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孫正義は16歳で高校を中退したときからずば抜けていた…渡米先のカレッジの教師が証言する「鮮烈な印象」

プレジデントオンライン / 2024年6月28日 16時15分

記者会見するソフトバンクグループの孫正義会長兼社長(2022年5月12日、東京都港区) - 写真=共同通信社

ソフトバンク創業者の孫正義氏は、若い頃どのような人物だったのか。30年以上にわたり取材を続けてきた作家・井上篤夫氏の著書『志高く 孫正義正伝 決定版』(実業之日本社文庫)より、一部を紹介する――。

■高校を中退して渡米、「勉強の鬼」になる

孫の成績は、ずば抜けていた。

数名の優秀な学生とともに学長賞を受けた。

留学生では初の快挙である。

孫に学長賞を手渡した当時のアイリーン・ウッドワード学長は回想する。

「私たちは、ミスター・ソンのことを誇りに思っていますよ」

このホーリー・ネームズ・カレッジは「スモール・カレッジ」と呼ばれ、幅広い教養を身につけるための大学だ。モットーは名誉(Honor)、高潔(Nobility)、勇気(Courage)。校章は中世の紋章から取ったもので、ホーリー・ネームズ修道女会の紋章を継承し、楕円に囲まれた十字架とユリの花々は、イエス・キリストと聖母マリアの聖名(みな)(ホーリー・ネームズ)を象徴している。

孫が入学する4年前の1971年に、男女共学となった。このころ、外国からの学生を受け入れるようになった。

1975年当時、生徒数は800人。1クラス平均15人から20人。

大きな社会変革の波が大学にも押し寄せていた。時代は、孫が入学する直前に大きく変化してきた。厳格なカトリック系ながらシスターも修道服ではなくて、ふつうの服を着るようになった。

校風ももっと開かれたものにするため、宗教を押しつけないで生徒が関心を持つのに任せようという方針を打ち出していた。アメリカの教師も学生も異なった文化を理解するのがたいへんだった。

■教室の最前列に陣取り、眼をきらきら輝かせていた

1990年代に同大学で学んだ後輩の川向正明は語る。

「とてもリベラルな雰囲気のいい大学です。いろんな人種がいて、みんなすごく仲がよかったですよ」

経済学、歴史学、政治学など15の専門課程に分かれている。とりわけ、日本からの学生に人気があるのは介護学である。

すでに教壇を去っているが、マルグリット・カーク女史は、孫のことを鮮明に記憶している。

月、水、金の朝8時からの授業だった。

彼女は1975年と76年に会計学のクラスで孫を教えた。

ゴム草履をつっかけて、特製のズボンをはいた孫は、キャンパスのチャペルの横にある108段の長い石段を駆け降りてくる。教室に飛び込むなり、孫はいつも一番前の席に陣取った。

「目立ちましたね。彼は眼をきらきら輝かせていました」

■「将来、ビデオゲームを使ってビジネスをしたいんです」

生徒の国籍は日本、インドネシア、メキシコ、アメリカなどさまざま。20人のクラスのなかで孫は、とにかく目立った。

孫が印象的だったのは、彼は授業のあとも、よくカークをつかまえて質問をしたからだ。

大学の講義
写真=iStock.com/skynesher
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/skynesher

「ビジネスをやりたいんです」

カークはまだ30代の後半、パートタイムの教師として赴任したばかりで、この強烈な印象を放った生徒を驚きをもって見ていた。

授業で学んだことは、あくまで実践しなければならない。そういうひたむきさに、カークは強い印象を受けたのである。この学生は、何をめざしているのだろうか。

「将来、ビデオゲームを使ってビジネスをしたいんです」

孫は語った。

むろんカークは、そのときは孫がテレビゲームの火つけ役になるとは思ってもいなかった(のちに孫は、日本からインベーダーゲーム機を輸入してビジネスをするが、このときすでにアイデアを練っていた)。

キャンパスにあるカフェテリアの前に、寮生たちがくつろげる場所があった。

小さなキッチンがあるものの、あまり活用されていなかった。

■「学生食堂」で生まれた孫正義の経営哲学

孫は友人とビジネスをはじめた。

「学生に安くて、健康的な夜食を提供したいので、この場所を借りたい」

正義は大学の事務局にかけあって許可を取った。

チラシを配り、準備完了。

立地条件としてすばらしい。学生を常にふたり雇って、1日の営業時間は2時間とした。

ヤキソバ、見た目がレバニラ炒めに似ているモンゴリアンビーフン、ワンタンスープなどを安く提供した。味もなかなかいいと評判だった。

片づけや準備などを入れて、1日4時間、時給2.5ドル支払った。

大反響だったが、思いがけないトラブルに見舞われる。友人に売上げをごまかされたのだ。信頼しきっていただけにショックだった。金がからんでくると、たとえ友人でも問題が起きる。

半年あまりで「孫食堂」は廃業ということになったが、いい経験になった。

こうして孫の経営哲学のひとつの原則が生まれる。

ビジネスはひとりではできないが、パートナー選びは慎重でなければならないのだ。

■孫の固定観念を粉砕した「伝説の経営者」の教え

アメリカにくる前から、孫はいつかかならず事業をやりたいという強い意志をもっていた。

勉強もビジネスに役立てなければあまり意味がない。

日本マクドナルド社長・藤田田(でん)著の『ユダヤの商法』を読んで感銘を受けた高校生の孫は、単身九州から上京して藤田に直接面会を申し込んだことがあった。

日本マクドナルド創業者・藤田田氏(1979年5月8日)
写真=共同通信社
日本マクドナルド創業者・藤田田氏(1979年5月8日) - 写真=共同通信社

藤田は、この無謀な少年を社長室に招き入れ、助言を与えた。

「私が若ければ、食べ物の商売をしないで、コンピュータに関連したビジネスをやると思う」

アメリカにきて、マイクロコンピュータとの衝撃的な出会いをしてからも、孫は藤田のこの本を何度も読み返した。

「金儲けは、いいことだ。金にキレイ、キタナイはない」と藤田は言い切っている。

孫はこの本によって、日本人的な儒教倫理にしばられて、「金儲けはキタナイこと」と思い込んでいた固定観念を粉砕されたのである。

■名門・UCバークレー経済学部に編入

孫正義はホーリー・ネームズ・カレッジを2年足らずで終え、高校1年の夏に短期留学で見たあこがれのカリフォルニア大学バークレー校一本に志望校をしぼった。受験といっても、3年編入という形になる。正義は志望する経済学部の秘書に電話をしてみた。

井上篤夫『志高く 孫正義正伝 決定版』(実業之日本社文庫)
井上篤夫『志高く 孫正義正伝 決定版』(実業之日本社文庫)

すると、教授会の会議で、正義を一番で入学させることに決まったとの回答を得た。あとは大学の事務局の手続きに問題がなければ、そのまま合格になる。

ホーリー・ネームズ・カレッジからバークレー校に編入できるのは、全体の10パーセントにすぎない。なんとしても、名門バークレーで学びたい。

1977年、正義はみごとカリフォルニア大学バークレー校の経済学部に編入できた。同じ年、仲よく優美もバークレー校に編入し天体物理学を学びはじめた。

ビル・ゲイツはそのときすでにハーバード大学を中退、アルバカーキーでマイクロソフト社を興していた。

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井上 篤夫(いのうえ・あつお)
作家
1986年にビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)、テッド・ターナー(CNN創業者)を単独取材した。1987年、孫正義を初インタビュー、以来30年以上にわたって密着取材を続けている。深く鋭い洞察力には定評がある。著書に『フルベッキ伝』(国書刊行会)日本英学史学会 豊田實賞受賞、『志高く 孫正義正伝 決定版』(実業之日本社)はベストセラーになり英語・韓国語に翻訳された。『志高く 孫正義正伝 新版』(実業之日本社文庫)、『事を成す 孫正義の新30年ビジョン』(実業之日本社)、『とことん 孫正義物語』(フレーベル館)、『ポリティカル・セックスアピール 米大統領とハリウッド』(新潮新書)、『素晴らしき哉、フランク・キャプラ』(集英社新書)ほか。訳書に『マタ・ハリ伝 100年目の真実』(えにし書房)、『今日という日は贈りもの』(角川文庫)、『マリリン・モンロー 魂のかけら』(青幻舎)、『ミシェル・オバマ 愛が生んだ奇跡』(アートデイズ)などがある。

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(作家 井上 篤夫)

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