「アメリカ出張がキャンセルに」…デフレを心配していたリフレ派の私が、なぜ今インフレを心配するのか
プレジデントオンライン / 2024年5月31日 9時15分
■日本の金融政策の歴史を振り返る
1985年のプラザ合意以降、日本銀行総裁は基本的に金融政策を引き締めることと円安を支持していたが――福井俊彦総裁(任期は2003〜08年)の前半を除くと――実際には円高でデフレ気味の経済運営が続いていた。日本経済は需要が不足してデフレ基調で低迷し、企業も新しい投資を抑えたため労働市場に活気がなかった。投資がなければ技術の進歩も期待できず、国内の生産性の向上も見られない「低圧経済」であった。
この状態を打ち破ったのが、2012年からの第2次安倍晋三政権だ。日銀総裁に黒田東彦氏を任命し、従来よりもはるかに積極的な「異次元の金融緩和政策」を実施した。円安が進み企業収益が増加し雇用も活発化、特に女性を中心とする雇用市場を拡大した。日本経済に活気が戻ると、企業も新しい投資に積極的になり、生産性も向上した。この段階では私は、円高を阻止して日本経済に活気をもたらした、いわゆる「高圧経済」の政策方向に大賛成であった。
ところが近ごろは、事情が一変して円高でなく円安のほうが目立つようになった。日本の学者が海外出張で私に会いに来る約束があったのに、「アメリカ出張ができなくなりました」という連絡をもらうことがある。おそらく円安になって航空料金や旅費が高くなり、研究費で賄いきれなくなったのであろう。日本の学者が、特に若い人たちが、頭の柔軟なうちに十分に学問や海外事情、政策論争を現地で学べなくなるのは心配だ。
■アベノミクスはなぜ未完成だったのか
私も、現在の円安は行きすぎているように思う。本連載で何度も紹介しているが、慶應義塾大学の野村浩二教授は、日米間で製品の生産コストが同じになる為替レート(PLI:Price Level Index)を発表していて参考になる。
現在、円・ドルのPLIレートは1ドル=110〜120円にある。為替レートがその間にあれば、日本で生産した製品をアメリカにもっていけば、その製品は日本と大体同じ値段で売れる。ところが現実のように、円・ドルレートがPLIレートよりも円安の1ドル=150円を超えれば、日本で生産された製品はアメリカで安く販売でき、アメリカ製の製品より売れやすくなるわけだ。
日本への旅行会社のサービスも同様の理由で安く、アメリカから観光客が日本に殺到しているのである。いわば「日本投げ売り」の状態であり、日本国民も過度に安いものを外国に提供しているため、経済的にも負担がかさんでしまう。
安倍政権と黒田総裁が登場する以前は、これが逆転していた。そのころは、PLIレートが円高のほうにほぼ恒常的に揺れていた。円高の下では、日本でつくったものが外国では高くなり売れない。したがって、日本国内への投資が抑えられ、日本企業も国内より海外に工場をつくったほうが有利になる。日本が昔の大英帝国のように、海外投資で利益を得る「金利生活国」ないし「宗主国」状態になりかかっていたのである。
それをもとに私は、より円安の方向の緩やかな「高圧経済」が望ましいと説き続けてきた。そして、黒田日銀の円安志向の金融政策の下で、日本経済は――アベノミクス実施時期の四半期の底から頂点までの差をとれば――実に500万人の雇用者を生んだのである。
ただし、アベノミクスが雇用の面でうまくいっていた時期も、物価、そして国民生活に最も関係する賃金は思うように上がらなかった。物価が上がること自体は、賃金が変わらない人や、資産が限られている人にとっては好ましくない。そのため雇用が増えていればいいという見方もある。しかし、あまりにも長いデフレで、経営者の物価上昇への期待が極端に冷え込んだため、賃金も抑えられてしまった。特に、非正規労働者の賃金の上昇が妨げられたことが、アベノミクスの成功を未完成なものにしたといえよう。
■円安が引き起こすインフレの危険性とは
では現状、円安が問題になっているのはなぜだろうか。まず、黒田総裁以前の第2次安倍内閣発足時の円高を考えてみよう。08年、リーマンショックが起こり、不動産抵当証券の価格を保つためにアメリカやイギリスを中心とする諸外国が金利引き下げなどの大幅な貨幣拡張を行ったのに対し、日銀は大きく貨幣拡張を行わなかった。結果、円が相対的に品薄になり、円が高騰したのである。
一方で、新型コロナウイルス禍では、反対のことが起こった。コロナ禍では人と人との接触が危険な状態になったので、生産や取引など経済活動が制限された。
困窮した国民を救済するために、バイデン政権下のアメリカ政府は、インフラ増強の目的も含めて、1.2兆ドルを超える財政拡張を行った。私は正しい施策だと思ったが、規模が大きすぎたきらいがあり、アメリカはインフレに見舞われた。結果、FRBが金利を引き上げ、アメリカは高金利、日本は低金利という大きな金利差のある構図になった。資金は金利の高いほうに流れるため、円安が引き起こされた。
このような国際金融情勢では、日本にはデフレよりもインフレに突入する危険が増していると私は判断する。消費者物価指数は24年3月時点で前年同月比2.7%増とインフレ目標を超えているし、輸入物価指数や企業物価指数も強含みである。金融政策の結果、日本はデフレの国だと信じているだけで、データを見て日本もインフレになるとわかれば、日本国民の物価上昇期待も変わるし、インフレを阻止する要因がなくなる。
私がインフレを心配しているのは、ブレトンウッズ体制崩壊後、日本の消費者物価が二桁の上昇率を示し、福田赳夫(たけお)蔵相(当時)が「狂乱物価」と表現した1974年と、現在の物価上昇パターンが類似しているからである。
リフレ派の浜田がインフレを心配するのはおかしいと思われるかもしれない。しかし、ケインズが言ったように、状況が変わったら意見が変わるのは当然のことなのである。
植田和男日銀総裁は、金利引き上げの副作用が過剰にならないようにしているのだろう。23年、アメリカのシリコンバレー銀行では金利の急な引き上げで有価証券の価値が下がり、預金者が一斉に預金を引き出す「取り付け騒ぎ」が起きた。
しかし、有価証券の取引が中心のアメリカの銀行に対して、日本の銀行は伝統的に融資による利ザヤを重視しているので、アメリカの投資銀行が陥ったような危険はなさそうだ。
日本経済研究センターのレポート「マイナス金利解除後の日銀の金融政策」はむしろ、金利引き上げで地方銀行や信用金庫の収益が圧迫されることが予想されるが、日銀は特別付利という追加の金利を支払い、収益を補填しているとし、追加金利の総額は26年度までに2500億円に達する見込みだという。インフレ対策としての金利政策が行える土壌はつくられつつあるだろう。
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イェール大学名誉教授
1936年、東京都生まれ。東京大学法学部入学後、同大学経済学部に学士入学。イェール大学でPh.D.を取得。81年東京大学経済学部教授。86年イェール大学経済学部教授。専門は国際金融論、ゲーム理論。2012~20年内閣官房参与。現在、アメリカ・コネチカット州在住。近著に『21世紀の経済政策』(講談社)。
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(イェール大学名誉教授 浜田 宏一 写真=アフロ)
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