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プラス思考こそ災いの根源…禅僧が「ポジでもネガでもなくニュートラルなゼロ思考をもて」と説くワケ

プレジデントオンライン / 2024年7月19日 7時15分

撮影=新潮社

休息はなぜ必要なのか。『苦しくて切ないすべての人たちへ』を上梓した禅僧の南直哉さんは「前向きでも後ろ向きでもなく、そこに止まることで見えてくるものがある。プラスでもマイナスでもない『ゼロ』の思考が必要」という――。

※本稿は、南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

■年配が若者に「プラス」関係を乱射

いつの頃から言われ始めたのか知らないが、私がどうしても苦手で馴染めない言葉に「プラス思考」というものがある。

これをやたら連発するのは、多くの場合中年以上の男で、女性や若者から聞く頻度は、私に関する限り少ない。

類語に「ポジティブ」「前向き」などがあるが、これも我が物顔に言われると辟易するしかない。

以前、某ホテルの喫茶店で人を待っていたら、隣の席に同僚らしき男が二人、差し向かいで座っていて、年配の方が若い方に、「プラス」関係を乱射していた。

「だからさあ、そこはプラス思考で行こうよ。何事も前向きでやらんと、君みたいにネガティブに考えてたら、先に進まんもん」
「はあ……」
「ダメ、ダメ! 変に考えすぎると、マイナスだよっ!」
「ただ、対案を出すとき、もう少し詰めておくべきだったと……」
「それは済んだこと! もう次を考えんと! ポジティブにいかんと‼」

若い方は、落ち込んでいるようにも、後悔しているようにも見えなかった。彼は反省していたのである。その「反省」に対して、中年は、とにかく「次」に向かって、プラスでポジで、前に出ろとまくし立てるのだ。

■「ポジティブ」の「ものさし」は儲けと稼ぎ

私は別に、「ネガティブ」が良いとも、「マイナス思考」が大事だとも、「後ろ向き」が必要だとも思わぬが、他人の「反省」を無にしてまで、何故に人が「プラス」関係にこうも自信満々なのか、理由がわからない。

その「プラス」とは、いったい何を意味しているのか。

思うに、それは「もうけること」「稼ぐこと」「得をすること」であろう。「ポジティブ」も「前向き」も基本はそれである。より大きく稼ぐために「ポジティブ」で「前向き」でなければならない。

いや、「人間的な成長」や「社会人として認められる」ためだと言う御仁もいよう。気持ちはわかるが、当節では「成長」も「認められる」のも、それを計測する「ものさし」は儲けと稼ぎ、すなわち金である。

それなりに真面目な「反省」が、「マイナス思考」で「ネガティブ」で「後ろ向き」にしか見えないのは、本来なら測るべきでないところを、金で測るからである。当節、人を「人材」と呼んで憚らないのは、我々の思考と心情が、市場経済の金回りの中にドップリ浸かっている証拠だ。

■元ネタは投資である「希望」の喧伝

「夢」や「希望」を喧伝する、それこそ夢のように馬鹿気た話を、若いころに何度も聞かされたが、この「夢」「希望」噺の元ネタは投資である。

投資は時間差で儲ける。将来の儲けを当て込んで、今ある金をつぎ込む。将来の理想のため、今ひたすら努力しろと言い募るのは、先の大金を期待させて、いま手元の金を使わせて儲ける金融会社と同じで、「夢」で気を引いて、現在の「努力」を絞る誰かがいる証拠だ。その「洗脳」の結果、休日を「スキルアップ」のため「自分に投資」する者まで出てくるのである。

儲けは、時間差だけではなく、空間差でも生じる。交易である。交易は、こちらに無いものがあちらに有り、こちらに有るものがあちらに無いという、その「差異」で儲ける。

この儲け方をそのまま人間関係に当てはめると、「個性は大事だ」というシュプレヒコールになる。まるで「個性」という物がどこかにあって、それが各自の「中」に詰まっているような言い草だが、埒(らち)もない錯覚に過ぎない。

南 直哉と仏像
撮影=新潮社

■頭の「市場化」を止めるべき

「個性」などというのは、同じ物事に対する態度の違い、取り組み方の違いなどを通じて、結果的に現れるものであって、多くの場合、他人から言われて気が付くものである。

いきなり「私の個性は……」などと堂々と言い出す者がいるとすれば、おそらく勘違いしたナルシストくらいであろう。

この「個性」は最近さらに市場化している。時々会話に、「私の売りはですね……」というセリフを聞くことがある。この「売れる」個性が「キャラ」だ。

「○○って、私たちの中では、癒し系キャラだよねっ!」

おそらく、「人材」に市場があるように、いまや友人関係にも「友人市場」があるだろう。そこでの「人材」が「キャラ」だから、一度「癒しキャラ」に就職したら、その友人関係にある間は、割り当てられた「キャラ」をお勤めすることになるのだ。

もはや市場が社会を規定している以上、そこから離脱することはできないし、後戻りもできまい。が、市場は「閉まる」ことがある。ならば、我々も頭の「市場化」を時々止めるべきではないか。

■プラス思考が生む厄災

「プラス」でも「マイナス」でもない「ゼロ」の思考。

「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもない「ニュートラル」な在り方。

「前向き」でも「後ろ向き」でもなく、そこに「止(とど)まる」こと。

私は時々、と言うよりは定期的に、それが必要だと思う。

「プラス思考」で「ポジティブ」で「前向き」な人は、そうである限り、そうさせている「ものさし」の正しさを疑わない。そして、その道具がいつでもどこでも通用すると信じがちである。そこが危ない。

この世の信じがたい厄災は、これら「プラス」関係の行動から出る。「反省」に乏しいから微調整も効かず、一度方向がズレると、取り返しがつかないところまで行くことになる(某大統領の蛮行を見よ)。

道
撮影=新潮社

「ゼロ思考」は「思考ゼロ」、つまり考えないことではない。

損得でものを見ないこと、自分の「見たいもの」を見ようとしないこと、そのものを「見る」のではなく、そのものが「見える」ようにすること、である。

その先を行けば、禅門で言う「非思量(ひしりょう)」(物事を自分への問いかけと受け止めて、安易に答えを出さず、そこにとどまること)の境地があるだろう。この「非」が「不」でないところが肝心なのである。

■休息で見える現在地

「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもなく「ニュートラル」であるには、要するに「いい加減」にしておけばよいのだ。手を抜けと言っているのではない。「火加減」「水加減」が難しいように、「加減」には注意深さと手間が要る。

南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)
南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)

結論を急がず、「様子を見る」「時機を待つ」ことも立派な「加減」の策である。そして、「反省」は「加減を見る」には欠かせない手間なのだ。

「前向き」も「後ろ向き」も通用しない時は、止まる以外にない。止まらない限りは見えない風景がある。それは足元であり、現在地である。行先を選ぶには止まるしかない。何のために儲けるのかを考えるには、儲けることを一度止めるべきである。そうしない限り、儲ける意味はわからない。

金自体に意味がない以上(メモにも使えぬ紙を貯め込んでどうするのだ。今や液晶の数字か)、止まる習慣が無ければ、道を間違えることは必定であろう。

「ゼロ思考」「ニュートラル」「止まる」を全部まとめて実践すれば、「休む」、ということになる。

わが道元禅師は「万事を休息す」と教えた。万事である。これは難しい。それには休む覚悟とテクニックが不可欠だ。

そのテクニックが「坐禅」だと、禅師にならって持ち出したら、あざとい「プラス思考」になってしまうかな。

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南 直哉(みなみ・じきさい)
禅僧
1958年、長野県生まれ。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店勤務を経て、1984年に曹洞宗で出家得度。同年から曹洞宗・永平寺で約20年の修行生活をおくる。著書に『恐山 死者のいる場所』、『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』(いずれも新潮社)、『善の根拠』『仏教入門』(講談社)、『死ぬ練習』(宝島社)など多数。

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(禅僧 南 直哉)

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