天皇から愛されるほど不幸になっていった…愛ゆえに世間から憎まれ苦しんだ皇后・定子の悲哀
プレジデントオンライン / 2024年6月9日 17時15分
■みずから髪を切って出家した皇后・定子
中宮定子(高畑充希)の転落ぶりが痛々しい。NHK大河ドラマ「光る君へ」の視聴者には、胸を痛めている人も多いと聞く。
藤原道隆(井浦新)の長女で、一条天皇(塩野瑛久)のもとに入内して中宮となり、道隆にはじまる中関白家の栄華を象徴していた定子。ところが、第20回「望みの先に」(5月19日放送)で、とんでもない事件が描かれた。
兄の伊周(三浦翔平)は弟の隆家(竜星涼)と連れ立って、花山法皇(本郷奏多)を矢で射かけてしまい、それを機に、兄弟は一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)や道長(柄本佑)を呪詛した疑いまでかけられる。怒った一条天皇は、伊周を太宰権帥、隆家を出雲権守に、それぞれ降格のうえ配流することに決めた。
これに対し、兄弟は定子が住む二条邸に立てこもった。このため、二条邸は検非違使による捜索の対象となり、定子は体を張って伊周らを守ったが、さすがに中宮の姿勢としてそれはまずい。責任を負った定子は、みずから髪を切って出家してしまったのである。
第21回「旅立ち」(5月26日放送)では、定子はすっかり気力を失い、食事すらまともに摂らない。そのうえ住まいの二条邸が火事になる始末。みずから命を断とうとまでしたが、追い詰められた彼女を、ききょうこと清少納言(ファーストサマーウイカ)が支える様子が描かれた。
■一条天皇が定子にこだわる理由はないはずだった
だが、それでも、一条天皇の定子への寵愛に変化はなかった。定子は長徳2年(996)12月16日、第一子の脩子内親王を出産したが、まず、その時期を考える必要がある。
弟の隆家らが花山天皇を射かけ、「長徳の変」がはじまったのは長徳2年(996)1月16日で、兄弟の配流が決まったのは4月24日だった。定子はその間に懐妊しており、すなわち、一条天皇は定子の兄弟が事件を起こしても、彼女を内裏に参入させていたことになる。
ただし、妊娠したとき、定子はまだ出家していなかった。その後、「長徳の変」によって実家はすっかり没落し、自身は出家し、夏には二条邸が全焼し、10月には、ドラマでは板谷由夏が演じている母の貴子が死去。絵に描いたように不幸が続き、後ろ盾はまったくなくなり、定子をめぐる環境は激変する。
さすがにこうなると、一条天皇が定子にこだわる理由は、客観的にはなかった。そもそも定子が出家した時点で周囲は、彼女は一条天皇と離別したと考えた。出家するとはそういうことだった。山本淳子氏は次のように記している。
「定子一人しかキサキのいなかった一条天皇はこのとき独身になったと見なされ、だからこそ定子の出家から二カ月後の長徳二年七月には大納言・藤原公季が娘の義子を、さらに十一月には右大臣・藤原顕光が娘の元子を入内させた。後宮を舞台にした権力闘争は定子という最強のキサキの存在によって封印されていたが、彼女の退場によってそれが解かれたのである」(『道長ものがたり』朝日選書)。
■宮中に戻った定子に貴族が反発した理由
ところが、それでも一条天皇は、「退場」したはずの定子にこだわり続けた。
翌長徳3年(997)3月25日、詮子の病気快癒を期して大赦が行われ、伊周と隆家の兄弟も帰京が許された。すると6月、一条天皇は定子の身柄を、中宮職の事務所である職の御曹司(みぞうし)に移した。彼女を宮中に戻して復権させようとしたのである。
これについて、ドラマで秋山竜次が演じている藤原実資は日記『小右記』にこう書いている。
「今夜、中宮、職の宮司に参り給ふ。天下甘心せず。かの宮の人々、『出家し給はず』と称すと云々。はなはだ稀有の事なり(今夜、中宮定子様は、職の御曹司にお移りになる。しかし、みなこのことを甘く見てはいない。中宮に使える人たちは『定子様は出家していらっしゃらない』といっているようだが、そんなことはありえない)」
実資の言葉から、当時の貴族社会が、定子が宮中に戻ることに大きく反発したことが伝わる。それは感情論ではなかった。中宮は天皇家の一員だから神事を務める義務がある。しかし、出家して尼、つまり仏教の僧になってしまうと、神事には関われない。だから、定子の周囲は「出家していない」と考えたかったわけだが、そんな理屈はとおらなかった。
■常識を超越した「二人の関係」
それでもなお、一条天皇は定子を寵愛し続けたのだから、その愛はそれこそ、海よりも深かったのかもしれない。
正暦元年(990)1月25日、定子が数え15歳で入内したとき、一条天皇は11歳だった。以後、長徳の変が起きるまで、一条天皇はただ一人の后として定子に接してきた。おそらく定子と一条天皇のあいだは、母子密着にも近いほど距離が近接していたのではないだろうか。妻であると同時に、友だちであり、姉であり、母であるような。
この寵愛に周囲はひたすら戸惑うことになった。娘を入内させた藤原公季や顕光はもとより、長女の彰子を入内させる機会をうかがっていた道長も、気が気ではなかったことは想像にかたくない。
というのも、当時の宮廷社会では、上級貴族はほとんど例外なく権力闘争を繰り広げた。そして、権力を制するためには、後宮を制する必要があった。だから、だれもが自分の恋心などは後回しにして、権力を制するのに有利な結婚をし、娘を後宮に送り込んだ。むろん娘たちは自分の役割を認識しており、天皇もそうした事情を理解したうえで、后や女御を受け入れた。
ところが、一条天皇は、定子がからむとこうした常識を超越した。それは当時の宮廷社会では異例のことだった。むろん、源氏の血筋、すなわち天皇の血筋を入れるために倫子や明子と結婚した道長には、まったく理解できない行動だっただろう。
![枕草子絵巻](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/4/a/1200wm/img_4aa71372bdb933c43b8a9f65eb08749b375480.jpg)
■それでも定子に皇子を産んでほしかった
そんな一条天皇には、まだ皇子がいなかった。このまま後継ぎが生まれなければ、自分の皇統は途絶えてしまうかもしれない。そのとき、だれに皇子を産ませるか。その対象はやはり定子だった。すでに皇女を産んでいるという実績も、関係したかもしない。
宮中の「職の御曹司」に移って、貴族たちの猛反発を買った定子は、その後、その場に留め置かれたままだったようだが、長保元年(999)正月、一条天皇は定子を内裏に呼び戻している。
むろん道長は、定子が皇子を産んで中関白家が復活することを恐れただろう。だからなのか、道長の日記『御堂関白記』は、この年の正月分が欠けている。また、そんな道長に遠慮してか、藤原実資の『小右記』も行成の『権記』も、この月の分は残っていない。
だが、この時なのか、その翌月なのか、定子は懐妊し、同じ年の11月7日、定子は待望の第一皇子である敦康親王を出産した。
しかし、一条天皇の寵愛を受けたことは、はたして定子の幸福につながっただろうか。
![京都御所](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/d/1200wm/img_ddbc621fc17960b81482f30a9ae7500b482758.jpg)
■愛されれば愛されるほど疎まれた人生
この年の6月7日、内裏が全焼したときには、定子が火災の原因だという噂が流れた。8月7日、出産のために転居する際は、同じ日に道長が宇治への遊覧を企画して公卿たちを誘い、彼らを定子のもとに行かせないという、露骨な嫌がらせを受けている。
また、出産したその日は、道長が11月1日に入内させた彰子に女御の称号があたえられた、まさに同じ日だった。
倉本一宏氏は「後見のいない、しかも出家している定子から皇子が生まれでもしたら、道長と定子の関係、また道長とその皇子との関係、さらには道長と一条天皇の関係がうまくいくとは思えず、政権、ひいては公卿社会が不安定になるという事態は、大方の貴族層にとっては望ましいことではなかったのである」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。
「望ましいことではなかった」ことは現実となった。藤原行成の『権記』によれば、一条天皇ばかりは大よろこびだったというが、定子への風当たりが弱まることはなかった。
そして、定子は相変わらず一条天皇の寵愛を一身に受け続けている証として、長保2年(1000)12月16日、次女の媄子内親王を出産するが、後産が下りず、24歳の若さでこの世を去った。たしかに愛されたが、その愛がゆえに不幸を背負った人生でもあった。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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