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NHK大河はこの史実をどう描くのか…まだ幼い「定子の息子」に対して藤原道長が行ったひどすぎる仕打ち

プレジデントオンライン / 2024年7月14日 17時15分

紫式部日記絵巻の一部(画像=Bamse/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

藤原道長はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「自身の家系に権力を集中させるため、不安要素になるものは徹底して排除した。それは一条天皇と定子の間に生まれた敦康親王との関係を見るとよくわかる」という――。

■NHK大河では「人格者」として描かれる藤原道長

藤原道長(柄本佑)がついに、正室の倫子(黒木華)とのあいだに生まれた長女の彰子(見上愛)を、一条天皇(塩野瑛久)のもとに入内させる決意をした。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第26回「いけにえの姫」(6月30日放送)。

娘たちを次々と入内させ、天皇の外祖父となって自身の権力基盤を盤石にした――。それが一般的な道長像であり、私自身、「光る君へ」でも、道長はそのように描かれるものだと思っていた。最初は人格者として描かれてきた道長だが、どこかのタイミングで「闇落ち」させられるに違いないと考えていた。

ところが、6月30日付の朝日新聞朝刊の記事で、脚本の大石静は「闇落ちはしません」と語っていたのである。

第26回で、道長が彰子を入内させようと決意するきっかけとなったのは、安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)の進言だった。いま世が乱れているのは、一条天皇が中宮定子(高畑充希)を寵愛しているためで、それを正すためには、道長の娘が入内して朝廷を清めるしかない。それが晴明の主張だった。そして、藤原実資(秋山竜次)らの公卿もそれを望んでいるという。

そこで、道長は心を決め、朝廷を安定へと導くために、はなはだ不本意ではあるが、彰子を「いけにえ」として差し出す決意をした、という展開である。おそらく、今後も道長は公の利益のために自己犠牲を重ねる人格者として描かれるのだろう。

■一条天皇と定子の間に生まれた親王の悲劇

むろん、道長を傲慢な独裁者だったと決めつける必要はない。娘を入内させた動機も、私欲にあったとは言い切れない。この時代、天皇の外祖父が摂政や関白に就任してこそ、政治は安定した。道長も政治を安定させるために、自身の家系に権力を集中させようとしたともいえる。

だが、それは道長が今日的な意味で「人格者」であったのとは意味が違う。道長は政治を安定させるために、どんな手段に訴えたのか。第27回「宿縁の命」(7月14日放送)で定子が産む敦康(あつやす)親王の運命をたどりながら確認してみたい。

道長の長女、彰子は長保元年(999)11月1日に入内した。その行列には多くの公卿たちが付き従ったことからも、朝廷の安定のために、貴族たちがこの入内を歓迎していたことがうかがい知れる。そして11月7日、一条天皇は彰子を女御にするという宣旨(天皇の意向を伝える文書)を下した。

すると、奇しくも同じ11月7日の早朝、定子は一条天皇が待ち望んだ第一皇子となる敦康親王を出産したのである。

当時、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭で、「光る君へ」では渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』には「仰せて云はく、『中宮、男子を誕めり』。天気快然(天皇は仰せになりました、『中宮が男子を出産した』と。上機嫌のご様子でした)」と記されている。

■「定子の死」で頭を悩ませる道長

定子が皇子を産んだのを受け、道長は後宮における彰子の価値を維持するために、彰子の立后(正式に皇后にすること)を急ぎ、強引に「一帝二后」を実現させてしまう。

だが、長保2年(1000)2月10日、彰子が立后の準備をするために実家の土御門邸に下がると、翌日には早速、一条は定子を内裏に呼び寄せた。その結果、ふたたび妊娠したものの、これが命とりになる。定子は12月15日、第二皇女の媄子(びし)を出産したが、後産が下りず、翌朝に亡くなってしまう。

敦康親王はこうして生母を失い、叔父の伊周らもかつての地位になかったため、後見がない状況に置かれることになった。

とはいえ、一条天皇の父であった円融天皇の皇統の唯一の皇子である。数え12歳で入内した彰子がまだ若すぎて、懐妊の可能性がほとんどない以上、道長は不本意ながら敦康親王を後見するしかなかった。

また、亡き定子は一条天皇の唯一の皇子の母であり、皇子はやがて即位する可能性が高い。そうした状況を受け、定子は死後に同情を集め、彼女を「国母」と呼ぶ向きまで現れた。彰子を盛り立てたい道長にとって、定子は死んでなお、悩ましい存在になったのである。

京都御所
写真=iStock.com/Takosan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Takosan

■今度は定子の妹を寵愛した一条天皇

一方、一条天皇はといえば、敦康親王に愛情を注ぎつつ、定子への追憶も激しかったが、それだけで終わらなかった。道長の長兄であった道隆の四女、すなわち定子の末妹で敦康親王の養育をまかされていた御匣殿(みくしげどの)に、一条の寵愛が向かったのだ。入内さえしていなかった御匣殿だが、おそらく、天皇は彼女に定子の面影を見たのだろう。

これに対し、道長は対策を講じている。敦康親王を御匣殿から切り離し、彰子に育てさせることにしたのだ。道長としては考え抜いた作戦で、たんに一条と御匣殿を切り離すだけにとどまらなかった。

というのは、敦康が彰子のもとにいれば、一条は敦康への会いたさから彰子のもとを訪れる機会が増え、彰子が皇子を産む可能性が高まる。また、彰子に皇子が生まれず、敦康が即位することになっても、彰子が養母で道長は養祖父という関係をつくれれば、権力を維持できる。そんなねらいがあったと考えられる。

しかし、長保4年(1002)に御匣殿は懐妊しながら、6月3日には亡くなってしまった。かといって、一条天皇の目は、彰子には向かないままだった。

■置き去りのままの彰子

その後も、道長は敦康親王を後見し続け、寛弘2年(1005)には、道長にとって不利ともいえる状況が生じた。中関白家の伊周や隆家、すなわち定子の兄弟を復権させる流れになったのである。

一条天皇にすれば、敦康親王の外戚である彼らを、それにふさわしい地位にしておきたい。一方、道長も、かつての政敵に恨まれたままにはしておきたくなかったのだろう。

隆家はすでに、流罪になる前の権中納言に復帰していたが、伊周も「大臣の下、大納言の上」という席次になった。もっとも、藤原実資の『小右記』によれば、昇殿を許された伊周に対する公卿たちの反応は冷ややかだったそうだが。

また、翌寛弘3年(1006)3月には、一条天皇が敦康と対面する儀式に加え、定子が産んだ第一皇女である脩子内親王の裳着(貴族の女子の元服)も行われた。それらは道長の後見のもとに行われたとはいえ、中関白家が復権することへの不安を、道長は拭えなかったと思われる。

さらには、このころ一条の寵愛は、彰子より先に入内していた藤原顕光の娘、元子に向かって、相変わらず彰子は置き去りのままだった。

■これで敦康親王は無用の存在になった

寛弘4年(1007)8月、道長は奈良県吉野郡の金峯山に詣でた。そこは山岳修験道の聖地で、道長は自身の極楽浄土への往生とともに、彰子の懐妊を祈願したと考えられる。

そして、この年の12月ごろ、彰子は結婚から8年を経てついに懐妊した。金峯山詣での功徳だろうか。いや、そこまで必死な道長を見て、一条天皇としても彰子に懐妊してもらうしかなくなった、といったほうが正確だろう。

しかし、知られれば呪詛されかねないので、懐妊は寛弘5年(1008)3月になっても隠されていた。その後、出産のために彰子が帰った土御門邸では、連日、絶えることのない読経の声が重ねられた末、9月11日、彰子はのちの後一条天皇である敦成(あつひら)親王を出産した。

紫式部日記絵巻の一部
紫式部日記絵巻の一部(画像=五島美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

道長は『小右記』によれば、言い表せないほど大よろこびで、その後は、敦康親王という「保険」はもう要らなくなった。倉本一宏氏はこう書く。「これで敦康は、道長にとってまったく無用の存在、むしろ邪魔な存在となったのである。同様、伊周をはじめとする中関白家の没落も決定的となった。そればかりか、外孫を早く立太子させたいという道長の願望によって、やがて一条との関係も微妙なものになる」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

翌寛弘6年(1009)、伊周の母方の関係者が、道長や彰子、敦成親王への呪詛を企てたとして逮捕され、伊周も参内を停止させられた。呪詛の真偽のほどはともかく、ことは道長の意のままに進んでいった。

■天皇になれる血筋だったのに

この年の11月25日、彰子は第三皇子の敦良(あつなが)親王を出産。道長にとって、敦康の存在はますます邪魔になった。道長の望みは、外孫の敦成親王が一刻も早く即位することだったが、そのためには一条天皇の存在も邪魔だった。

一条天皇はおそらく、最初に第一皇子である敦康親王を立太子させ、冷泉天皇系の親王を一人はさんで、敦成親王や敦良親王を即位させる腹積もりだった。敦康親王を養育してきた彰子も同じ考えだった。

だが、それでは外孫の敦成親王の即位が遅れ、道長は外祖父として摂政になるチャンスを逸するかもしれない。寛弘8年(1011)5月26日、道長は一条天皇の譲位を発議し、6月2日、春宮(皇太子)の居貞親王に即位を要請。6月13日、三条天皇として即位すると、同時に敦成親王が春宮(皇太子)になった。

平安時代に皇后(中宮)が産んだ第一皇子で皇太子になれなかったのは、敦康親王を除けば白河天皇の皇子で、4歳で早世した敦文だけ。敦康親王は道長のせいで、例外中の例外に追いやられたのである。

その後は政争から離れて風雅の道を生きた敦康親王。そのまま長生きできれば、それはそれで幸福だったかもしれないが、弟の敦成親王が後一条天皇として即位して2年余り、寛仁2年(1018)12月に発病し、わずか数え20歳でこの世を去った。

「光る君へ」では、「人格者」の道長は敦康親王をどのように捨て去るのか、見ものである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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