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皇后・定子の家庭を壊すためならなんでもやる…権力の亡者になった藤原道長がとった前代未聞の奇策

プレジデントオンライン / 2024年6月2日 17時15分

紫式部日記絵巻(部分)(画像=藤田美術館蔵/『日本国宝展』読売新聞社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

藤原道長はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「権力を維持するためなら、なりふり構わず行動した。それは自分の娘を一条天皇に入内させた方法を見るとよくわかる」という――。

■政敵・伊周と隆家が消えた後の道長の変貌

藤原道長(柄本佑)の最大のライバル、中関白家(道長の長兄、道隆を祖とする家系)の伊周(三浦翔平)と隆家(竜星涼)の兄弟は、長徳2年(996)正月、花山法皇(本郷奏多)を矢で射かけたのを機に、自滅した。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第20回「望みの先に」(5月19日放送)、および第21回「旅立ち」(26日放送)で、その顛末が描かれた。

兄弟は、一条天皇(塩野瑛久)の母、東三条院詮子(吉田羊)と道長を呪詛した疑いまでかけられる。その結果、一条天皇は同年4月、内大臣だった伊周は太宰権帥、中納言だった隆家は出雲権守に降格し、配流すると決めた。

しかし、道長は兄弟が自分たちを呪詛したなど信じられない。自分の甥であり、子供のころ屋敷の庭でよく遊んでやった彼らが、そんな真似をするなど考えられない。ここまでの道長は、ドラマではこうして「いい人」として描かれてきた。しかし、第20回には、道長の転機と思われる場面があった。

道長は伊周と隆家について、陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)に相談した。すると「そんなことは、どうでもよい」という返答だった。今後はだれも道長に敵わなくなり、そのほうが「大事」だというのである。

■「理想に燃える好青年」じゃいられない

たしかに、道長はみずから行動して権力を奪取したわけではない。関白藤原兼家の息子とはいえ、末っ子の五男(正妻の子としては三男)。自分に政権が回ってくるとは、想像もしなかったと思われる。

ところが、長徳元年(995)に兄の道隆と道兼が相次いで病死。その後の政権は、すでに権大納言の道長を追い越して内大臣になっていた道隆の長男、伊周にまかされるかと思われたが、道長の姉である詮子の意向が働いて、政権は道長のもとに転がり込んだ。

しかし、外された伊周は道長への反目を強めた。そのまま激しい政治的対立が続く危険性もあったのだが、前述のように、伊周は弟の隆家とともに自滅した。伊周らの闘乱事件を公表したのは道長だが、事件そのものにはまったく関与していない。

要するに、道長はなにか策を弄することも、激しい政権闘争を繰り広げることもなく、「棚から牡丹餅」のように政権を手に入れた。しかも、ライバルは自分から退いてくれた。だから、ここまでの道長は、ドラマで描かれているような理想に燃える好青年であっても、なんら違和感はない。

しかし、手にした政権を維持し、いっそう盤石にするためには、ただの「いい人」では務まらない。実際、ここから先の道長は、父の兼家や兄の道隆もそこまでやったか、というほどえげつない策も講じることになる。

■悩みは一条天皇の定子への寵愛

長徳2年(996)7月20日、道長は右大臣から左大臣へと上がり、正二位に叙された。これで官職も位階も朝廷で並ぶ者がなくなった。また、関白には就任していないが、内覧ではあった。

「内覧」とは、太政官が天皇に奏上する全文書に事前に目をとおす役なので、国政の全体を掌握することにつながった。また、関白に就任してしまうと、大臣の筆頭である「一上」が仕切る公卿の会議(陣定)に出席できないが、内覧は「一上」と兼務できた。

このため、道長は、文書を読んで天皇に助言しながら、同時に、会議を通じて公卿たちにも目を光らせることができた。そんな道長にとって、当面のやっかいな問題は、一条天皇が中宮定子を寵愛し続けていることだった。

一条天皇像(部分)
一条天皇像(部分)(画像=真正極楽寺蔵/別冊太陽『天皇一二四代』平凡社、1988年/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

「光る君へ」の第20回で描かれたように、定子は伊周と隆家の兄弟をかくまった責任を負って出家したが、出家したまま、長徳2年(996)12月、第一皇女の脩子内親王を産んでいた。そして、一条天皇は周囲の反対を押し切り、長徳3年(997)6月、定子を職曹司(后に関する事務を取り扱う場所)に移した。つまり、宮中に戻したのである。

ドラマで秋山竜次が演じる藤原実資は、日記『小右記』に「天下甘心せず(天下は感心しなかった)」と書いており、当時の宮廷社会が猛反発したことがわかる。

■道長の焦りはピークに

この時点で一条天皇には皇子がいなかったが、自身の皇統を絶やさないためには、男子が生まれる必要があった。すでに皇女を産んでいる定子は、男子を産めるかもしれないが、貴族社会から認められていない定子を、ふたたび表舞台に出していいのか。

天皇はおそらく逡巡したのち、長保元年(999)正月、定子を内裏に呼び戻した。いうまでもなく、彼女を懐妊させるためだが、この月のことは、道長の『御堂関白記』にも、実資の『小右記』にも、藤原行成の『権記』にも書かれていない。一条天皇の行動が道長にとって好ましくなく、周囲も道長に遠慮したからだろう。

しかし、道長は気が気ではなかったはずである。父の兼家は一条天皇の外祖父となることで権力を固めた。一方、兄の道隆は、娘(定子)を入内させ、中宮にしたものの、外祖父になる前に病死。定子に皇子がまだ生まれていないことは、中関白家の没落にもつながった。

だから、長女の彰子を一刻も早く入内させ、皇子を産ませたいが、一条天皇は中関白家の定子に皇子を産ませようとしている。当時、後宮を制することができなければ、権力は維持できなかった。道長の焦りはピークに達したものと思われる。

見上愛さん
写真=時事通信フォト
2023年JRA年間プロモーションキャラクターを務める俳優の見上愛さん。「光る君へ」では藤原彰子役=2023年6月25日、兵庫・阪神競馬場 - 写真=時事通信フォト

■12歳の娘・彰子を入内させた意味

当初は手をこまねいているしかなかった道長だが、手を打ちはじめる。定子が内裏に呼び戻された翌月の長保元年(999)2月9日、道長は、まだ数え12歳にしかならない彰子の着裳(女子が成人してはじめて衣裳をつける儀式)を行った。むろん、入内の準備である。

その後、定子が懐妊したので、道長の焦りは増したようだ。8月9日、お産が近づいてきた定子を、一条天皇は平生昌邸に移したが、公卿たちは天皇から声をかけられながら集まらなかった。道長が同じ日に宇治遊覧を企画し、こちらに公卿たちを呼んだためだった。定子が公卿たちから支持されていないことを、道長は示そうとしたようだ。

9月25日には、彰子の入内について、姉で一条天皇の母である詮子のもとで定めた。人々に和歌を詠ませるなどして入内の調度等が整えられ、11月1日、彰子は入内した。

さすがに12歳では懐妊するのは難しい。だが、定子が皇子を産めば、伊周ら中関白家が外戚になって、権力は道長のもとを離れかねない。だから、まだ産めないにせよ、自分の娘を一条天皇の后にするだけはして、一条天皇にプレッシャーをかけておきたい。道長はそう考えた。

そして11月7日、彰子を女御にするという宣旨が下り、彼女ははじめて天皇を局に迎え入れたが、奇しくも同じ日に、定子は第一皇子の敦康親王を出産したのである。

■兄よりえげつないやり方

道長は彰子の立場を少しでもよくしておきたい。そこで奇策を思いついた。一条天皇にはすでに定子という中宮がいたが、彰子も皇后にして「一帝二后」を実現させようと考えたのだ。

かつて兄の道隆は、中宮が皇后の別称であることに目をつけ、ほかに皇后がいるのに定子を「中宮」という名の后にした。后位には「皇后」「皇太后」「太皇太后」の3つ(三后)があったが、天皇が替わると后も替わるという決まりはなく、空席が生じないと、あらたに后になれなかった。このため道隆は、三后に加えて「中宮」という地位をもうけたのだ。

ただし、このときは皇后と中宮は別の天皇の后で、一条天皇の后になったのは定子がはじめてだった。ところが道長は、一条天皇にはすでに定子という「中宮」がいるのに、太皇太后が死去して空席ができたため、一条天皇の后として彰子を押し込もうとした。つまり、同じ一条天皇のもとに2人の后を置こうと考えたのである。

これはあきらかに、兄の道隆よりもえげつないやり方だが、道長はそんなことに構っていられない。藤原行成を使って一条天皇を説得した。定子は后とはいえ出家しているから、神道にまつわる藤原氏の祭祀も行えない。いま中宮にとどまって禄を得ているのは禄盗人のようなもの。だから彰子も后にして、祭祀を司る必要がある――という理屈だった。

結局、長保2年(1000)2月25日、定子を皇后、彰子を中宮にすることが定められ、その後、道長は彰子を懐妊させることに注力することになる。

父や兄の権力闘争を間近で見てきた道長。権力は棚ぼたで手にしても、それを維持し、基盤を固めるためには、「いい人」でいられないことも、父や兄から学んでいたのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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