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あれから何年とか関係ない…サンドウィッチマンの2人が語った「毎月、東北に帰ってくる理由」

プレジデントオンライン / 2024年7月13日 10時15分

あの日は気仙沼でテレビのロケ中だった(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/waltkowalski

お笑いコンビ・サンドウィッチマンの2人は東日本大震災の直後に「東北魂義援金」を開設。チャリティーライブなどで寄付を集め、これまでに5億円超を寄付している。また、毎月、テレビ番組の収録を兼ねて東北に帰っている。なぜ2人は震災支援を続けてきたのか。ジャーナリストの鈴木哲夫さんの著書『シン・防災論』(日刊現代)より、インタビューをお届けする――。

■あの日は気仙沼でテレビのロケ中だった

私がサンドウィッチマンの二人と知り合ったのは、フジテレビの「バイキング」(2014年~22年放送・司会は坂上忍)という番組だった。

サンドウィッチマンは、今や日本中に笑いを届け、レギュラー番組も多数、そして何といっても好感度が圧倒的ナンバーワンの芸人。伊達みきお氏と富澤たけし氏のコンビだ。

最初はバラエティとしてスタートした「バイキング」は、のちに時事問題をテーマに出演者が意見を交わす番組になったが、二人はレギュラー出演、私は専門家として呼ばれ政治についてあれこれ語り合った。

しかし、彼らにはもう一つの顔があった。それは、2011年3月11日、東日本大震災のあの日から、震災と向き合いずっと寄り添ってきたことだ。その活動は地元での舞台やローカルテレビ局のメディア出演などにとどまらず、義援金や観光誘致など数えきれない。

二人は宮城県出身と宮城県育ち。あの日は気仙沼でテレビのロケ中だった。津波から高台に必死で逃れ命をつないだのだった。わずかの時間差。もしかすると犠牲になっていたかもしれない。

■「あの臭いがよみがえってくるんですよね」

私が二人にじっくりと話を聞いたのは、震災から10年経った21年の3月。新型コロナ流行期だった。

――地震が発生したあのとき現場にいて、今も鮮明に覚えていることは?

【伊達】臭いですね。僕らはちょうど気仙沼にいて、港に停泊していた船が津波で洗濯機のように巻き込まれていって、ぶつかる凄い音が周りの山に響いて。その音と重油が海の水と混ざったようなあの臭い。

3.11には毎年気仙沼に行ってるんですが、黙禱の午後2時46分にサイレンが鳴ると同時にあの臭いがよみがえってくるんですよね。

■「何十分か経ってすごい津波が来た」

【富澤】津波が来る前に、逆に水が引いたんですよ。ちょうど気仙沼の渡し場のところで見たら、あれっ? 浅くなってるなあと。そして何十分か経ってすごい津波が来た。津波って一旦引くんですね。だから油断してしまうかもしれない。怖いですよ。僕にはその光景がありますね。すぐ高台に上がったけど一足遅れていたら危なかったですね。

――お二人にとって出身地であり、これまでずっと被災地に寄り添う活動を続けてこられた。これまでの活動を振り返って。

【伊達】芸人として何ができるのかなってまず思いますよね。

東京で周りのみなさんたちは「笑いで元気に」っておっしゃる。僕らもその気になって、震災のあと現地に行ってコントとか漫才とかやったんですが、やはりそんな状況じゃないんですね。誰も笑いを求めていない。

■「20人は食べられなくなるのでお持ち帰りください」

【伊達】支援物資をたくさん持って行ったんですが、行って初めて避難所のルールというのか、それを知りました。たとえば100人いらっしゃるところにお饅頭を80個買って「少し足りませんがどうぞ召し上がってください」と渡すと、「20人は食べられなくなるのでお持ち帰りください」と。

僕らは良かれと思って適当に買って行くんだけど、現場のルールというのがあるんだなと。災害支援って何なんだろうかということを考えましたね。

木箱に入ったお饅頭
写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
「20人は食べられなくなるのでお持ち帰りください」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Kayoko Hayashi

――行政はそう対応するんですよね。ただ緊急時には平等でなくとも、できるところから少しでも早く支援をして行くべきという危機管理の考えもあります。

【富澤】いろいろな活動で僕が大事にしているのは義援金もそうですが、あとバスツアーですね。50人くらいの規模ですが、全国から募集して僕らも一緒に東北をいろいろ回るんです。回りながらトークライブをやったり、行った先で語り部から話を聞いたり、そしてお土産屋さんに寄って特産品を買ってもらう。毎年やってるんですが、一時新型コロナウイルスでできませんでした。落ち着いたら、また必ずやりたいです。東北に行ってみようと思っても一人だとなかなか行きづらいかもしれないので、みんなで一緒に、楽しみながら復興につなげようというのも大事かなと思いますね。

■「同級生も亡くなったということもあります」

――お二人を動かしているものは何ですか?

【伊達】10年やってきた僕らの原動力は故郷ということもあるし、同級生も亡くなったということもあります。でも、震災の直後から始めた東北魂義援金の口座に、全国から多くのみなさんにずっと入金していただいていることも原動力です。毎年命日に振り込んでくださる方とか、僕らは信用されて大事なお金を預けてくださるんだなあと。だから頑張らなきゃという思いが当然強くなります。

――これまでの被災地の活動で印象に残ったことは?

【伊達】僕が印象に残っているのは、震災直後に南三陸町に行ってたんですが、そこに千葉ナンバーの軽トラックに乗った年配の方がボランティアで来られた。テントや支援物資も積んで南三陸町で1週間ぐらい活動されたんですが、帰るときに「この軽トラどうぞ使ってくれ」と置いていったんです。どうやって帰ったのかなと。

――鉄道もダメだったから、どうされたんですかね?

【伊達】みんなで言ってたのは歩いて帰ったんじゃないかと。

■「ペットを亡くしたことをずっと話せなかった」

【伊達】でも、この10年間そういうボランティアとか絆というのをすごく感じるんですね。

あのときそのおじさんの好意を受けた南三陸町の人が、今度は熊本地震のときに自分の軽トラで熊本に向かったりとか。僕の実家のガスの修復をやってくださった方は大阪ガスのみなさんたちだったんですが、聞いてみると「阪神大震災のときに仙台から応援に来てくださった。来るのは当たり前」と。

恩返しの恩返しというのか、辛いことも多いんですが、その絆というのに感動しました。

【富澤】震災から1年後ぐらいでしたか。お会いした女性がペットを亡くしたことをずっと話せなかったって打ち明けてくれたんですね。

自分よりひどい思いをした人がいっぱいいる、家族を亡くしたり。ただ、この方にしてみればペットは家族ですよね。でも、そうやってお互いに話せなくなってるんだなあと。

時間が経って少しずつ話せるようになってきたかもしれませんが、心にしまってきた人が多い。これから先もそういう方たちはどこかで吐き出さないといけないんじゃないか、それが課題じゃないでしょうか。その地域の人じゃないボランティアの人には話せるかもしれませんね。

――心の問題ですね。

猫の首輪
写真=iStock.com/Adam Calaitzis
「ペットを亡くしたことをずっと話せなかった」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Adam Calaitzis

■「ニュースにはなっていないけど自死は多いんですよ」

【伊達】僕の同級生は、奥さんと子どもさん二人を津波で亡くしたんです。奥さんのご遺体は2週間ぐらいして瓦礫の中から見つかったけど子どもは行方不明。

それでその同級生は、自分でこんな長い竿を持って水の中に腰まで入って子どもを探し続けたんです。河北新報にも大きく写真が載ったんですが、それが何と泥の中から子どもを本当に見つけたんですね。抱き上げて。

その後、仮設住宅に入って頑張っていたんですが、奥さんの火葬から1年後に自死しました。お線香あげに行ったとき遺書を見せてもらったんですが、「子どもに会いに行ってくる」って書いてありました。ニュースにはなっていないけど自死は多いんですよ。自分だけ生き残ったことが申し訳ないと。

線香と数珠を持った喪服の女性
写真=iStock.com/Yuuji
「奥さんの火葬から1年後に自死しました」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Yuuji

■「その場所で家族や多くの人が亡くなっている」

【富澤】復興住宅とか堤防とかいろんなものができ上がっています。単純に外から見ていると、ああどんどん建ってるなあと。でも住民のみなさんからすれば、その場所で家族や多くの人が亡くなっている。この風景を街の人が果たして受け入れているのかなあと考えさせられますね。

――政治や政府に望むことを聞かせてください

【伊達】先日ある番組で福島の原発に防護服を着て入ってきました。廃炉作業の現状を見てきたんです。従業員の方はみんな廃炉に必死に頑張っていて、その中に若い作業員がいた。

聞くと福島出身なんですね。地震当時、中学生や高校生で、ずっと帰宅困難地域の子どもたちだったんです。彼らは逆に原発にいい思いはないんじゃないかと思っていたのにそうじゃなくて、「俺たちが廃炉にするんだと入社した」と言うんですね。そんなに真剣に向き合っている彼らを見て心を打たれましたし、政治はぜひ原発問題、廃炉や処理水などしっかり取り組んで欲しいと思いましたね。

【富澤】とにかく政治家には現場に直接行って話を聞いて何が必要なのかを分かって欲しいですね。

■「あれから何年とか関係ない」

――これから被災地とどう向き合って行きますか?

【伊達】5年とか10年とか、あれから何年とか関係ないですね。あの日からいろんなことに直面しながらずっと暮らしてきている。

福島県相馬市のレストランのオーナーは「10年経って今ようやく観光1年目」とおっしゃった。区切りでも終わりでもなく、今まだ緒についたばかり、やっとこれからという段階なんです。

東北魂義援金口座はこれからも続けるつもりです。これまでは震災孤児に渡してくださいと届けてきたんですが、その分野には行き渡りつつあるので、今度は義援金で何か形に残したいなと。

いま被災地では避難スペースにもなる公園などができていますが、そういうところに子どもの遊具とかベンチとか作って形を残したい。義援金を寄せてくださった方々がそれを見るために東北に来ていただくことにもなります。

仙台市役所を訪れ、郡和子市長と写真に納まるお笑いコンビ「サンドウィッチマン」の伊達みきおさんと富沢たけしさん、2022年3月10日
写真=共同通信社
あれから何年とか関係ない(仙台市役所を訪れ、郡和子市長と写真に納まるお笑いコンビ「サンドウィッチマン」の伊達みきおさんと富沢たけしさん、2022年3月10日) - 写真=共同通信社

■「僕らに風化はない」

――テレビや舞台を通じても何か?

【伊達】地元のテレビ番組は続けます。月1回、必ず来てロケをやって。それからライブも。実はこの10年の節目に計画していた幻のツアーがあったんです。これ富澤が考えたんですけどね。

【富澤】僕らは毎年ライブは日本全国を回ってるんですけど、今回は東京や大阪などではやらず、三陸海岸の都市だけをずっと回ろうと。今回のツアーはそこでしかやらない。すると、見たいという方々や関係者が全国からも三陸に来てくれるでしょ。震災10年に合わせてやろうと。でも、新型コロナで結局ツアーそのものが中止になってしまいました。残念でしたが、これ必ずいつかやろうと思っています。

鈴木哲夫『シン・防災論』(日刊現代)
鈴木哲夫『シン・防災論』(日刊現代)

――お二人がぜひ伝えたいことは

【伊達】世の中10年も経つと風化ということが言われますが、ついこの前の地震(2021年2月13日の福島県沖地震、マグニチュード7.3、宮城県と福島県で最大震度6強)もそうだけど、みんな10年前をすぐ思い出した。思い出すということはあの時がそのまま、まだ頭にあるんです。僕らに風化はない。風化という言葉を使わないで欲しいと思います。

【富澤】とにかく東北に来て欲しい。東北は海のものもおいしいしお酒もおいしい。実は僕らはお酒を飲めないんですけどね(笑)

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鈴木 哲夫(すずき・てつお)
ジャーナリスト
1958年福岡県福岡市生まれ。テレビ西日本報道部記者、フジテレビ報道センター政治部出向を経て、1995年東京メトロポリタンテレビジョン(東京MXテレビ)開局メンバー。その後、2007年には日本BS放送(BS11)を立ち上げ、報道局長、キャスターなどを経て2013年からフリージャーナリスト。政治、災害、事件、福祉など、多岐にわたるテーマを報じ続けている。近著に、『期限切れのおにぎり 大規模災害時の日本の危機管理の真実』『石破茂の「頭の中」』ほか多数。

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(ジャーナリスト 鈴木 哲夫)

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