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戊辰戦争後に「見せしめ」で破壊された…新政府軍の1カ月にわたる猛攻に耐えた会津若松城をめぐる悲劇

プレジデントオンライン / 2024年5月29日 22時25分

2019年5月、新緑と若松城址・鶴ヶ城天守閣(福島県会津若松市) - 写真=時事通信フォト

1868年8月から9月にかけて、新政府軍と旧幕府軍の間で会津戦争が起こった。歴史評論家の香原斗志さんは「新政府軍による猛攻に会津若松城は耐えた。だがその戦いの後、明治政府によって城は徹底的に破壊されてしまった」という――。

■新政府軍の見せしめになった会津若松城の運命

明治維新を迎えた時点で、日本には193の城が存在していた。純然たる城のほかに、城持ちでない3万石以下の大名の藩庁が置かれた陣屋や、同様に城に準じていた要害を加えると、事実上の城の数は300を超えていた。

それらにとって決定的なダメージになったのが、明治6年(1873)1月14日、明治政府が出した「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」、いわゆる「廃城令」だった。

明治4年(1871)に廃藩置県が断行されると、城を本拠とする藩という組織が消滅したうえ、旧藩主は華族となって東京への移住を義務づけられ、城は荒(すさ)むしかなくなっていた。

そこに出された「廃城令」によって、全国の城は、軍隊の基地として利用可能なものと、不要なものに二分された。より具体的には、陸軍の財産として残す「存城」と、普通財産として大蔵省に処分させる「廃城」に分けて、両省に通達したのである。

以後、「廃城」になった城の建造物は次々と払い下げられ、それを受けて取り壊されていった。また、「存城」とされても、あくまでも軍隊の基地として活用するために残すにすぎず、軍が駐屯するのに邪魔な建造物などは、どんどん取り壊された。

だが、こうした決定を受ける前に破壊されてしまった城もあった。すなわち、戊辰戦争に際して、新政府軍がいくつもの城を破壊したのである。なかでも見せしめになったのが会津若松城(福島県会津若松市)だった。

■戊辰戦争で徹底して破壊された幕府方の城

徳川四天王のひとり、本多忠勝が築いた桑名城(三重県桑名市)も、新政府軍の餌食になった。

慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで敗戦後、桑名藩主の松平定敬(会津藩主松平容保の実弟)は、将軍徳川慶喜らとともに江戸に逃亡した。その後、桑名城は無血開城したが、新政府軍は開城の証として、三重の辰巳櫓を焼き払った。この櫓は元禄14年(1701)に天守が消失後、その代用とされてきた桑名城のシンボルだった。

同年4月には、宇都宮城(栃木県宇都宮市)が、新政府軍と幕府軍による宇都宮戦争の舞台となり、二度の攻城戦をへて、城内も城下の町々もほとんどが焼失してしまった。

東北地方を中心に、新政府に同意できない諸藩が結成した奥羽越列藩同盟側の城は、とくに大きな被害を受けた。長岡城(新潟県長岡市)は、藩主である牧野家の家臣、河井継之助が率いる藩兵が、慶応4年(1868)5月から7月にかけて戦った北越戦争に際し、ほぼ全域が焼失した。その後、城地は市街地になり、いまは城の名残すらない。

また、白河小峰城(福島県白河市)は同年閏4月から7月にかけ、白河口の戦いの舞台になった。このため、天守の代用とされていた三階御櫓をはじめ、大半の建造物が焼失している。同年7月の二本松の戦いで落城した二本松城(福島県二本松市)も、攻城戦の際にほとんどの建造物が失われてしまった。

■新政府軍の攻撃に耐えた会津城

周知のとおり、戊辰戦争最大の激戦になったのは、同年8月から9月にかけて繰り広げられた会津戦争だった。会津勢は会津若松城に立てこもり、包囲した新政府軍から1カ月にわたって砲撃を受けた。

新政府軍は城の東側から、天守を目標に砲弾を放ち続けた。このため、会津戦争終了後に撮られた五重五階の天守の写真を見ると、3階と4階を中心に大きく損傷している。とはいえ、建物が焼失することはなく、天守にしても基本構造が大きなダメージを受けたわけではなかった。そして城は攻防戦に耐え、落城することもなかった。

損傷した会津戦争後の若松城。1868年撮影。
損傷した会津戦争後の若松城。1868年撮影。(写真=『会津戊辰戦史』1933年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

会津若松城は会津盆地の東南端部の、周囲よりやや高い独立丘陵上に位置している。丘陵の西端に広い本丸を置き、東側に二の丸、さらに東側に三の丸が、水堀を隔てて配置されている。また、本丸の北側に北出丸、西側に西出丸が配され、それぞれ水堀に囲まれ、本丸と土橋で結ばれていた。

そして、本丸は中央に天守が建つほか、塁上には7棟の二重櫓が配されていた。また、東北の城にしては珍しく、本丸のほか北出丸や西出丸も石垣で固められていた。

西国にくらべると築城技術が遅れていた東北の城だが、蒲生氏郷や加藤嘉明ら築城法に精通する武将が整備したため、極めつきの堅城に仕上がっていた。だから、新政府軍に1カ月も包囲されながら、最後まで持ちこたえたのである。

■保存運動もまったく相手にされなかった

ただし、城こそ落城しなかったものの、会津藩は板垣退助による降伏勧告を受諾し、新政府軍に降伏した。

こうして、会津若松城は明治元年9月22日に開城し、すぐに新政府軍に引き渡され、兵部省の所管となって仙台鎮台の管理下に置かれた。また、明治政府は会津藩のすべての領地を没収して直轄地とし、翌明治2年(1869)には、廃藩置県に先立って若松県が設置されている。

若松県庁には本丸御殿の表向の建物が当てられた。このため、若松県が会津若松城の管理をすることになったのだが、残念なことに、城は新政府軍に抵抗したことへの見せしめとして扱われる運命にあった。明治2年秋には早速、県庁が置かれた本丸御殿表向以外の建物の解体がはじまっている。

そして、明治7年(1874)までには、県庁として使われていた旧御殿をふくめ、すべての建物が解体されてしまった。旧藩士たちが保存を求めて運動しても、まったく受け入れられなかったのである。

■奇跡的に残った往時を偲ばせる建物

ちなみに、会津若松城は前述した明治6年のいわゆる「廃城令」では、「存城」となっている。にもかかわらず、若松県の権令だった沢簡徳は、明治政府に城郭建造物の取り壊しを建言している。

澤簡徳(1830~1903)
沢簡徳(1830~1903)(写真=東京市日本橋区役所『新修日本橋区史』下巻、1937年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

それを受けて明治7年(1874)1月、陸軍省は仙台鎮台に、旧若松城内は陸軍の営所を建築する場所だという理由で、「石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取り壊し払下げすべく」という内容を通達している。

もちろん、「陸軍の営所」云々というのは方便である。会津若松城は、旧会津藩士の精神的支柱だった。裏返せば、明治政府にとっては、反新政府の象徴だったことになる。そこに建造物を残しておくことで、旧幕府方の人々がふたたび結集したり、士族の反乱につながったりすることを、彼らは強く恐れた。だから取り壊す以外の選択肢を認めず、破壊を急いだのである。

それでもひとつだけ、かつて会津若松城に建っていた建造物が残っている。沢簡徳の建言が出される以前の明治3年(1870)、本丸中奥に建っていた三重の楼閣状の建物「御三階」が、本丸御殿大書院の唐破風の表玄関と一緒に、会津若松市内の阿弥陀寺に移築されていた。この表玄関が御三階の玄関に転用され、両者が一体となって現存する。

■鉄筋コンクリート造でも往時の姿に

明治政府からそういう扱いを受けただけに、天守再建は会津の人々の悲願だったという。昭和32年(1967)の戊辰戦争90周年記念祭で、天守再建の決議文が読み上げられてから再建熱が一気に高まり、同39年(1964)に鶴ヶ城天守閣再建期成同盟が結成された。

幸いにも、明治初年に撮られた比較的鮮明な古写真が複数残っていた。文献史料等も参考にしながら、東京工業大学教授で、熊本城や和歌山城などの外観復元も手がけた藤岡通夫氏が外観復元天守を設計し、同40年に竣工した。鉄筋コンクリート造だが、古写真と比較しても外観はかなり正確に再現されている。

平成23年(2011)には大きな改修が加えられた。屋根瓦がすべて赤瓦に葺き替えられたのである。

会津若松城の建造物も、当初は一般的ないぶし瓦が葺かれていたようだが、寒冷地のため、上薬が塗られていないいぶし瓦は、雪が解けるときに水が染み込み、その水分が凍って瓦が割れる。このため、寛永20年(1643)に入封した三代将軍徳川家光の弟の保科正之は、上薬を塗って水分を吸収しにくくした赤瓦を使うことにしたのだ。

その瓦までが再現され、いま会津若松城天守は外から眺めるかぎり、新政府軍が取り囲む以前の姿を取り戻している。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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