なぜナリタブライアンは8歳で亡くなったのか…「史上最強の三冠馬」がボロボロになるまで出走し続けたワケ
プレジデントオンライン / 2024年6月2日 16時15分
※本稿は、鈴木学『史上最強の三冠馬ナリタブライアン』(ワニブックス)の一部を再編集したものです。
■ナリタブライアンが侵された「不治の病」
高松宮杯からちょうど1カ月後の6月19日、衝撃のニュースが競馬界を駆け巡った。ナリタブライアンが屈腱炎を発症したことが明らかになったのだ。
屈腱炎とは、上腕骨と肘節骨をつなぐ腱(屈腱)の腱繊維が一部断裂して発熱と腫れを起こすこと。馬の前脚の屈腱はバネの役割を担っており、伸縮することで走る時にスナップを利かせたり、着地の衝撃を和らげたりする働きをする。
人間のアキレス腱と同じような役割を果たしており、馬は腱にたまったエネルギーを上手に使って効率良く走っている。そのため、屈腱炎を発症すると思い切り走るのは困難で、能力を十全に発揮することができなくなる。生死にかかわるものではないが、完治するのは難しいことから「不治の病」と言われている。ナリタブライアンの兄ビワハヤヒデも引退に追い込まれた病だ。
関係者がナリタブライアンの異変に気づいたのは、全休日明けの6月18日の早朝だった。栗東トレセンにある大久保正陽厩舎の馬房からナリタブライアンを引き出すと、わずかに右前脚を気にするそぶりを見せた。脚が少し腫れていた。この日は角馬場での軽い調整にとどめて様子を見たが、19日の朝になると熱も持ったため、栗東トレセン診療所で検査したところ屈腱炎と診断された。
■「なんとか大きなレースを勝たせてやりたい」
「ガクッときた。宝塚記念を控えての矢先のこと。本当にショックだった」
大久保はそう言って、馬主の山路秀則に報告、了承を得た上で長期休養することを明らかにした。それは現役を続行して再起を目指すということだ。
「無事にいけば有馬記念を最後に引退するはずだった。しかし状況が変わった。年内は難しいかもしれないが、復帰に全力を傾け、種牡馬入りする前にもう一度、なんとか大きなレース(G1)を勝たせてやりたい」
ナリタブライアンの症状は、栗東トレセン診療所の所長いわく「屈腱炎としては重くも軽くもない普通程度の症状」ということから大久保は復帰を目指すことを決めたという。
ナリタブライアン屈腱炎のニュースを聞いて、高松宮杯のレース直後にテレビ中継で語った競馬評論家・大川慶次郎の予言めいた言葉を思い出したファンも多かったろう。
「あとは無事だといいなあ……。馬を無理させたことで故障したりすることがあるんですよ。股関節(の故障)をやってますからね。ちょっと心配ですけども……」
ある獣医師は「レースが原因だとすれば、1週間以内に判明するもの」と、高松宮杯出走と屈腱炎発症の因果関係を否定するが、詳しい原因は断定できない。大久保正陽がいくら「復帰を目指す」と言っても、屈腱炎によって引退を余儀なくされた競走馬は数知れない。完治することはまずない。「幹細胞移植」という手術もあるが、これにしても劇的に良くなることはなく、患部に負担をかけずに時間をかけて養生するしかない。
編集部註:初出時、リード部分に事実と異なる箇所があったため修正しました。(2024年6月3日17時00分追記)
■現役にこだわる調教師
たとえ復帰したとしても、走っている時に最も体重がかかる場所だけに、全力で走れば走るほど再発する可能性は高い。当然、卓越した能力を持つ馬ほど再発の不安が大きくなる。再発すれば一からやり直し。それだけに、種牡馬として大きな期待をかけられる競走馬ほど「屈腱炎イコール引退」というケースが多い。
発表翌日のスポーツ紙には「屈腱炎」「長期休養」と並んで「引退の危機」の大きな見出しが躍ったのは、そのためだ。
シンボリルドルフ以来の三冠馬であるナリタブライアンには、種牡馬として大きな価値がある。股関節炎を発症後はG1レースを勝てなかったが、阪神大賞典でマヤノトップガンとの一騎打ちを制したことで、後世まで語り継がれるであろう伝説も作ることができた。
重ねて言うが、屈腱炎が完治することはない。股関節炎から復帰後の戦績を見れば、長期にわたることが確実な休養後に復帰したとしても再びG1を勝てる見込みは低い。復帰を目指している間に種牡馬としての価値は下がっていく。種牡馬入りを望む声が大きい今こそが、種牡馬としての売り時であるのは明らかである。
大久保正陽がいくら現役続行に固執しても、周囲が引退へ向けて動き出すのは明白だった。それがいつ表面化するか――あとはそれだけだった。
■発症から4カ月で引退宣言
ナリタブライアンは6月29日に函館競馬場に入った。温泉施設のあるここで患部の治療に努めるためだった。8月28日には生まれ故郷の早田牧場新冠支場へ移った。
最初に引退報道が出たのは9月19日だった。日刊スポーツが「引退決定」と報じた。他のスポーツ紙から真偽を聞かれた大久保正陽はこれを否定したが、オーナーの山路秀則が読売新聞の取材に認めた。それでも大久保は頑なに否定し、現役続行にこだわった。
大久保から引退が正式に発表されたのは10月10日だった。その前日には、国内産競走馬として史上最高額の20億7000万円のシンジケート(1株3450万円×60株)が組まれ、生産者の早田光一郎が経営するCBスタッドで種牡馬入りすることが決まっていた。
「まだ現役を続けてターフに復帰させたいという気持ちは残っているが、(故障や事故の可能性のある)危険なレースよりも今後のブライアンのためには種牡馬が一番の選択と考え、7日の四者会談で引退を決めた」
押し切られた格好の大久保正陽は、引退会見でそう言うのが精いっぱいだった。
■信念という名のエゴ
大久保がなぜここまで現役続行に固執したのか、鬼籍に入った今となってはわからないが、大久保には大久保なりの信念があったのだろう。ひとつ言えるのは、当時は調教師が大きな権限を持っていたということだ。
片や山路秀則は、今やほぼ絶滅してしまった「カネは出すけど口は出さない」という、いわゆる「お大尽オーナー」だったといえる。それゆえに大久保は、結果的に時期尚早だった天皇賞(秋)で復帰させたり、天皇賞(春)から高松宮杯参戦という奇手を使ったりという、“信念という名のエゴ”を通すことができたのではないだろうか。
それが競走馬にとって幸福かどうかはわからないが、少なくとも2020年代では、大久保の選択は非常識だとして当時以上に批判を浴びるだろう。
■イクイノックスとの決定的な違い
ナリタブライアンと好対照といえるのがイクイノックス。ナリタブライアンは人間のエゴによって引退のタイミングを引き延ばされたが、イクイノックスは同じ人間のエゴでも逆に余力があるうちに早めに引退することになったからだ。
2022年に天皇賞(秋)と有馬記念のG1を連勝したイクイノックスは、翌23年の初戦に選んだドバイシーマクラシックで先手を奪うと、世界の強豪たちを寄せ付けず圧勝した。これによって、競走馬の能力を数値化したレーティングで世界ランキング1位となったイクイノックスは、その後も宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップを制した。
総獲得賞金は22億1544万6100円となり、アーモンドアイの19億円超を抜いて国内歴代トップに立った。天皇賞(秋)の走破タイムは1分55秒2。従来の記録を0秒9も上回るJRAレコードだった。競馬のタイムには公式の世界記録というのはないが、2000メートルでは1999年9月26日にチリの3歳G1レースで牝馬のクリスタルハウスがマークした1分55秒4を上回る世界最速だった。
ここで動いたのが、イクイノックスを生産したノーザンファームだった。その代表の吉田勝己は、1分55秒2という驚異的な走破タイムに驚くとともに恐怖を感じていた。速く走れば走るほど能力の高さを誇示できるが、その半面、スピードに追い付かず肉体が悲鳴を上げる可能性がある。つまり、一歩間違えば大きな故障を起こしかねない。
天皇賞(秋)を制した時点でもイクイノックスのランキングは世界1位。最悪の事態が起きる前に種牡馬入りさせたい――そう願うのは当然だった。
■種牡馬としての評価額は60億円
イクイノックスは、ノーザンファームグループが運営するシルクレーシングの所有馬。それだけにノーザンファーム代表の吉田勝己が、社台ファーム代表の吉田照哉(勝己の兄)、追分ファーム代表の吉田晴哉(ふたりの弟)とともに運営する社台スタリオンステーションで種牡馬入りすることは既定路線だった。
天皇賞(秋)の次走であり、2023年の大目標に設定されていたジャパンカップをもって現役引退が決まった。ジャパンカップを制覇すれば、国内賞金王となり、さらに同じ年のドバイシーマクラシックを勝っていたことから200万ドル(約3億円)の褒賞金を獲得できる。
イクイノックスは、思惑どおりジャパンカップを制し、年間世界ランキング1位のまま種牡馬入りした。種牡馬としての評価額は60億円規模だった(出資会員へ分配する総額は、維持費や莫大な保険金を引いた50億円だったそうだ)。
■「もっと走りを見たい」という気持ちはわかるけど
余力のあるうちに引退したイクイノックスについて、2022年2月末に調教師を定年引退した藤沢和雄はこう語っている。
「これだけ素晴らしい競走成績を挙げ、すごく貴重な血統だけに、ジャパンカップを最後に引退して種牡馬入りさせたのは当然です。競馬は『もう一回使っても変わらないじゃないか』ではないんですよ。もっとイクイノックスの走りを見たかったというファンの気持ちはわかるけど、一回でも多く走らせるほど故障のリスクは高くなる。
素晴らしい競走成績を残した素晴らしい血統の馬を無事に引退させるのがオーナーや調教師の仕事。貴重な馬を無事に引退させて牧場に戻す。これこそ、我々ホースマンが大事にすべきことです。引退する馬に『自分よりもっといい子をつくってくれるだろう』と思ってやることがすごく大事なんです」
屈腱炎になっても現役を続行させようとしたナリタブライアン陣営と、余力を残して元気なまま種牡馬入りさせたイクイノックス陣営。時代が違うと言われてしまえばそれまでだが、2頭の名馬のうちどちらが人間のエゴによって翻弄されたかは語るまでもない。
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サンケイスポーツ編集局専門委員
1964年6月生まれ。慶応義塾大学文学部卒。89年に産経新聞社入社。産経新聞の福島支局、運動部を経て93年2月にサンケイスポーツの競馬担当に。2年間のブランク(運動部デスク)後、週刊Gallop編集長、サンケイスポーツレース部長、競馬エイト担当部長などを歴任し現在に至る。サイト「サンスポZBAT!競馬」にて同時進行予想コラム「居酒屋ブルース」、「週刊新潮」にて「ビギナーゆかりと師匠まなぶの競馬道」を連載中。共著に『しなやかな天才たち イチロー・武豊・羽生善治』(武豊を担当)。
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(サンケイスポーツ編集局専門委員 鈴木 学)
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