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とにかく一刻も早く福井から京都に戻りたい…父の赴任に同行して越前に行った紫式部がやっていたこと

プレジデントオンライン / 2024年5月26日 16時15分

石山寺で源氏物語を書く紫式部(画像=八島岳亭/https://asia.si.edu/object/F1901.166//CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

996年、紫式部は父・藤原為時の赴任に同行して越前へ向かった。歴史評論家の香原斗志さんは「1年ほど、彼女は越前で暮らし続けるが、越前の風物を詠んだ歌や国内を移動した記録は残っていない。父の世話をしながらも、都を懐かしがってばかりいた」という――。

■紫式部の父・為時が「越前」の長官に大抜擢された理由

まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)の父、藤原為時(岸谷五朗)が10年ぶりに官を得て、越前守(現在の福井県東部にあたる越前国の長官)として赴任することになった。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第20回「望みの先に」(5月19日放送)。

第19回「放たれた矢」(5月12日放送)では、為時は淡路守に任命されていた。ただ、当時、68ほどあった国は、国力によって「大国」「上国」「中国」「下国」の4つに分けられていて、淡路国(兵庫県淡路島、沼島)は「下国」だった。ところが、第20回で赴任先が一転、「上国」の越前国(福井県北東部)に変更になったのである。

実際、史料によっても、長徳2年(996)正月25日の除目(大臣以外の官職を任命する朝廷の儀式)では、越前守に源国盛(ドラマでは森田甘路)が任命されながら、その3日後には、為時に変更になっている。

前年9月、若狭(福井県南西部)に宋国人70余人が上陸し、越前に移送されていた。越前守は、交易を求める宋の人たちと折衝する必要があったので、急遽、漢詩文に堪能な為時が抜擢されたと考えられている。

■為時が活用したかったまひろの能力

『今鏡』などに掲載されている説話によれば、淡路守に任じられたとき、為時は以下の漢詩を書いたという。「苦学の寒夜 紅涙襟をうるほす 除目の後朝 蒼天眼に在り(厳しく寒い夜も学問にはげみ、血の涙で襟を濡らしてきたが、除目の結果を知った翌朝、目には青空が映るだけだ)」。

要するに、努力をしてきたのに、所詮は下国の国守――という嘆きである。これを一条天皇が読んで感涙し、それを受けて、藤原道長が為時を越前守にした――という話になっている。

むろん、説話だから史実かどうかわからない。ましてや「光る君へ」では、この漢詩を添えた為時の申文は、まひろが書いて道長(柄本佑)のもとへ届け、まひろの筆跡を確認した道長が為時を抜擢したように描かれたが、これはドラマの創作である。

とはいえ、為時が漢詩文に通じていていればこそ越前守に抜擢された、ということは、まちがいなさそうである。第20回でまひろは為時に「越前は父上のお力を活かす最高の国だから、胸を張って行かれませ。私もお供いたします」と、笑顔で告げた。史実の紫式部も父に同行し、越前に赴いている。

為時には一緒に下向する妻がおらず、長女もすでに亡くなっていたので(ドラマには登場しないが、紫式部には姉がいた)、紫式部が同行したことに違和感はない。また、紫式部も漢詩文に通じていたので、為時は娘も宋人との交渉に役立てたかった、と考えても無理はないだろう。

写真=時事通信フォト
ふるさと写真館/能登復興願い豆まき
千葉県成田市の成田山新勝寺で2024年2月3日、毎年恒例の「節分会」が行われた。NHK大河ドラマ「光る君へ」主演の俳優吉高由里子さん(右)や岸谷五朗さんらが参加。 - ふるさと写真館/能登復興願い豆まき

■3つの歌からわかる不安

父娘が越前に下向したのは、長徳2年(996)の夏以降のことだった。都を出発した為時一行は、粟田口から山科を経由して逢坂山を越え、大津の打出浜(現在の滋賀県大津市松本町あたり。湖岸が埋め立てられ、びわ湖ホールなどがある)に出ると、そこからは船で琵琶湖西岸を北上した。その途上で紫式部は、さっそく歌を詠んでいる。

「三尾の海に網引く民のてまもなく立ち居につけて都恋しも(琵琶湖西岸の高島の三尾の崎で、漁のために綱を引いている漁民が、手を休めずに、立ったりしゃがんだりしているのを見ていても、都が恋しいものです)」

これまで都にしか住んだことがなかっただけに、早速、故郷が恋しくなったのだろう。また、当時の旅は危険と隣り合わせでもあったから、不安も募ったものと思われる。

「かきくもり夕立つ波のあらければ浮きたる船ぞしづ心なし(空が暗くなって、夕立になるときの波が荒いので、その波に揺られている船の上では、心が不安で落ち着きません)」

琵琶湖北岸の塩津(長浜市西浅井町)に上陸すると、国境の塩津山を越えて敦賀(福井県敦賀市)に入った。そこはもう越前である。そして山を越えたところで、彼女の輿をかつぐ人足たちに諭すように歌を詠んだ。

「知りぬらむゆききにならす塩津山よにふる道はからきものぞと(わかったでしょう、あなたたちは往き来に慣れている塩津山だけど、世を渡っていく道としては、塩という名であっても、つらいものだと)」

むろん、諭しているように聞こえて、これからの越前での暮らしへの不安が詠まれているものと思われる。

■積極的に外出したという記録はない

難路はまだ続き、湯尾峠(福井県南越前町)を越えてやっと越前国府(越前市)に到着した。敦賀から先で詠んだ歌は『紫式部集』に載せられていない。このため倉本一宏氏は「よほどたいへんだったのか、思い出したくなかったのであろう」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)と記す。

いまでは京都から、越前国府があった武生までは、特急と北陸新幹線を乗り継げば1時間半足らず、自動車でも2時間余りで到着するが、当時の都の人にとって、越前は遠く離れた国だった。『延喜式』には都からの日程は「四日」と記されているが、これは租税を運ぶための日程で、国司が下向する際は同行者や荷物も多く、もっとかかったと考えられる。

さて、遠い越前国で、紫式部はどう過ごしたのだろうか。「光る君へ」では、宋の人々と積極的に交流するようだ。それはドラマだからいいとして、少なくとも、紫式部が越前で積極的に外出したという記録を見出すことはできない。

都より寒い越前で初雪を迎えると、彼女は「暦に初雪ふると書きつけたる日(暦上に『初雪が降った』と書きつけた日)」に、次のような歌を詠んでいる。

「ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがへる(こちらでは日野岳に群生する杉を埋め尽くすように雪が降っていますが、京都の小塩山の松にも、入り乱れるように雪が降っているのでしょうか)」

■思いはいつも都に向かっていた

紫式部が書きつけた「暦」がなにを指すのか、正確なところはわからない。ただ、当時は毎年11月、陰陽寮の暦博士が1年分の暦(具注暦)をつくって、宮中のほか中央および地方の官庁にも配布していた。

漢文に通じる紫式部が、父の暦に目を通していても不思議ではない。伊井春樹氏は「女性が暦をみて、どのような日なのかを確かめる習慣はないと思われるので、紫式部は父の事務的な処理もしていたと想像されてくる」と書いている(『紫式部の実像』朝日選書)。

とはいえ、紫式部の思いは「小塩の松」に、すなわち、あくまでも都に向いているのはあきらかである。

京都御所
写真=iStock.com/Alla Tsyganova
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Alla Tsyganova

雪は次第に、日野岳のような山ばかりでなく、平地にも降り積もる。国府の人々が雪をかいて小山のように積み上げると、女房たちは珍しがり、そこに登ってはしゃいでいる。しかし、紫式部は呼びかけられても、うっとうしく感じるだけだった。

「ふるさとにかへるの山のそれならば心やゆくとゆきも見てまし(その雪山が、故郷の都へ帰るという名の鹿蒜山であるなら、心も晴れるかと思って、行っては雪を見てみたいものですが、そうではないので……)」

ちなみに、鹿蒜山は越前の山だが、都に帰るときにはそこを越える必要があった。

■一刻も早く越前から離れたかった

このように紫式部は、越前で暮らし、父の世話をしながらも、都を懐かしがってばかりいたようだ。それから1年ほど、彼女は越前で暮らし続けるが、越前の風物を詠んだ歌はまったく残されていない。前出の倉本氏は「国内のあちこちに出かけることは、ほとんどなかったのであろう」と記している(前掲書)。

都にいたときは、友人と歌を詠み交わしもしたが、そういう記録も残っていない。淋しさを募らせるばかりだったのだろう。

だが、そんなふうに過ごし、厳しい冬を越えて長徳3年(997)の春を迎えたころ、遠縁で旧知の藤原宣孝(ドラマでは佐々木蔵之介が演じている)から、求婚の歌が届いた。そして、何度か歌を交わし合ったのちに、結婚の決心がついた紫式部は、その年末か、翌長徳4年(998)の春、父を残して単身、都へ帰った。

それまで独身を貫いてきた紫式部が、20歳程度は年長の宣孝の求婚を受け入れ、父を置いてまで帰京を急いだ。彼女にとって越前は、とにかく一刻も早く離れたい地だった、ということかもしれない。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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