定子が皇子を産んだと聞いて急性胃腸炎で倒れる…困難な状況を迎えるたびに体調を崩した藤原道長の病弱体質
プレジデントオンライン / 2024年6月23日 16時15分
■史料に残っている藤原道長の「病弱」
いまのところ、NHK大河ドラマ「光る君へ」で描かれている藤原道長(柄本佑)は、いたって健康である。
しばらく前だが、第16回「華の影」(4月21日放送)で、長兄である関白の道隆(井浦新)が、疫病が蔓延しているのになんら対策を講じなかったとき、道長が福祉施設の悲田院にみずから赴くシーンがあった。このとき、道長は次兄の道兼(玉置玲央)に、自分は病気になったりしないという旨を断言していた。
その後、兄たちが急死して権力が転がり込んでくる過程でも、名実ともに権力を掌握してからも、いまのところ道長は、健康そうに描かれている。第23回「雪の舞うころ」(6月9日放送)でも、第24回「忘れえぬ人」(6月16日放送)でも、取り立てて健康不安を抱えているようには見えなかった。
しかし、道長はのちの記録から察するにも、かなり病弱だった。道長の健康に関する記録がはじめて現れるのは、永祚元年(989)7月22日のこと。まだ権中納言にすぎなかった24歳の道長は、「光る君へ」で秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』によれば、朝廷の業務を担当するはずが、病気を理由に早退したという。
もっとも、それ以後は何年も、病気で臥せたという記録はないのだが、あるときを境に、頻繁に病気で倒れるようになる。
■困難な状況を迎えるたびに体調を崩す
長徳2年(996)12月16日、中宮定子(高畑充希)は出家した状態のまま、一条天皇(塩野瑛久)の第一皇女である脩子を出産する。
それから4カ月経った長徳3年(997)3月25日、一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)の病気が回復に向かわないため、天皇は平癒を願って大規模な恩赦を実施した。このとき、前年に花山法皇を射かけるなどして流罪になっていた定子の兄弟、伊周(三浦翔平)と隆家(竜宮涼)も赦免され、都に戻ることを許されている。
そのころ道長は病気になった。病気の記録としては、およそ9年ぶりになる。藤原行成(渡辺大知)の日記である『権記』には、6月8日、32歳だった道長が夜中に発病し、一条天皇は心配して、翌朝、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭だった行成を、見舞いに向かわせたと記されている。
道長はそれ以降、困難な状況を迎えるたびに体調を崩す。このときも、長兄である道隆の息子、伊周と隆家が都に戻ったのを受け、道隆を祖とする中関白家が復活する可能性を考えているうちに、具合が悪くなったのかもしれない。
■体調が悪すぎて「出家したい」
次に倒れたのは、同じ長徳3年(997)の7月26日。前回倒れてから、1カ月半ほどしか経っていない。病名は「瘧病」、すなわち現代のマラリアだったとされる。
道長は7月5日に除目(諸官職を任じる儀式)を行い、藤原公季を内大臣に据えていた。こうして、道長(左大臣)、顕光(右大臣)、公季(内大臣)の3人で大臣職を固め、伊周が復帰しても上級の公卿になれないようにしたわけだが、おそらく、その間は激務をこなしたものと想像される。
このため免疫力が弱ったところで、感染症に襲われたのかもしれない。とはいえ、休んではいられないため、行成の『権記』によれば、自邸の簾の向こうから政務についての指示を出したという。
しかし、このあたりはまだ序の口で、ひどい病は年が明けて長徳4年(998)3月に道長を見舞った。それは腰病だった。
『権記』の記述にしたがうと、3月3日、一条天皇の命を受けて蔵人頭の行成が見舞いに訪れると、道長は「出家の本懐を遂げたい」と伝えたという。だが、内裏に戻った行成が一条天皇に道長の意思を伝えたところ、天皇は却下した。しかし、道長はあきらめず、3月5日にふたたび、さらには3月12日にも、つまり3度にわたって出家をしたい旨を訴えている。
■政権が志半ばで終わった可能性
一条天皇は道長の申し出を、病気は「邪気(物の怪)が行ったものだ」として、受け入れなかった。とはいえ、どうしても出家したいなら、病気が平癒してから考えてはどうか、という趣旨を伝えている。場合によっては、道長を権力の座から外すことも厭わないという心づもりが、一条天皇にはあったのかもしれない。
一方、道長の辞表が『本朝文粋』に収められており、次のように記されている。
「臣、声もとより浅薄にして、才知は荒蕪たり。偏に母后の同胞たるを以て、次ならず昇進す。また父祖の余慶に因りて、匪徳にして登用される(私は、声望はもともと薄く、才知や家柄もたいしたことはありません。単に、お上の母后である詮子様の弟であるというだけで、序列を越えて昇進してしまいました。また、父祖が善行を重ねてくれたおかげで、私自身には徳がないのに登用されました)」
倉本一宏氏はこう記している。「(道長は)自己の権力基盤については、意外に正しく認識していたのである。このまま道長が、彰子の入内や頼通の元服より以前に、薨去したり出家したりしていれば、まさに一代限りの中継ぎ政権に終わったはずである」(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。
実際、一条天皇に道長を外す気がなかったとはいえず、道長の出家の意志も、それなりに本気であったと考えられる以上、道長の政権はここで終わっていても不思議ではなかったわけだ。この時点では、長女の彰子は数え11歳でまだ入内しておらず、長男の頼通はまだ7歳にすぎなかったのである。
■道長を悩ませる一条天皇と定子との関係
このとき一条天皇は、道長の病気を「邪気が行った」と判断したが、それは道長の思いでもあった。先に引用した道長の辞表には、「序列を越えて昇進してしまった」ことが強調されていたが、それは裏返せば、2人の兄が急死したおかげで権力を手に入れたことを意味する。このため、道隆と道兼の「邪気(物の怪)」が、以後も長く道長を悩ませることになった。
長徳4年(998)3月の腰病は、4月には回復し、道長は出家することを許されないままふたたび参内するようになったが、同じ年の夏には疫病が大流行した。それは「裳瘡」、現代の麻疹で、8月には道長も感染し、また一条天皇に引退を申し出ては、断られている。
ところで、このころ道長の最大の悩みは、一条天皇と定子との関係だった。道長が権力を固めるためには、長女の彰子を入内させて皇子を産ませる必要があるが、一条天皇は出家したはずの定子を相変わらず寵愛している。だが、寵愛が続いて定子が皇子を産めば、彼女の兄弟の伊周らが復活して、自身の権力は奪われるかもしれない。
だが、道長の悩みをよそに、一条天皇はまず長徳3年(997)6月、定子の身柄を職の御曹司(后に関する事務をあつかう場所)に移した。つまり宮中に戻した。それが批判されたため、定子はいったんそこに留め置かれたが、ついに長保元年(999)正月、天皇は彼女を内裏に戻した。そして「妊活」の結果、その年の11月7日、定子は一条天皇の第一皇子、敦康親王を産んだ。
■定子の出産→急性胃腸炎に
道長はこれに対抗すべく、彰子の裳着(女子の成人式にあたる儀式)を急ぎ、長保元年2月9日に執り行った。そして、11月1日には念願かなって、わずか数え12歳の彰子を入内させたが、その6日後、彰子を女御とする宣旨がくだった同じ日に、定子が親王を出産したのである。
事ここに至るまで、道長は神経を張り詰めさせ、さらにすり減らしてきたことだろう。彰子が女御になり、定子が皇子を産んで11日後の11月17日、『小右記』や『権記』によれば、道長は「霍乱」、すなわち現在の急性胃腸炎で倒れている。
以後はもうキリがない。一条天皇には定子という中宮がいたが、道長は強引な手段で彰子も中宮にした。長保2年(1000)2月25日、彰子の立后の儀が執り行われ、史上初の「一帝二后」が実現したが、それから2カ月後の4月23日、道長はふたたび発病した。
続いて5月19日には、道長に次兄の道兼の怨霊が憑き、25日には長兄の道隆が乗り移ったという。後者の場合、『権記』によれば、「伊周をもとの官職、官位に戻せば、道長の病も癒える」と、道隆が道長をとおして訴えたのだという。道長は、自身の心に巣食ううしろめたさから、道隆が乗り移ったかのような言葉を発したのだろうか。
さらにいえば、道長は飲水病、すなわち現代の糖尿病を抱えていたといわれる。道長の栄華は62歳で没するまでずっと、病気と隣り合わせだったのである。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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