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「極悪の欲情が秀吉の全身を支配した」と書かれる女好き…秀吉が信長の姪・茶々を側室にした跡継ぎ以外の目的【2023編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2024年6月2日 8時15分

文禄5年(1596)に起きた慶長伏見地震のときの秀吉を描いた浮世絵 月岡芳年作「大日本名将鑑 豊臣秀吉」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

2023年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年8月19日)
豊臣秀吉とその跡継ぎを産んだ側室・淀殿(茶々)の年齢差は30歳以上あったという。作家の濱田浩一郎さんは「秀吉が女好きというのは有名だが、主君・信長の姪である茶々を側室にしたのは、子がいないので後継者を産んでほしいという期待と、数々の発言の記録から見える身分のコンプレックスからという複合的な理由ではないか」という――。

■「どうする家康」も“茶々の覚醒”で盛り上がった

大河ドラマ「どうする家康」で、成長した茶々(のちの淀殿)が登場し、話題を集めています。同ドラマにおいて、少女時代の茶々を演じるのは、白鳥玉季さん13歳。その演技に「目の演技、うまかったな」「茶々の演技にゾクッとしました」「もっと見たい」と絶賛の声が集まっているのです。成長した茶々を誰が演じるのか、白鳥さんの演技が凄かっただけに、大物女優を茶々役として出演させないと視聴者が納得しないのではとの声があがるほど。

淀君(茶々)の肖像画
淀君(茶々)の肖像画(画像=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

今後の展開が期待されるところですが、「秀吉が茶々を側室にした理由」との本題に入る前に、茶々とはどのような女性だったのか、基礎知識を確認しておきましょう。

茶々が生まれた正確な年は分かっていませんが、父は北近江(滋賀県北部)の戦国大名・浅井長政。母は、織田信長の妹・お市の方です。しかし、浅井長政は、天正元年(1573)、信長によって攻め滅ぼされてしまいます。長政の妻・お市と茶々を含む娘3人は、小谷城を出て、織田家のもとに引き取られることになります。その後、茶々にとって伯父に当たる信長は、本能寺の変(1582年)で自害。その後、お市の方は、織田重臣の柴田勝家に再嫁することになるのです。

■16歳になるまでに両親が自刃したという壮絶な生い立ち

ところが、勝家は羽柴(豊臣)秀吉と対立、賤ヶ岳の合戦で敗れたことにより、居城・越前国北之庄城(福井県福井市)で自害して果てました。お市も、勝家と運命を共にします(1583年)。義父と母は亡くなりますが、茶々と妹たちは脱出し、諸説ありますが、秀吉の庇護下に置かれたと思われます。

茶々は一説によると、永禄10年(1567)生まれと言われますが、その説に従うとすると、この時、16歳。今で言うと、高校1年生の年齢です。その年齢に至るまでに、実父・実母、義父を争いのなかで失う経験をするという凄まじい体験をしたことになります。波瀾(はらん)万丈という言葉が月並みに聞こえてしまいます。

その後の茶々の運命を考えても、そうです。天正16年(1588)頃、茶々は秀吉の側室になるのです。自らの母と義父を直接的ではないにせよ、死に追いやった男の妻となったのでした。

■母・お市と義理の父を死に追いやった秀吉の側室に

では、ここで視点を変えて、秀吉はなぜ茶々を側室としたのでしょうか。私は、理由は複数あると思っています。まず、1つ目は、秀吉が子供になかなか恵まれなかったことです。ご存知のように、秀吉には「おね」(北政所)という正室がいましたが、2人の間に子供はいませんでした。天下人たらんとする秀吉。何としても、男子をもうけて、その子に跡を継がせたいという願望を持っていたのではないでしょうか。そのこともあって、秀吉は茶々を側室にしたのだと思います。茶々は20代前半とまだ若かったことも大きかったでしょう。

秀吉には、茶々の他にも多くの側室がいましたが、それは、秀吉が単に女好きで性的快楽を求めただけというよりは、前述の理由があったと考えられます。茶々は、第一子の男児(鶴松)を産んで早くに亡くした後、文禄2年(1593)に、秀吉の後継者となる秀頼を産んだとされますので、秀吉の期待に応えたと言えましょう。

秀吉が茶々を側室にした理由の2つ目は、秀吉が女好きであったことにもあると思います。秀吉は養子となった甥の豊臣秀次に、訓戒状(1591年12月)を与えていますが、そこには「茶の湯・鷹狩・女ぐるい(狂い)などは、秀吉の真似をしてはならぬ」との文言があるのです。秀吉は自らのことを女狂い=女好きだと思っていたということになります。

醍醐の花見を題材にした浮世絵。女性の名前は「淀殿」「松の丸殿」「お古伊の方」と記されている
醍醐の花見を題材にした浮世絵。女性の名前は「淀殿」「松の丸殿」「お古伊の方」と記されている(画像=喜多川歌麿作「太閤五妻洛東遊観之図」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■宣教師フロイスは「秀吉は野望と肉欲が激しい」と記した

秀吉は「屋敷の外で、みだりがましく、女狂いをしたり(中略)人目のはばかるところへ、やたらと出入りすることのないように」とも諭しているのです。裏を返せば、秀吉はそういったことをしていたとも取れる一文です。戦国時代に来日し、信長や秀吉とも会見した宣教師ルイス・フロイスはその著書『日本史』において、秀吉のことをこう評しています。

「齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた」

これは、フロイスのキリスト教的な倫理観念に基づいた評言であり、不正確とする見解もありますが、前述の秀吉の訓戒状と照らし合わせて考えてみると、やはり、秀吉は女好きであったのではと思えてきます。

さて、秀吉が茶々を側室にした3つ目の理由は、茶々が織田信長の姪であったことも大きいのではないでしょうか。秀吉は、尾張中村で百姓をしていた父母のもとに天文6年(1537)に生まれたといわれています(生年・出生については諸説あり)。

■茶々に執着したのは百姓の出というコンプレックスからか

フロイス『日本史』には、秀吉の言葉として「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」というものを載せています。また、『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、大坂に入った徳川家康に対し、秀吉が次のように語ったとの記述があります。

「今、官位人臣を極め、兵威、四海を席巻するといえども、元々は松下某の草履取りで、奴僕であったことは皆、知っている。ようやく織田殿(信長)に取り立てられて、武士の交わりを得たる身であるので、天下の諸侯は、表では私に畏服しているようでも、心から帰順しているわけではない。今、家臣となっている者たちも、元は同僚であるので、私を実の主君とは思わず」

自嘲気味の発言ではありますが、秀吉は本音を語ったと見ることもできましょう。この発言から、推測するに、秀吉には生まれや経歴に対して、コンプレックスがあったと思われます。また「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」との言葉からは、劣等感と共存しつつも、出世街道を駆け上ったことによる強烈な自負心を窺うこともできるでしょう。

出自と経歴に劣等感を持っていた秀吉。それを埋め合わせ、しかも諸大名を畏服させる1つの手段が、あの信長の姪・茶々を側室に迎えることだったのではないでしょうか。

■茶々の他にも主君信長の娘・三の丸殿を妻にしていた

秀吉は、信長の娘(三の丸殿)や、名門・京極氏の娘(竜子)なども側室にしていますが、それも同様の理由があったと思われます。側室選びには、政略的な意味合いも多分にあったのです。

三の丸殿の肖像画(模写)、秀吉の没後、二条昭実と再婚した
三の丸殿の肖像画(模写)、秀吉の没後、二条昭実と再婚した[画像=「二条昭実夫人像」 韶陽院殿(織田信長女)、南化玄興賛(模写)、東京大学資料編纂所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons]

ちなみに、信長の娘・三の丸殿(母は、信長の子・信忠の乳母、崇源院)については、生年など詳しいことは分かりません。信長の死後、蒲生氏郷に引き取られて、その後、秀吉の側室になったようです(氏郷の養女となったか)。秀吉の側室にいつなったのかという確かなことは分かりませんが、父・信長が亡くなった頃には、まだ幼かったと考えられるので、茶々の方が早く秀吉の側室になったと思われます。

秀吉が晩年に催した、いわゆる醍醐の花見(1598年)の際、三の丸殿は、側室の中で、三番目の序列だったとのことです。以上のことから、秀吉が茶々を側室にしたのは、後継者をもうけるため、女好き、政略的意味合いと複合的な理由があったと推測できるでしょう。

※主要参考文献一覧
・桑田忠親『桑田忠親著作集 第5巻 豊臣秀吉』(秋田書店、1979)
・服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012)
・藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社、2007)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013)
・濱田浩一郎『家康クライシス 天下人の危機回避術』(ワニブックス、2022)

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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