藩主の脇坂淡路守と足守(岡山県岡山市)藩主の木下肥後守が、「赤穂城受城使」に任じられた。

「受城」とは、改易になった大名の居城を接収することを指す語で、このとき脇坂は赤穂への「在番」も命じられている。

■重臣・大石内蔵助の断腸の思い

その後の浅野家中の苦難はいうまでもないが、龍野藩もまた大変だった。3月20日に「受城使」への任命状が届けられ、21日には家老を通じて藩士たちに、「受城」や「在番」の心得が伝えられた。23日には「受城」と「在番」の人員が発表されている。

大石内蔵助
大石内蔵助〔写真=赤穂大石神社所蔵/PD-Art (PD-old-100)/Wikimedia Commons〕

3月26日、受城の日程が4月19日と決まると、今度は赤穂城の浅野家中に向けて、4月15日までに退去すべしとの命が下った。刃傷事件からわずか1カ月で、赤穂藩士たちは城と城下を後にしなければならなくなったのである。

だが、龍野藩も振り回される。3月28日、脇坂淡路守は江戸城に登城して、赤穂城の「受城」の御墨印を受けとると、30日には江戸を発った。少し遅れて4月5日、龍野藩士の天野勘介が、赤穂城図などの写しを江戸から持ち帰っている。

4月9日には、龍野藩士が赤穂城下に下見に入ったと聞き知った大石内蔵助が激怒するという「事件」も起きた。幕命で動いているのに、激怒される龍野藩士も気の毒だが、赤穂藩士たちも12日、話し合いの末、赤穂城を明け渡すことを正式に決めている。さぞかし断腸の思いだったことだろう。

■接収費用はたった10万円

4月14日、脇坂淡路守が龍野に到着。4日後の18日、出発の用意が調うと、午前9時に脇坂淡路守の本隊が龍野を発ち、12時間後の午後9時に赤穂に到着している。このとき従事した人数は4545人。さながら出陣だった。

そして、翌19日午前6時から赤穂城の「受城」が開始され、正午には書類などの手続きが完了。20日午後4時半ごろ、在番要因284人を赤穂に残して、脇坂淡路守は赤穂を発っている。

これだけの手間をかけて「嫌な」仕事をした龍野藩に、幕府から「受城」の費用として支給されたのは、4貫215匁7分厘。いまの貨幣価値で10万円くらいだろうか。「やっていられぬ」という悲鳴が聞こえそうだが、逆らえば龍野藩がお咎めを受けるから、やるしかなかった。

むろん、ここで終わったわけではない。まだ次の城主が決まっていないから、「在番」として、屋敷改帳などの記録と現況を突き合わせながら、城の維持管理に務めなければならなかった。その役割からやっと解放されたのは、それから1年半をへた翌元禄15年(1702)11月4日。下野(栃木県)の烏山城(那須烏山市)の城主だった永井直敬が、赤穂に移封になったときだった。

■民家を立ち退かせて整備を進めた

そんな赤穂城は、かつては海に突き出した海城だったが、いまでは周囲が埋め立てられて海は遠くなっている。それは残念だが、現在、赤穂城を訪れると、前述した甲州流軍学にもとづいて縄張りされた城郭を堪能できる。保存状態がよいから、というよりも、徹底的な整備の賜物である。

戦前に空撮された赤穂城址の写真を見ると、水堀はすっかり埋められている。昭和40年代ごろから、本丸周囲の堀が一部復元されるなどしたのち、昭和56年(1981)、本丸にあった兵庫県立赤穂高校が移転すると、整備に弾みがついた。

1930年代の赤穂城
城というより学校の方が目立つ1930年代の赤穂城(写真=朝日新聞社「新日本大観附満州国 レンズを透して見たニッポンのガイドブック」より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

以後、本丸には庭園が復元され、御殿の跡も間取りがわかるように平面整備された。石垣や土塁も修復および復元され、建造物も平成8年(1996)に本丸門、同13年(2001)に厩口門が復元された。

本丸の周囲を囲む多角形の二の丸も、民家をすべて立ち退かせたうえで、三の丸とのあいだに堀が復元され、広大な庭園もすっかり復元された。石垣のほか土塀や門の復元は、二の丸でも進んでいる。

二の丸の北側2方向に被さるように配置された三の丸は、すでに昭和30年(1955)に大手門の高麗門や大手東北隅櫓が、明治初年に撮られた古写真をもとに再建されていたが、平成14年(2002)には、明治時代に破壊された大手門の枡形が整備、復元された。大石内蔵助邸や近藤源人邸の長屋門も解体修理された。

赤穂城
平成8年に木造の伝統工法で復元された赤穂城の本丸門。(写真=663highland/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons)

三の丸も、この2棟と大石神社の社殿等を残し、ほかの建造物はすべて撤去され、いまも整備が進められている。

■これまでの「残念な復元城」とはまったく違う

同じ兵庫県、それも同じ播磨(南西部)には姫路城もある。赤穂城はどうしても比較の対象になってしまう。だが、じつは赤穂城も、世界遺産の姫路城とくらべると分が悪いとはいえ、かなりの歴史的価値がある。

昨今、城跡の整備に力を入れる自治体が増えてきた。そんななか、赤穂市および兵庫県による史跡整備は、全国でも例外といえるほど徹底している。いったんは破壊が進んだ城であっても、やる気になればここまで戻せるのか、と勇気づけられる。

天守や櫓、あるいは門の復元など、「点」にかぎられた整備は多いが、赤穂城は「面」の整備に力が入れられている。訪れた人は、城域全体を歩いて楽しみ、広大な城郭の姿を堪能できる。その点では、多くの建造物が広域に現存して「面」を楽しめる姫路城に近い。

たとえば小倉城(北九州市小倉北区)は、二の丸跡に派手な色彩の奇抜な建物が衝立のように並び、歴史的景観を暴力的に破壊している。しかも、その建物には放送局や新聞社、劇場といった、公共性が高く文化に理解があるはずの組織が入っており、日本の「文化度」を思い知らされる。

日本にはそんな城が非常に多いだけに、赤穂城を見ると救われた気持ちになる。

赤穂城が有名なのは、やはり四十七士のおかげだろう。有名だからこそ整備計画が進んだのだとすれば、赤穂浪士たちの行動は、浅野家の名と城を今日にまで伝えることにつながったという点でも、報れていたのかもしれない。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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