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バラバラになった10万個の石を35年かけて積み直す…熊本城で行われている「史上最大の復旧作業」のすさまじさ

プレジデントオンライン / 2024年7月6日 14時15分

石垣の復旧工事が続く熊本城=2023年4月10日、熊本市(共同通信社ヘリから) - 写真=時事通信フォト

2016年の熊本地震による大きな被害を受けた熊本城は、いまでも復旧工事が続いている。歴史評論家で城郭に詳しい香原斗志さんは「すべてが復旧するのは2052年度、さらに往時の姿への復元整備が完了するのはさらにその先の予定だ」という――。

■熊本城の修復工事が、ほかの城郭に与える影響

好むと好まざるにかかわらず、地震国ニッポンにおいては、城郭の石垣は揺れるたびに被害を受ける。城に石垣が多用されるようになった戦国末期から江戸時代末までは、常に全国のどこかの城で、石垣の修復工事が行われている状況で、明治時代に城が城としての機能を失ったのちも、各地で被害と修復は続いている。

元日の能登半島地震では、国指定史跡で日本100名城にも選ばれている七尾城(石川県七尾市)で、石垣の崩落や変形、地面の亀裂などが11カ所で確認された。

また、加賀前田100万石の拠点で、いうまでもなく国の史跡で日本100名城でもある金沢城(同金沢市)でも、石垣が崩れたり傾いたりする被害が28カ所で生じた。崩れた石を積み直す作業だけなら、3~5年ほどで終わりそうだが、ズレなどすべてを修正するためには、15年程度を要するという。

いずれも、復旧にはたいへんな手間と時間と費用がかかるわけだが、それをやり遂げるために、大いに参考になる事例がある。平成28年(2016)の熊本地震で被害を受けた熊本城である。

■すべての建造物が被災した

2016年4月14日21時26分、熊本地方はマグニチュード6.5、最大震度7の地震に見舞われた。しかし、これは前震にすぎず、同16日1時25分、マグニチュード7.3、最大震度7の本震が発生した。

かつて茶臼山と呼ばれる丘陵だった熊本城一帯の地質は、火山噴出物の上に、阿蘇山から流れ出た火砕流が堆積したもので、全体に地盤が脆弱だった。そこに、震源の深さが10キロほどの激しい揺れがもたらされたから、被害は大きくなった。

国の重要文化財に指定されていた13棟の建造物はすべてが被災し、北東の石垣上に建っていた東十八間櫓と北十八間櫓は全壊。現在の本丸から800メートルほど離れた「古城」に加藤清正が築いた初代天守を移築したといわれる3重5階の宇土櫓は、破損しつつも倒壊は免れたが、それに続く多門櫓と二重櫓は倒壊した。

復元建造物の被害も大きかった。昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造で外観復元された大小天守のほか、史料を活用し、史実にもとづいて伝統工法で復元された20棟も、すべて被災してしまった。塀もほとんどすべてが倒壊した。

復元建築が多かったのは、震災に遭ったとき、熊本城はちょうど広域にわたる復元整備事業の真っ只中だったからである。

■「復元整備計画」の真っただ中だった

「熊本城復元整備計画」が策定されたのは、平成9年(1997)のことだった。そこには「30年から50年をかけて、加藤清正が築城した城郭全体(約98ha)を対象に、往時の雄姿を復元するとともに、市民や観光客に愛され利用される整備を目指す」と記されていた。

翌平成10年(1998)から早速、開始された第1期の事業は、築城400年祭が開催された平成19年(2007)までに完了した。

この間、西出丸一帯に南大手門、戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓が総事業費約19億円で復元され、平成11年(1999)の台風で倒壊した西大手門も、約5億円を投じて再建された。飯田丸には約11億円の事業費で飯田丸五階櫓が、本丸には約54億円を投じて本丸御殿大広間が、それぞれ復元された。

続いて、平成20年(2008)から29年(2017)の予定で、第2期の整備が進められ、震災に遭うまでに、本丸の南側に位置する竹の丸の馬具櫓と続塀などで、復元工事が終わっていた。その後も竹の丸五階櫓、数寄屋丸五階櫓、御裏五階櫓という3棟の5階櫓のほか、櫨方三階櫓、北大手門など、主要な建造物が続々とよみがえるはずだった。

ところが、いうまでもなく、あらたに建造物を再建するどころではなくなった。よみがえった建造物の大半は、土台となる石垣もろとも被災し、修復のためにいったん解体されてしまったものが多い。

今後復元が期待される「数寄屋丸」
地震で大きな被害を受けた「数寄屋丸」(写真=ブルーノ・プラス/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■10万個の石を同じ場所に積み直す

だが、なにより被害が大きかったのは石垣だった。残されている973面(約7万9000平方メートル)のうち、築石が崩落した箇所は229面(約8200平方メートル)と、全体の1割強におよんだ。

また、石積が緩んだり膨らんだりして積み直しが必要になった箇所は、517面(約2万3600平方メートル)と、全体の約3割に達した。ほかにも約70カ所(約1万2345平方メートル)で、上面が沈下または陥没したり、地盤に亀裂が入ったりしたという。

熊本城は全国の城でもほかに類を見ないほど、何重もの累々たる石垣に囲まれている。それだけに、被害も類を見ないレベルに達したといえる。

これらの石垣を積み直しながら、重要文化財に指定されている現存建造物や復元建造物を、元の場所に元どおりの姿で再建するのである。少なくとも、明治以降においては、これを上回るような城郭の修復および復元事業はなかった。

しかも、その修復には、気が遠くなるような膨大かつ緻密な作業が必要となる。1平方メートルあたり3~4個の築石が積まれていると考えると、積み直す築石の数は7万~10万個にもなる。しかも、ただ積めばいいのではない。すべての石を、崩落前に積まれていたのと同じ場所に積み直すのが原則なのである。

石垣が震災で崩れた箇所は、金沢城でも同様なのだが、後世、すなわち江戸時代中期から明治、そして昭和までに積み直された箇所が多い。慶長期(1596~1615)に大きく進化した石積み技術は、江戸中期以降は廃れ、築石にも小ぶりなものが使われるようになり、強度がたもたれなくなった。言い換えれば、かつての修復作業は、いまよりもかなり雑だったのである。

■以前と同じ位置でもより安全に

では、いまの石垣の積み直しはどうか。令和4年(2022)5月から作業がはじまった飯田丸五階櫓の石垣の場合、最初に被災前の写真や石垣の図面を参照し、崩れた築石が積まれていた場所を探す石材照合が行われた。

その結果、大半の築石を元の場所に戻すことができたが、破損している石材もあった。割れていても接合可能なら、樹脂製の接着剤やステンレス製の棒で接合し、修復不可能なものは、もとの築石の正面の型をとり、あらたな石材をそれと同じ形状になるように加工した。

それらを積む際も、被災前や解体前の写真を確認し、1石ずつ勾配に留意しながら積み上げられた。築石と築石のあいだに小ぶりの間詰石を、背後には栗石(こぶし大、または人頭大の石)や介石(築石を裏から支える平たい石)を入れ、石積みを安定させながらの作業である。

ただし、被災前と同じように積むだけだと、ふくらみやズレなどの不安定な要素も復元しかねないので、熟練の職人が微調整を繰り返しながら、安定性を確保したという。

また、石垣が地震で崩落する原因のひとつが栗石の流動化だとわかったので、ステンレスと樹脂を接合した格子状のシートを栗石の内部に設置。先の熊本地震と同規模の地震に見舞われても、石垣が崩落しないように対策が施された。

1874年、熊本城
明治7年(1874)に撮影された熊本城(写真=富重利平/長崎大学附属図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■すべてが復旧するのは2052年

こうした作業が各所で重ねられるのである。かつての天下人のように、1日に数万人を動員できれば、工期も短く済むだろうが、現代においては不可能だ。

熊本市が平成30年(2018)に策定した「熊本城復旧基本計画」では、復旧期間は20年で、令和20年(2038)に復旧が完了するはずだった。しかし、令和4年(2022)度に、それまでの達成状況や今後の課題などを検証した結果、計画期間は当初より15年延びて35年とされ、すべてが復旧するのは令和34年(2052)になると発表された。

計画15年目の令和14年(2032)度までに、宇土櫓と本丸御殿が復旧し、25年目の令和24年(2042)度までに、主要区域および重要文化財に指定されているすべての建造物が復旧する。その後、臨時で設置されている特別見学通路を撤去し、この通路の下部にある石垣の修復や、主要区域以外の工事を実施するという。

気の遠くなるような話ではある。しかし、稀有な文化財であり史跡である熊本城の価値を守るために、拙速な復旧は避けるという強い意志表示だともいえる。

目先の利益を優先して、文化財や自然を安易に破壊してきた日本。いまなお政治も世論も目先の都合ばかりを論じて、骨太な将来像を示せない日本。それに対して熊本城の地道な復旧計画は、子孫に継承すべき日本を、どういう視野をもってどうつくるべきか、という示唆にも富んでいる。

■本当に100年先を見据えた整備事業

『熊本城復旧基本計画』第4章6の「100年先を見据えた復元への礎づくり」には、復旧事業が長期にわたるため、必要な専門知識や技術をもつ人材を継続的に確保する必要があり、その育成に取り組むという方針が記されている。

そして当面の5年間は、石工、施工監理技術者、技術設計者など石垣の復旧に必要な人材を、20年から30年後の世代交代や技術継承まで見据えながら、育成するとされている。

さらに先の展望も示されている。前述のように熊本城では震災前まで、往時の雄姿を復元する「熊本城復元整備計画」が進められていた。それはいったん途絶えたが、「復旧後の整備事業」として、こう書かれている。

「復旧完了が2052年と仮定すると、築城後445年になります。これまで検討してきたように『幕末期など往時の熊本城への復元整備』など長期的な整備事業に挑むとすれば、築城450年あるいは500年という節目が目標となります。当然私たちの世代で成し得ることではありませんが、将来に大きな夢を託す観点からも、現代を生きる私達の復旧には大きな意味と責任があります」

100年先を見据えた視野。いま日本がもっとも失っていることを、この天下の名城と、空前の修復事業は教えてくれるのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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