「女帝・小池百合子知事はまた公約不履行」突っ込まれそうな"無痛分娩の助成"…病院の受け入れが無理筋なワケ
プレジデントオンライン / 2024年7月5日 10時15分
■「女性票が取れそう」と小池陣営が公約に“ちょい足し”した感
7月7日投開票予定の都知事選も終盤である。現職で最有力候補者の小池百合子氏は3期目の公約として「子育て、教育にお金のかからない東京を目指す」と述べており、その具体策の一つとして「無痛分娩(ぶんべん)への助成制度新設」を6月18日に発表した。
一方、ライバルの蓮舫氏も7月1日のXで「無痛分娩の無償化の考え方そのものは素晴らしい」と絶賛した。
私は麻酔科の医師だが、この麻酔科は眼科や放射線科などと共に病院内ではどちらかといえばマイナーな存在で、外科や内科のような一般人にイメージしやすい科ではない。その麻酔科の中でも、無痛分娩はさらにマイナーな分野とされてきた。
2024年5月には俳優の生田斗真氏がインスタグラムで、読者の「今日で妊娠9カ月です 出産こわいよー」というメッセージに対し、「旦那様に無痛おねだりするか」と返答したところ、「女性に決定権はないのか」などと反論され炎上騒ぎになった。このように無痛分娩が芸能ニュースや選挙公約として注目される時代がやってくるとは、医師歴30年の私にも予見できなかった。
「無痛分娩への助成」によりスポットライトが浴びる麻酔科の医師としては喜ぶべきかもしれないが、「女性票が取れそう」と小池陣営が実態調査もしないままに公約に“ちょい足し”した感も否めない。当選するなら、公約をぶち上げるのが政治家である。とはいえ、小池都政が3期目に入ったら、公約どおり東京都の女性は本当に無痛分娩の恩恵を受けられるか、現場の視点で考えてみたい。
■無痛分娩は無痛ではない
現在の無痛分娩でもっとも一般的な方法が「硬膜外無痛分娩」ある。陣痛の痛みは、子宮から背骨の中にある脊髄という神経の束を通じて脳に伝わる(図表1)。よって、脊髄を取り囲む硬膜という膜の外側の狭い空間(硬膜外腔)に細いチューブを留置し、そこから麻酔薬を投与することで脊髄神経に麻酔をかけて、脳への痛みの伝達をブロックすることで陣痛や下半身の痛みを軽減する(図表2)。
硬膜外麻酔そのものは胃切除や肺切除などの手術でも用いられるポピュラーな手法だが、患者は寝ているだけの手術とは違って、無痛分娩においては妊婦が分娩台で陣痛に合わせていきむ(下腹部に力を入れて踏ん張る)必要がある。
よって、麻酔薬は一般手術よりは薄く、足腰が動き、わずかに陣痛を感じられる程度に調整することが望ましい。また、陣痛が始まって周期的で本格的な陣痛になってから硬膜外カテーテルを入れるケースが多い。
無痛分娩と呼ぶものの「完全に無痛」ではなく「和痛分娩」と説明している病院も多い。2008年のドラマ「風のガーデン」では、中井貴一が演じる末期がんの麻酔科医が、がんの痛みを硬膜外麻酔で抑えながら娘の結婚式でバージンロードを歩く場面があるが、この麻酔テクニックに近い。
■米国73.1%、日本11.6%…なぜ広まらなかったのか
この硬膜外無痛分娩の先進国としては、米国やフランスが挙げられる。硬膜外分娩率は米国では73.1%(2018年)、フランスでは82.2%(2016年)と報告されているが、日本では11.6%(2023年)と極めて少数である。
その理由としては「健康保険の適応外で高価(5万~20万円)」であり、「日本社会は女の痛みに鈍感」「痛みに耐えて出産することを美徳とする文化」を挙げる有識者もいる。
そういう面もあるだろうが、何より最大の理由は麻酔科医の絶対数が不足しており、手術の麻酔を手掛けるだけで精一杯で無痛分娩をカバーできる余力がないということだ。米国では「麻酔看護師」という「専門的なトレーニングを受けた看護師が簡単な麻酔を行う」制度があり、無痛分娩においては貴重な戦力となっているが、同様の職種がない日本が真似することはリスクが大きい。
無痛分娩の実施率は日本国内でも地域格差が大きく、トップの東京都は約28%だが、地方では2~3%の都道府県も複数存在する(図表3、2023年)。麻酔科医数に余力のある東京都では無痛分娩は広まりつつあるが、手術麻酔で精一杯の地方病院では今なお“贅沢品”なのだろう。
また、コロナ禍でも問題になったが、日本の病院は小規模施設が多数乱立する非効率的なシステムであり、産科も例外ではない。医師の人数「産婦人科2名、麻酔科1名」の施設を10件維持するよりは「産婦人科20名、麻酔科10名」の施設1件の方が、効率的で「医師の働き方改革」にも有効だ。しかし、「産科をなくすな!」といった自治体などの抵抗勢力に阻まれて、「医師の働き方改革」が始まった2024年度になっても集約化が進んでいない。
マンパワーが不足気味の小規模病院では、無痛分娩の麻酔事故がいくつか報告されている。2021年には無痛分娩の麻酔事故で母子ともに障害が残り、医療訴訟で約3億円を敗訴しており、2023年には無痛分娩後の31歳妊婦死亡について7500万円で和解が成立している。大きな病院ならば事故がないと思いきや、2017年には順天堂大学で「無痛分娩の際に子宮が破裂して死産になったのは医師らの過失が原因だ」として1億4000万円の賠償金を求めて提訴されている。
■24時間体制がつらい、無痛分娩という仕事
日本の医師数そのものは年々増えてはいるが、断トツで不人気で減少傾向にあるのが産婦人科、中でも産科である。分娩はいつ始まるかわからないため、産科施設では24時間365日体制で誰かが働かなくてはならない。
無痛分娩を担当する麻酔科医も同様であり、安全な無痛分娩を提供するには24時間体制での無痛分娩トレーニングを受けた医師によるカバーが必須となるが、今どきの若手医師にとっては魅力的な働き方ではないだろう。
近年、女医率増加により、夜通し働く当直医の担い手が減少しており、さらに2024年から罰則付きになった「医師の働き方改革による労働時間制限(時間外労働は年960時間以内)」は、無痛分娩への大きな向かい風ともなっている。2023年には麻酔科医不足を理由に「安全な麻酔を提供できない」と大阪大学が無痛分娩から撤退してニュースになった。
■東京に多いフリーター医師が無痛分娩で荒稼ぎ?
東京には腕のある医師も多いが、専門医コースからドロップアウトして「予防接種」「脱毛の問診」「プラセンタ注射」など何でも屋としてアルバイトで食いつなぐフリーター医師も相当数いる。小池氏が公約とする「無痛分娩の補助」制度により、こうした非麻酔科の医師が仕事を安易に受注する可能性もある。そうなると、上記のような悲惨な麻酔事故を誘発してしまう恐れもある。
東京都が高い報酬を出せば地方から麻酔科医を引き抜くことは可能だが、引き抜かれた地方病院では医師不足が加速する。「太陽光発電への補助金」が山林やら湿原の生態系を次々と破壊したように、特定分野への安易な補助金は医師の生態系を破壊するのである。
■無痛分娩には補助金だけでなく産科集約化が必須
東京都で安全な無痛分娩を普及したければ、予算(お金)が必要なのは当然だが、それと並行して病院を集約化し、小規模施設を吸収合併することで効率化を進めることが必須となる。厚生労働省の定めた「時間外労働年960時間以下」を遵守しつつ24時間体制で麻酔科医を常駐させるならば、当直可能な麻酔科医が5人以上は確保する必要がある。
「無痛分娩1件10万円の補助金」レベルでの採算を考慮すれば「分娩件数は年1000件以上」の大型施設への統合は必要だろう。単なる補助金支給で満足するのではなく、産科のみならず麻酔科小児科を含めた統合を進め、医師個人のボランティア精神に頼らずシフト制で人間らしい職場環境を提供することが、回り道のようだが、持続可能な無痛分娩へのゴールとなる。こうした仕組みづくりをしなければ、小池氏は「また公約不履行」と言われることになるかもしれない。
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フリーランス麻酔科医、医学博士
地方の非医師家庭に生まれ、国立大学を卒業。米国留学、医大講師を経て、2007年より「特定の職場を持たないフリーランス医師」に転身。本業の傍ら、12年から「ドクターX~外科医・大門未知子~」など医療ドラマの制作協力や執筆活動も行う。近著に「フリーランス女医が教える「名医」と「迷医」の見分け方」(宝島社)、「フリーランス女医は見た 医者の稼ぎ方」(光文社新書)
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(フリーランス麻酔科医、医学博士 筒井 冨美)
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