信長でも秀吉でも家康でもない…「東洋のローマ」を作り、当時の欧州で初めて絵画に描かれた戦国武将の名前
プレジデントオンライン / 2024年6月19日 17時15分
■仏門に入りながらキリシタンになった戦国武将
もし日本が鎖国という道を選ばなかったら、と夢想することがよくある。16世紀後半の日本は世界に向けて開かれており、訪れた西洋人たちの目に映った日本は、彼らの文化との差異は大きくても、劣った国ではなかった。軍事的にも、大変な強国であるように映っていたことは、宣教師らが残した文書からも伝わる。
だが、国を閉ざしてからの日本は、海外からの刺激が失われ、文化的な爛熟や洗練こそ得られても、各分野で大きく発展するという機会を失った。外へ向ける目を200年以上にもわたって、ほとんど排除してきたのだから当然だが、欧米と対等に渡り合えるだけの軍事力など、もはや望むべくもなかった。
もし、16世紀後半の様相が継続し、西洋をはじめとする海外との交流が続いていたら、日本の景観も、日本人の文化的な意識も、まったく別のものになっていたのではないだろうか。安っぽい欧米コンプレックスが日本を覆うこともなかったのではないだろうか。
そんな夢想をする際に、真っ先に思い浮かべる往時の人物がいる。豊後(宇佐市、中津市を除く大分県)を拠点とした戦国大名、大友宗麟(諱は義慎)である。
「宗麟」という法号(仏門に入った人に授けられる名)を持ちながら洗礼を受け、唯一残る肖像画は剃髪して法衣をまとっているが、大分駅前広場に建つ像は洋服姿。実際、大友宗麟という一人の人物のなかに日本と西洋が、一定のバランスをたもって同居していた。
■ドイツの城に残されている絵画
鎌倉時代初期から続く名家の20代当主、大友義鑑の嫡男として享禄3年(1530)に生まれ、室町幕府12代将軍の足利義晴から一字を拝領し、義鎮と名乗った宗麟。
その人生の転機は天文20年(1551)、豊後府内(大分県大分市)の大友氏館に、イエズス会の創始者の一人で日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルを招き、直接引見して布教の許可を与えたことだった。
それは日本と西洋が本格的に邂逅した瞬間であった。だから、ヨーロッパでも慶事として記録され、そのときの会見の様子は、のちにフランドル出身の画家、アンソニー・ヴァン・ダイクが「豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」という題で、絵画に描いている。
それによって宗麟が得たのは、南蛮貿易による利益だった。大砲や硝石など、当時、戦闘に必要な物資などを、イエズス会をとおして購入できるようになったほか、中国や東南アジアとの交流を通じて、領内の経済的繁栄を得ることができた。
■日本初の病院が開設された
当時、宗麟の本拠地は、現在の大分市街の東部にあった大友館だった。これは大友氏が豊後国の守護として造営した典型的な守護の城館で、一辺が約200メートルの方形の敷地を堀が囲んでいた。ザビエルが招かれたのもこの館だった。
その周囲に広がる、府内と呼ばれる城下町の規模は、現在の大分市長浜町から元町にかけての南北約2.1キロ、東西約0.7キロで、発掘調査によると、道路が格子状にもうけられ、武家屋敷と商家が混在していた。
そこには弘治3年(1557)、日本初の西洋式病院が開設された。その2年前、府内での布教活動に加わったポルトガル人医師のルイス・デ・アルメイダは、宗麟の庇護のもと、育児院を設置。そして2年後、ついに病院を開いたのである。内科は日本人修道士、外科はアルメイダ自身が担当し、日本初の外科手術も行われている。
続いて、天正8年(1580)にはコレジオ(神学院)も設置された。そんな町々にはヨーロッパのほか東南アジアや中国由来の品々があふれ、象や虎といった珍しい動物が運び込まれ、さまざまな国の人々が行き交っていたという。大友氏館の周囲からは、キリシタンの遺物であるコンタツ(ロザリオ)やメダイ(メダル)も多数出土している。
そして、「府内」という地名は、当時の宣教師たちの記録のなかで、織田信長の「安土」や豊臣秀吉の「大坂」と同等に扱われている。日本を代表する国際都市だったのである。
■「東洋のローマ」と呼ばれた臼杵の城
ただし、府内に病院が開設された弘治3年ごろ、宗麟は拠点を府内から臼杵(大分県臼杵市)に移した可能性が高い。ポルトガル人の宣教師、ガスパル・ヴィレラによる同年の書簡にも、謀反を起こした家臣たちから逃れるために、宗麟が「城のごとき島」へ移ったと記されている。
臼杵湾に浮かぶ東西約420メートル、南北約100メートルの丹生島は、明治以降、周囲がすっかり埋め立てられ、いまでは平地のなかの丘陵になっている。だが、当時は四方を海で囲まれた純然たる島で、干潮時にだけ西側の砂州が現れ、陸地とつながった。
この丹生島城は、大友氏の滅亡後、砂洲が埋められて半島となり、江戸時代には譜代大名の稲葉氏による藩政の拠点、臼杵城として、明治維新まで存続した。
丹生島は海に囲まれた天然の要害だった。このため、九州六カ国の守護を兼ねるほどになった宗麟にとって、府内よりも防御しやすかった。城内にはポルトガル製の大砲であるフランキ砲も設置された。
また、古くからの町であるため既得権益が多かった府内にくらべ、城下町と貿易港が一体化した経済都市を構築しやすかったものと考えられている。
ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの著作『日本史』には、臼杵のことが「豊後のローマ」と記されている。宗麟は天正4年(1576)に家督を嫡男の義統に譲ったが、臼杵を拠点にしたまま、府内の義統との二元統治をおこなった。
天正3年(1575)、次男の親家が洗礼を受け、続いて宗麟自身も、ポルトガル人宣教師フランシスコ・カブラルから洗礼を受けた。臼杵には、各地から宣教師や信者が移住し、丹生島城内にも礼拝所がもうけられ、天正8年(1580)には、城下にノビシャド(カトリック教会の修道会員養成機関)まで建設された。
■宗麟がみた秀吉の大坂城
その後、九州南部で膨張する島津氏との争いにより、宗麟は厳しい状況に追い込まれる。まず、天正6年(1578)の耳川合戦による敗北が手痛く、その後も島津氏との攻防が激化するなか、豊臣秀吉は天正13年(1585)、両者に停戦を命じた。
宗麟はそれを受け入れ、受諾を表明して救援を求めるべく翌年、大坂におもむき、秀吉から大坂城内を案内されている。宗麟が『大坂城内見聞録』に書き残した大坂城の様子は、おおむね以下のとおりである。
その大きさや普請に集まった人の多さから「三国無双の城」であり、案内された三畳ほどの茶室は、室内の茶器もふくめてすべてが黄金でできていた。
秀吉は宗麟に好意を寄せ、弟の秀長とともに天守の地下から最上階まで案内。最上階では大坂平野を見渡しながら雑談し、気分をよくした秀吉は、自分の寝室まで案内した。そこにはベッドが置かれ、布団の色は深紅で、枕は彫刻を施した黄金色だった……。
秀吉の大坂城内が黄金で飾られた背景には、南蛮文化の影響がある。みずからキリシタンとなり、豊後の城で和洋折衷を実現していた宗麟が、西洋との交流が盛んだった時代の一つの帰結である大坂城を訪れ、案内された――。翌天正15年(1587)6月11日、宗麟が病死し、その8日後の6月19日、秀吉が伴天連追放令を出したことを思うと、きわめて感慨深い。
■最強軍団・島津氏を撃退したフランキ砲
ところで、天正14年(1586)、宗麟が秀吉と謁見したのちに府内は島津家久の侵攻を受けた。フロイスの『日本史』によれば、町は焼き討ちに遭って壊滅したという。実際、大友館周辺から出土した陶磁器類には炎熱の痕跡が認められている。
一方、宗麟が籠城した丹生島城は、海に囲まれているため、さすがの島津勢も攻めあぐねたようだ。城も城下町も大きな被害を受けたものの、フランキ砲からの砲撃も加え、島津勢からなんとか守りとおした。
しかし、宗麟の病没直前、夫人や子供と一緒に洗礼を受けた嫡男の義統は、直後に秀吉が伴天連追放令を出すと棄教。その後、朝鮮出兵の際、味方を捨てて逃げたことが秀吉の逆鱗に触れて改易されている。むろん、府内や臼杵から、和洋折衷の佇まいは急速に失われていった。
宗麟はキリスト教の影響を大きく受けながら、蹴鞠、能、犬追物、鷹狩り、絵画、茶道など、日本伝統の諸芸に通じた趣味人だった。その和洋折衷がのちの時代に継承されていたら――。どうしても、そんなことを夢想してしまう。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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