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織田信長は「すぐキレる鬼上司」ではなかった…日本人が誤解している信長の"本当の性格"

プレジデントオンライン / 2024年7月17日 9時15分

織田信長像〈狩野元秀筆〉(図版=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

日本人が好きな歴史上の人物の一人が織田信長だ。うつけもの、戦術の天才、残酷非道などさまざまなイメージのある信長は、一体どんな人物だったのか。歴史小説家の杉本苑子さんと永井路子さんの共著『ごめんあそばせ 独断日本史』(朝日文庫)より、2人の対談を紹介する――。

■乱世を生きた「ひっくり返し人間」

【永井】ところで、信長、家康、秀吉、どの男性がお好きでいらっしゃいますか。どなたと結婚なさりたいでしょうか。

【杉本】いやだあ、みんな願いさげだわ。(笑)

【永井】ゾッとしないわね、本当に。

【杉本】だけど、いみじくも時代が求めた人物が出るべくして出てきたといえるわね。旧態の否定が求められた時期には、ひっくり返し人間の、「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥(ほととぎす)」という男。収拾期にさしかかったときには「鳴かしてみしょう」が出、いよいよ完成期、ある程度、保守に逆もどりの必要ありという時期になると「鳴くまで待とう」が出てくるというのは、まるで時代の意思のようね。

【永井】ほんと。

【杉本】彼らは同世代といってもよい人間なんだから、やっぱり時代という波のうねりに応じて、それぞれの特質を現わしたということでしょうね。

■信長のような速攻は家康にはできない

【永井】そうなのね。家康がトップを切ったってうまくいかないと思う。あんなに考え込んでいたらね。

【杉本】桶狭間合戦みたいな一六(いちろく)勝負に打って出るなんて決断はできないわよ。でも家康もあの時は、彼にしては一世一代といってよいほど機敏な行動に出たじゃない? 最前線にいて、今川義元が討たれたと知ったとたん、急遽三河へ逃げ帰って独立してしまった。でもあれは背後からガッと押されたから飛び出したようなもので、いわばトコロテン式決断。(笑)

【永井】そうね。

【杉本】信長のように「死のうは一定(いちじょう)」なんてひとさし舞って敵の本陣を一気に突くような速攻は、家康ではちょっと無理。

【永井】家康は三方ヶ原で武田信玄にさんざんにやられちゃう。

【杉本】あの、三方ヶ原合戦という生涯最初の大合戦に負けたことで、慎重居士がいっそう慎重になっちゃった。三番バッターであっても、ともかく家康が登場できたのは、彼の努力にもよるけど、基本的には時代が変わったからよ。

■名古屋のごく一部を支配する小大名の長男

【永井】だけど私、信長はちょっと誤解されているところがあると思う。信長が、勝算はないけど一か八かやってみたというのは、桶狭間の戦いしかやってない。

【杉本】桶狭間だって、積極的に斬り込んだように見えるけど、彼の心情からすると受身ね。

【永井】待っていれば殺されるから、自分の方が地理に明るいのを利用して、間道を行って奇襲してみたら、うまくいったという話であって……。

【杉本】賽を振る直前、「ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか」なんて謡ったのも半分はヤケよ。

【永井】織田家なんて、本当に小さな大名でしょう。

【杉本】もともとは尾張の守護斯波(しば)氏の執事。それがまた二家に分かれた一方の、清洲の織田の三奉行の一人という系譜だから。

【永井】名古屋のごく一部、いまの千種区から中区あたりを支配していただけでしょう。父親の信秀がそれほどの歳でもないのに死んじゃったとき、信長はまだ青年で支城の那古屋(なごや)城を預っているにすぎない。父親が住んでいた末森城には弟の信行がいて、これが優等生。

【杉本】いい子ぶりっ子。

■父親の仏前へ抹香を投げつけた“真意”

【永井】お母さんにかわいがられて、臣下の受けも非常にいい。父親がわりの傅役(もりやく)の平手政秀の息子まで信行贔屓だった。それが末森城の本拠にいるわけだから、自然跡継ぎみたいな形になって、支店を預った信長は出向を命じられたまま帰ることができなくなっている。だから、信長が信秀の葬式のときに、奇矯な振舞いをしたというけど、これにはワケがあるのよ。

【杉本】抹香(まっこう)をつかんで仏前へ投げつけたというのは織田信秀の葬式の時だったかな。

【永井】太刀・脇差を縄で巻いて、髪は茶筅髷(ちゃせんまげ)、袴もはかず、というけど……。

【杉本】あれ、何に書いてあったんだっけ。

【永井】『信長公記』よ。

【杉本】『信長公記』じゃ全面的には信用置けないな。

【永井】なぜ信長がそんなことをしたかというと、喪主であって然るべき長男の自分をさしおいて弟の信行が喪主であるかのように……。

【杉本】素襖(すおう)長袴。言ってみればダークスーツを着て、名刺受けを並べ、香典を受け取って。(笑)

【永井】ところが長男の信長には葬儀の通知もしていない。だからもう怒り狂って、あんな恰好で乗りこんだ。

■義理の父となる斎藤道三との初対面で…

【杉本】無理ないか。彼とすれば……。

【永井】奇を衒(てら)ったとか、信長は天才だから変わったことをやったという人が多いけど、これもやっぱり根はヤケのヤンパチよね。

【杉本】それにツッパリがある。弱味を見せまいという。

【永井】正室の濃姫の父である美濃の斎藤道三との対面のときも、道三が待っているといつもの通りのうつけ者スタイルでやってきた。ところが会見場所の正徳寺(尾張中島郡富田)では、髪を結い直し、正装で威儀を正して出てきた。

同席したものは皆「あいつは大した奴じゃありません」と言ったのに対して道三が、「いや、そうじゃない。俺の息子どもはあれの家に馬を繫ぐことになるだろう」と言ったという、これも信長のツッパリ。

【杉本】それと、せいいっぱいの演出。

斎藤道三
斎藤道三(画像=Gameposo/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■いつもギリギリ歯を食いしばって生きていた

【永井】弟をはじめみんなが信長を狙っているから、ナッパ服の現場指揮者よろしく、家来に槍をかつがせて、戦闘態勢で「かかって来い、いつでもかかって来い。俺が相手になるぞ」と勢力を誇示しながら、やっと弟に対抗している。

そこへ道三が会いたいと言ってくる。妻の実家の力を借りるわけね。相手は大企業、こちらは中小企業。しかし、恰好をつけて行くと周囲に狙われるから、戦闘態勢のまま出かける。

道三にしてみれば汚い恰好で出てくるだろうと思っているところにシャキッとして来たから、「あ、なるほど」というわけ。だからこれは苦肉の策。そういうことができるのが信長の偉いところだけれど、決して相手をびっくりさせようとか、余裕があってやっているわけではない。

【杉本】骨肉抗争、内部分裂の危険さえはらんでいた弱小武族の嫡男だものね。いつもギリギリ歯をくいしばりながら、どうやったら危機状態を切り抜けられるかと、四方八方にレーダーを張りめぐらして、若き日の信長は生きていたのよ。

【永井】斎藤道三の援助を受けることに対しても内部にものすごい反対がある。相手は蝮(まむし)の道三だから、援助を受けたらどうなるか分からない。

【杉本】吞まれちゃう恐れがある。

■したたかな女性だった正室・濃姫

【永井】私は平手政秀の割腹の原因はそれだと思うの。政秀は絶対援助を受けてはいけないというわけよ。道三に援助を頼むくらいなら弟信行さまに頭を下げなさいと。それで信長と意見が対立して、諫言(かんげん)の意味も含めて腹を切った。うつけた恰好をして走り回っているから腹を切ったなんて言うけど、そんなことで腹を切っていたら、幾つ腹があっても間に合わない。

【杉本】濃姫についてはどう思う?

【永井】彼女はなかなか切れる女性だったんじゃない。濃姫がいたから道三も信長を援助する気になったわけだから、道三がもう少し長く生きていたら、濃姫は親の方に付いたかもしれない。

【杉本】信長が毎夜庭に出るので、濃姫が「何を見ているんですか」と聞いたら、「斎藤家の家老を味方に引き込んだので、いつ火の手が上るかを見ているのだ」と答えた。濃姫が道三にそれを内通し、道三が怒って、自分の左右の腕と頼んでいた家老を自ら誅(ちゅう)してしまった。しかしこれは信長のトリックで、濃姫も道三もが騙されたのだという逸話は、本当かしら。

【永井】私はつくり話だと思う。

【杉本】できすぎているわね。

■道三が生きている間は手も足も出なかった

【永井】そう、できすぎている。私がどうして平手政秀の死と斎藤道三の援助とが関係あると思ったかと言うと、『お市の方』を書いたとき年表をつくったら、政秀が死ぬのが天文22(1553)年の閏1月で信長と道三が会見するのはその直後の4月。信長は反対を斥けて道三の援助を得て、主筋にあたる清洲織田家とか弟信行をやっつけている。

信長としては、道三がいる間は手も足も出なかったというのが実態じゃない? また道三も信長を買っていたから、道三が息子の義竜に殺されたとき、信長は敵討ちをする恰好を見せるけど、うまくいかない。

【杉本】美濃を落とすのは、道三が死んだ後で、それでもずいぶん攻めあぐんだ。

【永井】10年かかっているわね。それに相手は道三じゃなくて、道三をやっつけた義竜やその子の竜興だから、信長が道三を陥れようとしたという話は信用できないわよ。

【杉本】むしろ舅も婿もおたがいをうまく利用しようとしてたのよね。ただ、義竜の子竜興の時代に三人衆と言われた老臣稲葉通朝、氏家卜全(ぼくぜん)、安藤伊賀守が信長と内通して竜興に叛旗を翻し岐阜から追い出した話は本当だし、ずいぶん陰に回っての画策はしたと思う。美濃をいずれは併吞(へいどん)したいという気持は絶対に信長にはあったと思うわ。

【永井】そうね。ただ道三の生きている間は、美濃は大国で、手も足も出ない感じがあるから、おとなしかった。

■「すぐキレる上司」ではなく我慢の男

【杉本】信長は、家康接待の折、魚が腐っていると怒って、責任者の明智光秀を蹴倒したうえ解任してしまったとか、二条城の工事現場を巡察していたとき、ふざけてかぶりものの下から女の顔を覗こうとした部下を即座に手打ちにしたとか、すぐ激発する短気な男と見られているけど、私は、案外深謀遠慮の人だったと思う。ものすごく長期的な手を打つ人よ。

【永井】私もそう思う。それに、わりと我慢する人よ。

【杉本】10年、20年先を読んで素人には無駄に見えるような手を打っている。その意味では頭がいいわね。

【永井】信長の妹でお犬さんという娘がいるわね。尾張大野の佐治為興に嫁いでいるの。以前そこへ小説のための取材に行ったことがあるんだけど、たった五万石の小さな大名よ。何でだろうと思ったら、佐治氏は水軍を持っているの。

【杉本】そういうところが実に抜け目ないのよ。

【永井】だから激情家でもなければ単細胞でもなくて、非常に綿密に考えてやっている。

【杉本】怒ってすぐ家来を罰したとかいうけど、そうすることで一気に士気のたるみを引きしめるとか、人心を収攬(しゅうらん)するといった効果を計算して斬っている。単純な衝動ではない。

■焼討ちは「日本の癌」を排除するためだった

【永井】荒木村重の謀叛に対しても、松井友閑、万見重元をやって説得し、それで駄目だと光秀や秀吉にまで慰留させている。私は信長に対しては認識を改めてほしいと思うわ。

【杉本】高山右近の場合は宣教師に説得させて、成功しているわね。

【永井】そう。日本人は信長のつまらないところを褒めて、大事なことは評価しない傾向がある。

杉本苑子、永井路子『ごめんあそばせ 独断日本史』(朝日文庫)
杉本苑子、永井路子『ごめんあそばせ 独断日本史』(朝日文庫)

【杉本】評価しないというより、信長という人物を全人間的スケールで把握していないのよ。たいていの人が……。

【永井】比叡山の焼討ちで、社寺堂塔500余棟を焼き尽くし、3千人の首を切ったというのはウソで発掘しても焼跡は発見されないそうだけれど、叡山を押えこんだことは、歴史的に見ると私は最も大事だったと思う。

【杉本】そうよ、叡山の存在はあの時点では、もはや日本の癌だもの。切除しなきゃ本当の意味の「近代化」はできない。

【永井】中世的な寺社勢に、一応ピリオドを打ったのよね。

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杉本 苑子(すぎもと・そのこ)
歴史小説家
1925年、東京生まれ。文化学院文科卒業。1952年『サンデー毎日』懸賞小説に「燐の譜」が入選したのを機に、選考委員だった吉川英治に師事。1963年『孤愁の岸』で第48回直木賞を受賞。その後、『滝沢馬琴』で第12回吉川英治文学賞、『穢土荘厳』で第25回女流文学賞を受賞。2002年菊池寛賞を受賞、文化勲章を受勲。そのほかの著書に『埋み火』『竹ノ御所鞠子』『悲華水滸伝』などがある。2017年没。

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永井 路子(ながい・みちこ)
歴史小説家
1925年、東京生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業後、小学館勤務を経て文筆業に入る。1964年『炎環』で直木賞、82年『氷輪』で女流文学賞、84年菊池寛賞、88年『雲と風と』ほか一連の歴史小説で吉川英治文学賞、2009年『岩倉具視』で毎日芸術賞を受賞。著書に『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』『この世をば』『茜さす』『山霧』『元就、そして女たち』『源頼朝の世界』『王者の妻』などのほか、『永井路子歴史小説全集』(全17巻)がある。

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(歴史小説家 杉本 苑子、歴史小説家 永井 路子)

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