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1年間汁ばかりをすすり33歳で死亡…朝ドラで花岡のモデルになった山口良忠判事の壮絶な栄養失調死

プレジデントオンライン / 2024年6月8日 8時30分

朝ドラで花岡のモデルとなったとされる山口良忠判事(画像=『アサヒグラフ』1955年8月17日/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

ドラマ「虎に翼」(NHK)でヒロインの恋のお相手として登場したイケメン御曹司の花岡が、突然亡くなった。この事件は実際にあった判事の死をモデルにしていると言われる。その事件について調べたライターの村瀬まりもさんは「戦後2年目にほとんど餓死と言える死を遂げた山口良忠という裁判官がいた。自分がヤミ商売を裁く立場だったので、配給以外の食物を口にせず、清廉潔白な立場を貫いた結果の悲しい死だった」という――。

■花岡のモデルは戦後、その死で名を知られた山口良忠判事か

「花岡が死んだ」

一斉にうなだれる司法省の裁判官たち。ドラマ「虎に翼」(NHK)の第10週「女の知恵は鼻の先?」は、衝撃的なシーンで終わった。ヒロイン寅子(伊藤沙莉)とは大学法学部の同級生であり、かつては結婚も意識したことがある判事の花岡悟(岩田剛典)が死亡したというのだ。

第11週ではその詳しい死因が描かれる。予告編に「判事がヤミを拒み、栄養失調で死亡」という見出しの新聞が出てきたことからも、花岡は有名な実在した人物・山口良忠(よしただ)判事をモデルにしているようだ。

山口判事は佐賀県福地村(現・白石町)の出身。1913年に生まれ、京都帝国大学法学部に進み、寅子のモデルである三淵嘉子と同じ1938年の高等試験司法科(現在の司法試験)に合格している。三淵氏の同期とも言える。佐賀出身という点も、花岡と共通している。

当時、三淵氏ら女性は弁護士にはなれても、判事(裁判官)・検事にはなれなかったが、山口判事は男性なのでスムーズに判事となり、第2次世界大戦終戦後の1946年、東京区裁判所第14刑事係の経済犯専任裁判官となった。戦後の混乱期、国が食料を統制していたものの、餓死者が出るほど食料が足りない中、主にヤミ(闇)米などを所持し「食糧管理法違反」で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。

■「食糧管理法」で人を裁く立場だったので追い詰められた

この時代は、庶民はもちろん、旧華族や公務員も、ヤミ市や非正規ルートで米などの食料を手に入れなければ生きていけなかったという。つまり「みんな、裏ではやっている」という現状。しかし、「食糧管理法」(戦時中の1942年制定)が国の配給以外で食料を買うことは禁じていたので、ヤミでの売買が見つかると、逮捕、検挙されてしまう。

そんな矛盾した状況で、ヤミ売買を裁く立場にあった山口判事は、自分がヤミで入手したものを食べるわけにはいかないと妻に宣言し、配給でもらった食料は、まだ幼い2人の子に回し、お米のとぎ汁のようなものだけを口に入れるようになる。

1947年11月5日付朝日新聞
1947年11月5日付朝日新聞

「虎に翼」では、花岡が寅子と再会し、外のベンチで一緒にお弁当を食べるものの、花岡が「今は主に経済事犯専任判事として主に食糧管理法違反の事案を担当しているよ」と告げると、寅子がヤミ米で作ったお弁当を隠す場面もあった。

花岡は寅子を告発なんてしないと言うが、寅子は「でも、法を犯しているのは事実ですから」と言い、やはりそこには法に携わる人間として葛藤があるようだった。そして、花岡の弁当の中身は、麦と米のクズで作ったおにぎり1つだけだった。

■山口判事はほとんど絶食して1年、栄養失調と病気で倒れる

実在した山口判事はもっとストイックで、おにぎりどころか、固形物はほとんど口にしていなかったという。そんな食生活を約1年間続け、栄養失調と肺浸潤(初期の肺結核)で倒れ、郷里の佐賀に戻った直後、1947年10月11日にこの世を去る。

ドラマ「虎に翼」で判事の花岡を演じる岩田剛典、ベストドレッサー賞受賞時の写真
写真=共同通信社
ドラマ「虎に翼」で判事の花岡を演じる岩田剛典、ベストドレッサー賞受賞時の写真=2022年11月30日、東京都渋谷区 - 写真=共同通信社

その死は11月5日の朝日新聞で「判事がヤミを拒み、栄養失調で死亡 遺した日誌で明るみに」と報じられ、全国の人が知るところとなる。記事の一部を以下に引用する。

■その死を報じる朝日新聞の記事が全国に衝撃を与えた

“安い給料では食えぬ”と判検事がぞくぞく弁護士に転業していく折柄、いまこそ判検事は法の威信に徹しなければならぬとギリギリの薄給から、一切のヤミを拒否して配給生活をまもりつづけ、極度の栄養失調がモトでついに肺浸潤でたおれた青年検事の話が、このほど葬儀に参列した同僚と、その日記からはじめて明らかにされ悲痛なその死をいたまれている。

話題の人は(中略)山口良忠判事(33)で、世田谷区に妻(31)との間に二児を抱えていたが、(中略)判事、月給三十円(税込)足らずでは、押し寄せるインフレの波では二人の子供が訴える空腹さえ満たしてやれなかった。

そのたびに妻はタケノコを提案し、急場をしのごうとしたが、山口判事は“人をさばく裁判官の身で、どうしてヤミができるか、給料でやっていけ”と家人をしかりつけ配給だけの生活を命じた。こうして夫婦はほとんど毎日しるばかりすするほかなく、配給ものは全部二児にあてがっていたが、これを見かねた岳父、元大審院判事弁護士、神垣秀六はじめ在京の縁者たちが郷里から食糧を贈ったが、裁判官はそんな違反はしてはならぬとしりぞけ、経済係判事として全く身を清潔に保ち、激増する経済事犯を一人で百件から持って審理に敢闘していた。

本年三月頃極度の栄養失調におちいり“このままでは死んでしまいます”という妻の訴えもガンとして聞かなかった。岳父神垣氏は食糧をとどけても受取らないので、一週に一、二度ずつ山口一家をよんで食事することにしたが、そんな計画的なことはごめんだ、とそれさえもことわり、栄養失調はいよいよひどくなって、微熱が出るようになった。妻は医者の診断を受けるようすすめたが、“オレが今病気だと休んだら、受け持っている百人からの被告人はいつまでも否決のままでいなければならない”と聞かず、この状態で約半年。ついに去る八月二十七日、東京地裁で倒れた。

(1947年11月5日付、朝日新聞) ※一部、個人名・住所を省略

■「このままでは死んでしまいます」という妻の訴えも無視

朝日新聞の記事の続きには、山口判事が倒れた後(地裁で倒れたというのは事実ではないとする見解もある)、絶対安静となって休職し、病床に着いてからも、ヤミの食料は受け入れなかったこと。妻が「判事なんて(※職業は)、ほんとうらめしい」と泣いたことなどが書かれている。

このニュースは、判事の殉職に近い死というショッキングな事件として日本中に衝撃を与えた。今風に言えば「自分に厳しすぎる裁判官がコンプライアンスを遵守して餓死した」ということになるだろうか。「虎に翼」では、花岡が「人としての正しさと司法の正しさがここまで乖離していくとは思いもしませんでした。でも、これが俺たちの仕事ですもんね」と語っていた。

■時の首相・片山哲とその夫人もコメントを求められる騒ぎに

第一報の翌日、11月6日の朝日新聞には、時の首相・片山哲が山口判事の死についてコメントを求められ「きょうはかんべんしてくれ」と返えたことが報じられた。その妻、首相夫人は、以下のように語っている。

第46代内閣総理大臣・片山哲
第46代内閣総理大臣・片山哲、1947年(画像=Japan National Diet Library/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
本当に立派な方で、国民のみなさんが一せいに、こうお考えになって(※ヤミ売買のものは食べないと)実行されればヤミを撲滅できると思うのですが、ただ多くの人がやらないで山口判事だけが実行されたのでこんな悲しいことになったものと考えます。
わたしのところも三食のヤミは絶対に致しておりませんが、ときどきみなさまが持って来て下さるものは頂いております。
(中略)
家庭を守る女性の立場としては、多少のゆとりを持って夫や子供の生命を守るべきだと考えます。畑の仕事を女の手で出来るだけやることなどでも大きな効果があります、奥さんにもう少し何かの工夫がなかったものでしょうか。
(1947年11月6日付、朝日新聞)

山口家の詳しい事情を知らないとはいえ、なんとか夫に食べさせたいと懸命に努力した山口夫人に対するコメントが、さすが上級国民といった感じだ。もっともこのコメントも誇張されている可能性がある。

他にも国会議員や司法省の人間にもコメントが求められている。新聞としては、山口判事の死をきっかけに、食糧難の現実とは矛盾する「食糧管理法」は悪法ではないかということを問いたかったようだ。つまり、彼の死は、「それを守って死ぬ人が出る法律は正しいのか」という究極の命題を突きつけたわけである。

■世間の同情を集め、聖人として尊敬されるが、息子の気持ちは……

その後も、山口判事の死は話題でありつづけ、世間の同情を集め、「聖人」としてあがめられるほどになった。遺族に大金の香典が贈られたり、画家であった山口夫人の絵を最高裁判所が買い上げたりといったことが起こる。

1947年11月6日付朝日新聞
1947年11月6日付朝日新聞

1982年には弁護士の山形道文氏が、山口判事の生涯を調べてまとめた『われ判事の職にあり』という本を出版している。そこに掲載された山口判事の長男の言葉が心に残った。

(※父親の山口判事は)とうとう一個の法律と一方的に心中してしまった自己陶酔型の利己主義者。
あの破滅的な飢餓のさなかで、一家の柱と頼む父に死なれてしまった。五歳と三歳の子を抱え、母はどうやって生き延びることができるだろう。父の実家から母の実家へ移り、そこで育ててもらわなければならなかったではないか。
死んでしまうことよりも、生きることの方が遙かに難かったといえる。「山口、お前のお父さんは偉い人だった。それなのに、なんだお前は」といわれもしたが、ではその父は、母と幼児を遺棄し、一体、どんな立派な義務を尽したということができるのか。
(山形道文『われ判事の職にあり』文藝春秋)

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村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。

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(ライター 村瀬 まりも)

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