NHK大河ドラマではすべては描かれなかった…忠臣・石川数正が秀吉のもとへ出奔した本当の理由【2023編集部セレクション】
プレジデントオンライン / 2024年7月2日 17時15分
■本当に家康と徳川家を守るために出奔したのか
「老体にムチ打って大暴れしましょう。私はどこまでも殿と一緒でござる。羽柴秀吉なにするものぞ。われらが国を守り抜き、われらが殿を天下人にいたしまする。殿、決してお忘れあるな。私はどこまでも殿と一緒でござる」
家康(松本潤)が駿府の今川義元(野村萬斎)のもとにいたころからの忠臣で、徳川家臣団の要であり続けてきた石川数正(松重豊)は、家康にこういったのち、秀吉(ムロツヨシ)のもとに出奔した。NHK大河ドラマ「どうする家康」の第33回「裏切り者」(8月27日放送)での話である。
数正は家臣団の前で家康に、「秀吉のもとに参上なさってはどうでしょう」「臣下に入るべきと存じます」と勧め、いわば総スカンを食らった。その後、家康を説得しきれないとわかったところで冒頭の言葉を投げ、数日後、岡崎を発った。
なぜ数正は、家康のもとを離れて秀吉の家臣になったのか。第34回「豊臣の花嫁」では次のように描かれるようだ。数正は自身が悪役になってでも、家康が強大な力を手にした秀吉と戦って滅ぼされるような事態を避けたかった。すなわち家康と徳川家を守るために、飼い殺しにされるのを承知で秀吉のもとに下った――。
しかし、数正が出奔した動機は、キレイごとだけでは語りきることができない。
■家康の信頼の厚かった忠臣だが
数正が家族のほか、家康の人質になっていた信濃の国衆、小笠原貞慶の子を連れて秀吉のもとに出奔したのは、天正13年(1585)11月13日のことだった。じつは、この年の3月までに数正は、その名を「家康」の「康」の字をもらって「康輝」とあらためていた。それほど家康の信頼が厚かったということだが、混乱を防ぐためにここでは数正と記したい。
出奔する直接の動機となったと思われるのは、その直前に家康が秀吉から求められていた人質の提出を拒否したことだった。
この年の6月から7月、秀吉が越中(富山県)を治める織田信長の旧臣、佐々成政を服属させようとした際、家康が成政と手を結ぼうとしているという噂が立った。このとき織田信雄が家康に、秀吉の疑念を払拭するためにあらためて人質を出すように勧め、秀吉自身もまた、家康に人質を求めることになった。
家康側からは、小牧・長久手の戦いで講和した際、すでに次男の義伊(のちの結城秀康)と数正の子の勝千代(のちの康勝)、本多重次の子の仙千代(のちの成重)を秀吉のもとに差し出していた。それに加えて、家康の重臣の関係者をあらたな人質として送るように要求されたのである。
そして、徳川家中でこの話を推進していたのが、徳川家で秀吉との外交を担当していた数正だった。
■家中の政争に敗れた意味
それまでも数正は、徳川家を存続するためには秀吉と融和するしかないという立場で、家臣団のなかでそれを訴え続けていた。ところが、酒井忠次にせよ、本多忠勝にせよ、長久手の戦いで勝ったにもかかわらず秀吉に屈することを、潔(いさぎよ)しとしなかった。要するに、徳川家中は強硬派すなわち主戦派が圧倒的に多く、融和派の数正は孤立無援の状態だった。
その流れを受けて、家康は天正13年(1585)10月28日に、秀吉からの人質要求を拒否することを正式に決定。同じ日に徳川家の重臣たちと小田原の北条家の重臣たちのあいだで、起請文が取り交わされている。すなわち、秀吉との断交を決めたうえであらたな対戦を決意し、徳川と北条の同盟関係を強化したのである。
こうなると、秀吉との外交を担当し、家康との関係の安定化に尽力していた数正としては、まったく立場がない。要は、家中の政争に敗れたということで、その意味を柴裕之氏はこう記す。「康輝にとってこの敗北は、徳川氏内部での自身の立場はおろか、今後の自家の政治生命が断たれることをも意味したのだった」(『徳川家康』)。
■出奔しなければ殺されていた可能性
じつは、数正にはもうひとつの「失態」があった。先ほど、数正が出奔するときに小笠原貞慶の子を連れていった、と書いた。その親の貞慶自身が、家康が秀吉からの人質要求を拒んだのと同じ10月に、家康のもとを離れて秀吉に従属してしまった。この貞慶を指導する立場にあったのが数正だったから、数正の徳川家中での政治的発言力は、輪をかけて失われることになったのである。
「どうする家康」では、本多正信(松山ケンイチ)が探りを入れたところ、数正は大坂で飼い殺し状態に置かれていることが判明。長年仕えた主君を裏切った男が重用されるはずがないのを、なぜ数正は見抜けなかったのか、という描き方になるようだ。
しかし、数正が徳川家に残れば、もっとみじめな立場に置かれることになったに違いない。それどころか、命さえ覚束なかったかもしれない。
たとえば、織田信雄は家康と組んで小牧・長久手の戦いを起こすにあたって、親秀吉派の重臣、津川雄光、岡田重孝、浅井長時の3人を誅殺している。しかも、それは家康と協議したうえでの行動だった。
この時代、政争に敗れた以上は、いつ誅殺されても不思議ではなかった。しかも、いうまでもないが、数正は親秀吉派の信雄の重臣が殺害された事実をよく知っていた。もはや逃げるしか道がなかっただろう。
![毎年7月に福島県相馬市で開催される「相馬野成」には、 伝統武士の鎧を身にまとって、たくさんの人が参加している](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/d/1200wm/img_cd22d9da0f8c4052c28931055f61fa7b375769.jpg)
■誰よりも秀吉の強さを知っていた
ところで、数正はどうして秀吉と融和すべきだと、それほど強く主張したのだろうか。
天正12年(1584)11月、小牧・長久手の戦いの和睦が成立すると、同じ月に秀吉は従三位権大納言に叙任され、その後はあれよという間に高みに上り詰め、翌年7月には従一位関白になった。それと前後して秀吉は、小牧・長久手の戦いで信雄と家康に味方した勢力を次々と征伐していった。
天正13年(1585)正月には中国地方の毛利氏を従属させ、4月には畿内を平定。関白になった翌月には四国を平定し、さらには先に記した佐々成政を従属させた。すでに越後(新潟県)の上杉氏は秀吉に従っており、関東北東部の佐竹氏も秀吉の支配下にあった。つまり家康と北条氏は、秀吉の勢力によって周囲をすっかり囲まれてしまっていた。
このように秀吉が圧倒的に強大な勢力を築いていることを、徳川家中でだれよりも知悉(ちしつ)していたのが数正だった。天正11年(1583)、秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破って越前(福井県)を平定したとき、祝賀の使節として秀吉のもとに遣わされて以来、外交担当としてたびたび秀吉のもとを訪れ、否が応でもでもその力を認識するほかなかった。
そうである以上、徳川家中の主戦派の意見に同調することは、数正にはできなかったのだろう。しかし、孤立して政争に敗れた以上は、そこに踏みとどまることは危険だと考えたに違いない。
■数正と石川家を守るための出奔
ドラマで描かれるように、家康と徳川家を守りたいという気持ちも、数正にあった可能性は否定できない。また、ドラマで数正の心中をそのように忖度(そんたく)すること自体は、構わないと思う。ただ、数正が置かれた状況を考えれば、家康と徳川家よりも、自分自身と石川家を守るための出奔だったことはまちがいないだろう。
いずれにせよ、「酒井忠次と並び両宿老ともいうべき数正の出奔は、徳川氏にとってはもとより大きな打撃であった」と、本多隆成氏は書く(『徳川家康の決断』)。なにしろ、それだけの重臣が秀吉のもとに駆け込んだということは、徳川家の機密が秀吉にダダ漏れになることを意味した。
したがって、徳川家中では大急ぎで対応策を講じることになった。すなわち、以下のような措置である。岡崎城をはじめ領国内の城を整備して、防衛体制を強化する。数正を通じて軍事機密が秀吉に漏れてしまった可能性が高いので、軍法や軍制を変更し、滅亡した武田氏のものにあらためる。
「どうする家康」では、家康は「家康と徳川家を守るために、飼い殺しにされるのを承知で秀吉のもとに下った」という数正の「真意」に気づくようだ。しかし、現実には、数正の出奔はそのようなキレイごとではなかったからこそ、こうして家康はこのように防備を徹底させたのである。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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