企業の「しかたがない」は、お客には関係ない…松下幸之助が「開発中の超薄型ラジオ」に激怒したワケ
プレジデントオンライン / 2024年5月31日 10時15分
■「製品そのもの」で勝負すべき
昭和40年代に松下電器の生産技術研究所が、部品自動挿入機械の「パナサート」を開発した。その10年後、これを他のメーカーに売るかどうかが役員会でとりあげられた。独自に開発した生産機械を、競争メーカーに売る必要があるかどうかということである。
そのとき、幸之助はつぎのように言った。
「生産機械は確かに大切だが、松下はあくまでもできあがった製品そのもので勝負すべきだ。それにこの機械をよそのメーカーさんにも使ってもらい、いろいろと批判していただければ、もっといいものができるだろう」
結局、外部へ売ってもよいという結論になり、パナサートは他のメーカーでも使われるようになった。
当時、競争メーカーに松下製の部品を売ることにひっかかりを感じていた営業社員たちも、この言葉を伝え聞いて胸のつかえのとれる思いがし、営業に打ち込むことができるようになったという。
■「基本の性能」を落としてはいけない
ラジオがどんどん小型になり、その競争が激しく展開されていたころの話である。ラジオ事業部の事業部長と技術責任者が、開発中の超薄型ラジオを持って幸之助を訪ねた。ラジオの大きさは名刺の2倍くらいであったが、厚みが1センチもなかった。
幸之助は、それを手に取り、「これはいいな。これだったら100万台以上売れるな」と言いながら、スイッチを入れた。音楽が鳴りだしたが、音があまりよくなかった。
「きみ、音がよくないな」
「はい、なにぶんスピーカーを薄くしなければなりませんから。これはしかたがないんです」
幸之助の顔色が変わった。
「あのな、ラジオというものはな、音を聴くもんや。スピーカーを薄くしたのは松下電器やが、そのために音が割れたり、悪くなるというのはお客さんに関係ないことや。基本の性能を落としたらなんにもならん。われわれが大事なのは、どこまでも、ラジオを楽しみたい人に満足を与えることなんや」
■人事課長に語った「工場経営の基本」
まだ戦後の混乱のさなかにあった昭和22(1947)年暮れのことである。たまたまその年は12月25日の大正天皇祭をはさんで年末まで、飛び石で休日が続いていた。そこでいくつかの製造所から、「これでは能率も悪いし、食糧難で買い出しも必要だから、正月休みを含めて1週間まとめて休みにさせてもらいたい」という要望が出た。
実施案を書類にまとめ、人事部長を兼務していた幸之助のところへ持っていった人事課長を待ち受けていたのは、厳しい叱責であった。
「そもそも工場というものはどのように経営せねばならんかがわかっておらん。いったいこの案はだれが考えたのか」
まさか他人の案とも言えず、課長は答えた。
「はい、私が考えました」
「きみは何もわかっとらん。そういうことで人事をやっているとは大問題だ。このことは、製造所の支配人にも聞いてみたのか」
「はい、2、3の方のご意見を伺いました」
「すぐに支配人を集めよ」
集まった支配人に幸之助の叱責は続いた。
「きみたちの中でだれがこれに賛成したのか。お得意先の皆さんは、年末も年始もなしにわれわれのつくったものを売ってくださっている。また、1週間という長いあいだ工場を無人にして、いざというときにどうやって対応するつもりか」
当時は治安も悪く、宿直や保安係の人が危害をこうむる事件も頻発していた。
「われわれが命をかけて守らなければならない、命の源である工場を無人にするということは、経営の根幹が全然わかっておらんということや」
お説教は、延々2時間ほども続いた。
■幸之助を「30分間待たせる」ということ
昭和20年代の中ごろ、ナショナルラジオの音質について、芳しくない評判があったときのことである。東京に社用で赴いた幸之助は、代理店の人たちから、“松下のラジオは、どうも鼻づまりだ”という不満を聞かされた。さっそく幸之助は、大阪の本社にいるラジオの販売責任者に電話をかけ、命じた。
「あした、朝10時に帰るから、それまでに他のメーカーのものも含めて、ラジオの試聴ができるように準備しといてくれ」
翌日、幸之助は10時きっかりに到着した。しかし、準備はまだ整っていなかった。担当者がいささかならずうろたえぎみに準備を急ぐ中、10分経過、20分経過……。ようやく準備が完了したとき、幸之助が穏やかな口調で口にした言葉はつぎのようなものであった。
「きみ、きみはわしを30分間待たしたな。わしはだいたい1時間に何十万円かは儲けんといかん立場におるんや。したがってきみは、わしにその半分を出さんといかんで」
![現在のパナソニックHD本社](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/8/7/1200wm/img_87fdb38a09112d2c397f10be19cf28cf415530.jpg)
■「やらんかったら、わからんやないか」
昭和45(1970)年3月、大阪で万国博覧会が開催されたときのこと。松下館は天平の面影を伝える優美な建物で、池の中に浮かぶように立ち、来館者は水上の長いアプローチを通って中に入るようになっていた。開館も間近に迫ったある日、幸之助は館長を呼んで尋ねた。
「きみ、人の出入りの混雑にどのように対応するんや」
「これだけの人数でこのように対応しようと思っています」
「そうか。それならやれるやろうな。けど、実際にやってみたんか」
「いいえ、やってはいませんが……」
「やらんかったら危険なところがあるかどうかがわからんやないか」
急遽、終業後にバスを手配し、何百人かの松下電器の従業員が集められた。そして、万博協会の許可を得て、幸之助立ち会いのもと、実際と同じように3回練習が行なわれた。
開館数日前のことである。
■不満を直訴してきた社員に明かした「経営者の孤独」
戦後まもなくの話である。松下電器には個性の強い社員が多かったが、その中に仕事はできるが、非常に気性が激しく、喧嘩早い者がいた。
ある日、いつもの喧嘩相手の一人と仕事のことで大喧嘩をしたその社員は、自分のむしゃくしゃする気持ちを幸之助に訴えたい心境になって矢も盾もたまらなくなり、かなり夜遅くであったにもかかわらず、幸之助の所在を尋ね求めた。
幸之助は滋賀県大津の旅館に一人で泊まっていた。何の前ぶれもなく、いきなりそこへ押しかけた社員は、とにかく聞いてくれと、胸にたまっていたうっぷん、不満をあらいざらいぶちまけた。話しているうちにポロポロ泣けてきて、涙ながらに訴えた。
幸之助はその間、ひと言も口をはさまずにじっと聞いていたが、最後にぽつんと言った。
「きみは幸せやなあ。それだけ面白うないことがあっても、こうやって愚痴をこぼす相手があるんやからな。ぼくにはだれもそんな人おらへん。きみは幸せやで」
■自分の遅刻に減給処分
第二次世界大戦直後の昭和21(1946)年のことである。
この年の年頭、幸之助は、“この困難な時期を乗り切るために、今年は絶対遅刻はしないぞ”という決心をした。ところが、1月4日、兵庫県西宮の自宅から、電車で大阪に出たところ、迎えに来ているはずの会社の車が来ていない。待っても待っても来ないので、とうとうあきらめて電車に乗ろうとしたとき、ようやく車がやってきた。完全に遅刻である。聞いてみると原因は事故ではなく、運転手の不注意であった。
幸之助は、その運転手はもちろん、その上司、そしてまたその上司と、多少とも責任のある8人を減給処分にした。もちろん、いちばんの責任者である幸之助自身も、1カ月分の給料を返上した。
世の中が混乱し、お互いに責任を果たそうという意識もおのずと薄れがちだった当時の風潮の中で、幸之助のこの厳しい処分は、社員の心を引き締め、混乱の時代を乗り越える原動力となった。
■自分ばかりしゃべる社長
昭和36(1961)年秋、幸之助が九州のある取引先の工場を訪れたときのこと。
30分ほど工場を見学し、そのあと社長、工場長と10分間ほど歓談した。
帰りの車中で幸之助は、随行していた九州松下電器の幹部に言った。
「きみ、あそこの会社、経営はあまりうまくいっていないな」
「どうしておわかりですか」
「工場を一見したら、まあ、だいたいわかるわ。それと、さっきのあの社長さん、あの人より経験の深いはずのわしがせっかく行っているのに、わしから何か引き出そう、何かを聞き出そうという態度にちょっと欠けとった。自分ばかりしゃべりはったな」
■「必ず成功すると思うし、必ず成功させねばならん」
昭和27(1952)年、松下電器がオランダのフィリップス社と合弁で設立した松下電子工業は、設立後何年間か、きわめて苦しい状況が続いた。そのころ開かれた新聞記者会見の席上でのことである。
![PHP理念経営研究センター『松下幸之助 感動のエピソード集』(PHP)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/b/1200wm/img_9b6a5e8ca6d221b6969b4e5e56cd1660135858.jpg)
「あなたは通産省や銀行、社内でも必ずしも賛成でなかったオランダのフィリップスと技術提携をし、たくさんの資本を投下して立派な工場をおつくりになった。けれども、経営成績はどうですか。聞くところによると、もうひとつ成果が上がっていないようですが……」
「ええ、そのとおりです。不景気ということもあったのですが、もうひとつ成績があがっておりません」
「将来はどうですか。あなたの技術提携は失敗ですか」
「いや、決してそうは思いません。私も何回も失敗ではないかと思って反省してみました。しかし必ず成功する。そう信じています。というのは、そもそも私がオランダのフィリップスと技術提携をしたのは、松下電器の発展のためでも松下幸之助という名前を世間に広めるためでもない。日本のエレクトロニクス工業を早く世界の水準に持っていきたい、という一念からのことです。決して私心でしたのではありません。ですから私は、必ず成功すると思うし、必ず成功させねばならんのです」
記者は沈黙した。
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(PHP理念経営研究センター)
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