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「信長の命令に逆らえず、泣く泣く応じた」は間違い…徳川家康が正妻と嫡男に自害を命じた本当の理由

プレジデントオンライン / 2024年7月13日 8時15分

徳川家康三方ヶ原戦役画像(写真=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

なぜ徳川家康は正妻の築山殿と嫡男の信康を自害させたのか。歴史学者の渡邊大門さんは「対武田氏への政治路線の相違が原因だ。決して織田信長の命令ではなく、あくまで徳川家渦中の問題だった」という――。(第1回)

※本稿は、渡邊大門『戦国大名の家中抗争』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

■徳川家康が歩んだ激動の青年期

徳川家康が岡崎城(愛知県岡崎市)主の松平広忠の子として誕生したのは、天文11年(1542)のことだった。母は、水野忠政の娘の於大の方である。幼名は竹千代で、以後は何度か改名するが、煩雑さを避けるため「家康」で統一する。

当時、広忠は、駿河の今川義元に従い、尾張の織田信秀(信長の父)と対峙していた。しかし、水野信元(於大の方の兄)が織田方に寝返ったので、広忠は泣く泣く於大の方と離縁した。

6歳になった家康は、義元のいる駿府に人質として向かおうとしたが、その途中で織田方に捕らえられた。家康が今川氏と織田氏の捕虜交換により、改めて駿府に向かったのは、天文18年(1549)のことである。

家康は今川氏の家臣の関口氏純の娘(築山殿)を娶り、名も義元の「元」の字を与えられて、元康と改名した。永禄3年(1560)に桶狭間の戦いが勃発し、信長に急襲された義元が討たれた。

義元の横死を契機として、家康は三河において自立を画策したのである。翌年、信長と和睦を結ぶと、永禄6年(1563)に名を家康に改めた。

以降の家康は、信長とともに各地を転戦した。元亀元年(1570)、家康は信長とともに浅井・朝倉連合軍を近江で撃破した(姉川の戦い)。その後、強敵となったのが甲斐の武田信玄である。

元亀3年(1572)、家康は三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫した。翌年、信玄が病没すると、跡を継いだ勝頼も家康に果敢にも挑んできたが、天正3年(1575)の長篠の戦いで、家康と信長の連合軍は勝頼を打ち破ったのである。

■なぜ「松平信康殺害事件」が起きたのか

家康が大活躍している頃、大きな事件に巻き込まれた。松平信康殺害事件が勃発したのである。信康は、家康の嫡男である。

信長が家康を信頼するパートナーと考えていたのは疑いないが、天正7年(1579)9月に信長が家康に嫡男の信康を殺害させたことは、のちの遺恨になったといわれ、本能寺の変に影響したという説すらあるほどだ。家康は信康の殺害を指示されたので、信長に恨みを抱いたというのである。

この事件について考えるため、最初に経過を示すことにしよう。

天正7年8月3日、家康は信康のいる岡崎城(愛知県岡崎市)を訪ねると、その翌日に信康は岡崎城を退去し、大浜城(愛知県碧南市)に入った。

同年8月29日、家康によって、信康の母・築山殿が自害に追い込まれた。家康と妻の築山殿は、不和だったといわれている。築山殿は後述するとおり、武田氏に加担しようとした子の信康と行動をともにしたので、家康との関係が悪化したのである。

その後、信康は堀江城(静岡県浜松市)、二俣城(同上)に移され、同年9月15日に切腹を命じられた。その間、家康は家臣らに対して、以後は信康と関わりを持たないという趣旨の起請文を書かせた。

信康の首は信長のもとにいったん送られ、返却されてから若宮八幡宮(愛知県岡崎市)に葬られたのだ。

松平信康の肖像
松平信康の肖像(写真=勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■「信長の意向に逆らえなかった」という説

次に、信康殺害事件が勃発した事情について、通説を確認しておこう。元亀元年(1570)、家康は領国が遠江国にまで拡大したので、信康に家臣を付けたうえで岡崎城の城主とし、三河国の支配を任せた。家康は複数国の支配を単独で行うのではなく、子にその一部を担当させたのだ。

父が後見のような形となって子に家督を譲ったり、一定領域の支配を任せたりすることは、さほど珍しいことではない。

築山殿は夫の家康と不和だったので、信康の居城・岡崎城に留まり、家康の居城・浜松城に移らなかった。信康の妻は信長の娘の五徳だったが、五徳は築山殿との折り合いが悪く、出産するのは跡継ぎとなる男子ではなく、女子ばかりだった。こうしたことが災いし、天正5年(1577)頃から信康と五徳の関係も冷え切っていたという。

一方、天正3年(1575)から信康は武田氏との合戦に出陣したが、目立った軍功がなかった。信康は武芸に励んだが、一方で些細な理由で人を殺すなど、人格に問題があったと伝わる(『松平記』)。

信康に対する評価は悪いものが多く、その情報はやがて五徳を通じて信長の耳に入った。五徳の十二カ条にわたる書状には、五徳と信康が不仲であること、築山殿が武田氏と内通していることなどが書かれていた。

信長は信康や築山殿に強い不信感を抱き、家康に対して信康と築山殿の処分を要求したのである。家康は信長の意向に逆らえず、泣く泣く指示に従ったというのだ。以上が通説的な見解だろう。

とはいいながらも、後世に成った『松平記』が殺された信康や築山殿を悪しざまに描くのは、二次史料の常套手段にしか思えない。家康による信康や築山殿の殺害を正当化するためである。

■武田氏との親密路線を選んだ信康

上の通説的な見解に疑義を提示したのが、近年の研究である。柴裕之氏の研究は、信康殺害事件を徳川家中および政治路線をめぐる闘争という観点から、事件を読み解いている。

そもそも家康は、路線が異なった信康を廃嫡に止めるのではなく、あえて殺害に及んだという。この事件のポイントは、ここにあると指摘する。

天正3年以降の家康は、織田方の尖兵として対武田氏の攻略に苦心惨憺していた。戦争は長期化し、その経済的負担も大きかった。それは、家臣や領民も同じであろう。

一方の武田氏は御館の乱(上杉謙信没後の家督争い)の影響もあって、北条氏とも敵対するなど決して安泰ではなかった。危機を感じた武田氏は、信長との和睦を模索し、併せて対徳川氏の政策つまり敵対する関係を見直そうとしたのだ。信康や築山殿に武田氏が接近したというのは、こうした政策転換にあったのではないかと指摘する。

信康と築山殿は武田氏と結ぶことで、徳川氏の将来に活路を見出そうとしたのである。

一方で、武田氏と敵対した北条氏は、家康に急接近していた(「静嘉堂文庫集古文書」)。この家康と信康の路線の相違が、両者の対立を生み出した。

家康は武田氏との戦争続行を主張したが、信康はこれまでの武田氏政策を見直し、接近を図ろうと考えた。徳川の家中は対武田氏の政治路線をめぐって、二つに割れてしまったのだ。

■あくまで徳川家中の問題だった

このまま事態を放置すれば、徳川家中は崩壊する危機にあった。結果、先述した五徳が信長に送った書状の一件が発端となり、天正7年(1579)7月に家康は家臣の酒井忠次らを信長のもとに遣わした。

家康の意向は、これまでどおり信長に従い、武田氏との戦いを継続することだった。そこで家康自身が信康に真意を問い質した結果、自害を命じたということになる。その処分は、加担した築山殿に対しても同じだった。

渡邊大門『戦国大名の家中抗争』(星海社新書)
渡邊大門『戦国大名の家中抗争』(星海社新書)

つまり、信康の処分は、家康の判断によるものだったのだ。家康は信康らを処分することで、今後の親信長の路線を明確にし、家中の結束を強めたのである。

信康殺害事件は決して信長から強要されて、家康が泣く泣く信康に自害を命じたものではない。家康は信長に従って武田氏討伐の決定を堅持し、その方針に反する信康が家中分裂、つまり徳川家の崩壊につながると予想し、敢えて信康を切った。

こうした例は徳川家だけではなく、当時の戦国大名に見られた事例でもあり、家康が信長に命じられて、泣く泣く応じたという説は当たらない。家康による信康殺人事件は、あくまで徳川家中の問題だった。苛烈な性格だったという信長の命令ではなかったのである。

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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者
1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。

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(歴史学者 渡邊 大門)

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