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「偏差値75」なんて海外では通用しない…「学校の成績がすべて」と刷り込む日本の教育の"呪縛"

プレジデントオンライン / 2024年7月4日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ferrantraite

日本の学校は、偏差値を基準に「進学校と底辺校」、「一流大学とFラン大学」など序列がつけられている。京都芸術大学客員教授の本間正人さんは「偏差値というのは理論上、半数の人が50以下になるもので、しかも日本でしか通用しない。このような限られた指標が、子どもの学習意欲を下げる原因になってしまっているのはもったいない」という――。

※本稿は、本間正人『100年学習時代 はじめての「学習学」的生き方入門』(BOW BOOKS)の一部を再編集したものです。

■大人こそ古い学校教育の“被害者”

学校教育の影響を受けているのは、現在学んでいる子どもたちだけではありません。

むしろ、今、大人である世代にとって、古い学校教育の影響は甚大です。気づかないうちに植えつけられた古い学校教育の常識が、仕事や家庭生活、人間関係など人生全般に大きな影響を及ぼしています。

本稿では、私たちが学校教育のどんな影響を受けてきたのかを掘り下げながら、私たちに染みついている呪縛を解き放つヒントを見つけていきます。

■「教わらないと勉強ができない」の誤解

呪縛その① 教育とは学校の先生から教わること

「教育を受ける」という表現をよく耳にします。

「教育は受けるもの」であり、それはとりもなおさず、学校の先生から教わることだ、という固定観念は広く定着しています。文部科学省が「アクティブ・ラーニング」を声高に叫ぶようになった現在でさえも、日本の古い学校教育を受けてきた世代は、「教育を受ける=先生に教わる」というイメージが、極めて強く、深い呪縛となっています。

決して教わることが悪いとは言いません。しかし、教わらないとできないという誤解が蔓延しています。「教わらないと勉強ができない」という考え方です。

学習=やらされるものであり、それ以外は何をやったらよいのかわからない、という受け身の姿勢になってしまいます。振り返ってみて、自分にも思い当たる点はありませんか?

teach(教える)という動詞にeeがつくと、teachee、「受け身で教わる人」という意味になります。まさに私たちが受けてきた学校教育はteacheeをたくさん生み出しているのです。そして、その負の遺産を大人になっても心の中に抱え、そして自分の子どもたちに受け継がせてしまっているのです。

■年下の人からも大きな学びを得られる

日本では、学校の先生は子どもたちよりも年上で、「年上の人が教える」というモデルが存在しています。構造上、教員免許は基本的に22歳の4年生大学卒業で取得できる仕組みになっているので必然的に仕方のないことですが、これは何歳になっても学べるという認識を疎外しているのではないかと思います。

例外はありますが、実は通信教育や社会人教育でもその傾向は残っています。この構造が年下の人からは教わることはないという思考を私たちに植えつけ、年上の人たちの学ぶ意欲を下げているように思います。そして、何歳になっても学べる、学んでもよいという認識を持たない一つの理由となっているのではないでしょうか。

私は2021年4月に「調和塾」を立ち上げました。これは年下の人から年上の人が学ぶという構造にしています。発表するのは基本的に高校生や大学生、若手社会人で、参加者の年齢は30代から60代の人がほとんどです。

現代社会の最先端、時代の先頭を歩いている若い世代からその体験を聞くということに、大きな学びがあります。大人が社会認識をアップデートしていく、そして大人が持っている経験や知識、人脈、お金を若い世代に提供する、応援する、サポートする。そういったサイクルをもっと広めていきたいと思ってます。

■不登校を生み出す義務教育システム

呪縛その② 学校に通うことが学ぶこと

日本の小中学校はほとんど落第がありません。病気などによって、学年が遅れることは例外的にありますが、小中学校はほぼ100%、高校の場合にも、所定の日数を通えば卒業できる可能性が極めて高いのが実状です。

小学生、桜、卒業
写真=iStock.com/hanapon1002
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/hanapon1002

また今の日本の学校は、不登校であってもなんらかの形で校長が卒業認定をすれば通わなくても卒業させてしまいます。そのため、小学校で学ぶべきことを学ばなくても中学校に入学できます。

しかし小学校で学ぶべきことを学んでいないので、中学校の勉強についていけずに授業がわからない。そうすると中学生はほとんど不登校になる。でも校長が中学校卒業のハンコを押せば卒業したことになる……。本当にこれでは何を保証しているのかわかりませんね。

■高校・大学の卒業率が高いカラクリ

また、ある通信制の高校では「レポート提出」という形での授業がほとんどでした。これは本当に驚きました。教科書の記述を右から左に穴埋めで写し、たとえ何も理解していなかったとしてもレポートが仕上がる形式になっています。

ほぼ自動的に100点満点になるテストで成績がつけられ、5がつき、これで卒業できてしまいます。考えもしなければ、記憶もしない。形の上での高校卒業資格は得られますが、ここまで形骸化していたのかと驚愕しました。

また、今は大学においても実際のところ、出席していなくても単位を簡単にあげ、卒業させてしまいます。私が教鞭をとっている京都芸術大学では単位を落として留年する学生がいますが、留年する学生が極めて少ない大学では、あまり質の高くないレポートでも単位を与えて、卒業させているのではないかと推察されます。

そのような面で考えると、慶應義塾大学の通信教育課程など、卒業率の低い学校は品質保証という意味ではとても高いと言えるでしょう。

■能力が身についてなくても「大卒」になれる

学校に通ったら卒業したことになり、それなりの力がついたことになってしまう。でも実際は学校を卒業したときに身についているはずの能力が身についていない……。

文科省の文言通り、「大学卒業」という言葉を考えたときに胸を張れる大学は、本当に一握りかと思います。そうした歴史の中で私たちは生きてきたのです。

学校中心の教育を受けていると、どの学校に入るかということが目的になってしまいがちです。そのため、「本意ではない」学校に進んだときに、思わぬ罠に陥りやすくなります。自分がやりたいことがはっきりとしないまま学生生活を送り、その後の進路を決めるときにも何をやりたいのかがわからなくなる。こうした学生は今も多く見かけます。

また、振り返ってみて「あのときから自分の人生は狂ってしまった」と嘆く人は少なくありません。努力の末に、「本意」だった第一志望校に進んでも、学校にさえ行けばなんとかなるという考えであれば、入学したあとに同じような罠にかかってしまうのです。

■社会には「正解」なんてないのに…

呪縛その③ 学校の成績がすべて

試験でよい成績を取ることが人生の目標になってしまう。気づかないうちにそんな思考になってしまう児童・生徒・学生、そして保護者は少なくありません。これもまた、学校がすべてという狭い思考に陥っている証です。ひょっとすると、教師こそが、最もこの陥穽にはまっているかもしれません。

実は、正解が存在するのは学校の中だけなのですが、そのことに気づかないまま社会に出ると、何が正しいのかわからなくなってしまいます。コロナ対策、景気対策、外交、安全保障、マーケティング、商品開発……。社会には、普遍的な正解なんてないわけです。

にもかかわらず、学校の中には常に出題者が用意した正解があり、それに合致する人が優秀と評価されてきました。優等生とは、他者の設定した基準に合わせる能力の高さだったのです。

けれども、自分の生き方に関しては、どうでしょう? それも他者の設定した基準に合わせるのですか? 自分なりの基準に照らして、自分が納得できるかどうかが最も重要なのではありませんか?

■評価されるべき人が正しく評価されない

試験で評価されること、他者から高い評価を受けることがいちばん大事、といった判断基準は実は、学校だけでなく、広く社会に蔓延しています。

通信表
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

人柄がとてもよくて気持ちがやさしく、誰かを助けてあげる子。学校の成績はあまりよくないけれど本当に親切な子。細かい作業をコツコツ続けられる子。そんな子どもたちの素晴らしさを適切に評価する仕組みは、現在の学校教育にはありません。

正解のある試験で評価されることが得意な子は「あの子はできる子」と言われ、社会で優遇されてきました。しかし、手先が器用とか、絵を描くのが得意だとか、おじいちゃんおばあちゃんの話がよくわかるとか、そんな子どもたちは、学校で必ずしも評価されてこなかったのです。そして、その考え方は、社会に出てからも見えない呪縛となって心の中に残っています。

正しいか、間違っているか。二項対立にとらわれてしまいがちなのは、そのためです。新しい選択肢は生まれず、思考停止に陥ってしまい、感情的な対立だけが繰り返される状況が、私たちの周りにあふれています。

■教科書に書かれている「今」は3年前

呪縛その④ 教科書という「過去のこと」を大事にする

基本的に教科書に書かれているのは過去のことです。だいたい、教科書をつくるのに3年かかります。文科省に申請してから執筆し、提出し、検定意見を聞いて再修正などをして検定に合格し、印刷そして全国に配るまで、最低3年かかるのです。社会の変化がゆっくりな時代には誤差の範囲でしたが、変化の速い現代にあっては、3年という時間は「ひと昔」より長いかもしれません。

科学技術も世界の政治・経済も劇的に変わっています。過去の常識が現代に生きる我々にとって役に立つ割合が下がっています。逆に過去の常識が足をひっぱることもあるでしょう。

昔はこれくらいのことを言ってもセクハラにならなかった。しかし今は性差別になる、年齢、人種差別になるということがいっぱいあります。あるいは、日本は経済大国だという思い込みが、経営者の経営方針を誤らせているということもあります。

人間の記憶には、過去の記憶、「残像」が残ります。過去の成功体験から脱却できない経営者がいっぱいいます。過去のケースを学ぶのは大事で、参考にはなるけれど、それを金科玉条のごとく守り、更新しないでいると、判断を誤ることになるのです。

■デジタル社会でも紙ベースで試験を行う

また、今までの教育は圧倒的に文字情報中心の学習スタイルだったことも教科書を大事にしすぎることにつながっています。これは学校が普及したときのテクノロジーに由来しています。タブレットもコンピュータもなく、紙での学習がすべてでした。

日本の江戸時代の寺子屋では活版印刷ではなく、手書きの版を刷り教科書がつくられていました。明治時代になっても、文字情報中心の授業が行われるようになりました。

教科書というものが主な情報源で、文字情報中心の紙ベースの情報、また試験は紙と鉛筆によって行われる、というように、学校教育は圧倒的に文字を中心に成り立っていました。そして、デジタルなどのテクノロジーが進化している現在になっても、ほとんどの学校で紙ベースの文字情報中心授業、そして試験が行われているのです。

試験
写真=iStock.com/smolaw11
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/smolaw11

いまだに試験と言えば、マルチプルチョイスの問題を与えられ、選択肢を選んで答える、短答式・記述式で答えるというのがほとんどです。大学入学共通テストも基本は紙ベースです。ほとんど文字情報中心で行われています。

人間には人によって異なる「学習スタイル」があります。そのため、文字情報を処理するのが得意な人には非常に向いている制度ですが、それ以外の能力を持っている人がこの学校制度に不適合を起こすのは極めて自然なことだと思います。

アカデミックな業績も、論文という文字情報に依拠したものでしか評価されない、というのも時代錯誤的です。音楽や映像、VR、AR、CGなど、論文以外の業績も、学術的に評価する仕組みが整備される必要があります。

■「一流大学」の優越感と「Fラン大学」の劣等感

呪縛その⑤ 階級社会で濫用される「評価」

日本の学校教育では、非常に偏った評価基準で序列がつけられています。ランキングをつけるために教育制度が濫用されているとさえ言えるかもしれません。

学校間では、進学校と底辺校、一流とFラン、学校内でも特進コースと普通コースなど、恣意的な尺度に基づく序列がつけられることが珍しくありません。個々の教育機関や個人の「特徴」は捨象されて、ただ一つの物差しで順位がつけられ、ときには「問題児」「発達障害」といったレッテルが貼られます。

大阪市立大学小学校校長の木村泰子先生は、著書『ふつうの子なんて、どこにもいない』(家の光協会)の中で、インクルージョンの重要性を強調していますが、総合力ではなく、人間の持っている多面的な能力の中で偏った部分の評価基準で比較が行われているのが現状なのです。その結果、間違った優越感や本来持つ必要のない劣等感を味わうことになるのです。

■偏差値という指標は日本でしか通用しない

従来型の学校で珍重されてきた評価基準は、だいたい1時間から2時間の間に、記憶した知識を思い出して、与えられた設問に解答する。その答えは、数字と文字ベースの情報がほとんどだったのではないでしょうか?

本間正人『100年学習時代 はじめての「学習学」的生き方入門』(BOW BOOKS)
本間正人『100年学習時代 はじめての「学習学」的生き方入門』(BOW BOOKS)

より長い時間をかけてじっくりと取り組んだ成果や当意即妙のコメント力、今までにないものを生み出すクリエイティブな能力などは、多くの学校で適切に評価されてこなかったと感じます。

そして、限られた指標で比較される場面が非常に多い。偏差値というのは理論上、半数の人が偏差値50以下になります。これはそれだけで学習意欲を下げてしまう困った仕組みです。また、偏差値は日本でしか通用しません。偏差値が75であろうと世界では全く意味がありません。しかも、私立大学の一般入試が数回行われている今、予備校の発表する偏差値がどこまで信頼性のある数値なのかは疑問です。

もともと限定的な意味しか持たなかったものが、グローバルな社会の中で、ますますその意味を失っている、にもかかわらず、それが学習意欲を下げる最大の原因になっているとしたら、なんとももったいないことです。

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本間 正人(ほんま・まさと)
NPO学習学協会代表理事、京都芸術大学客員教授
「教育学」を超える「学習学」の提唱者。アクティブ・ラーニングを30年以上、コーチングを25年以上実践し、「研修講師塾」「調和塾」を主宰。NHK教育テレビでビジネス英語の講師などを歴任したほか、企業や官庁の管理職や教員・医療関係者対象の研修講師を務めてきた。現在、らーのろじー(株)代表取締役、一般社団法人クロスオーバーキャリア代表理事、一般社団法人キャリア教育コーディネーターネットワーク協議会理事、NPOハロードリーム実行委員会理事などを務める。誰もが最新学習歴を更新し続ける「ラーニングコミュニティ」「学習する地球社会のビジョン」構築を目指す。コーチングやほめ言葉、英語学習法、などの著書多数。東京大学文学部社会学科卒、松下政経塾(3期生)を経て、ミネソタ大学大学院修了(成人教育学 Ph.D.)。

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(NPO学習学協会代表理事、京都芸術大学客員教授 本間 正人)

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