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「古池に飛びこんだ」のはどんなカエルだったのか…松尾芭蕉が詠んだ「誰もが知る俳句」にある謎を解く

プレジデントオンライン / 2024年7月20日 16時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/buuton

なぜ松尾芭蕉は「俳聖」と称されるのか。生物学者で歌人の稲垣栄洋さんは「それまでの常識から外れ、彼が感じたままの情景を描いた。これは俳句界における革命だった」という――。(第1回)

※本稿は、稲垣栄洋『古池に飛びこんだのはなにガエル?』(辰巳出版)の一部を再編集したものです。

■「日本で最も知られている俳句」にある斬新さ

古池や 蛙飛びこむ 水の音 松尾芭蕉

小学生が最初に覚える俳句は、この俳句ではないだろうか。

小さな子でも知っているこの俳句は、日本人にもっとも知られている俳句と言えるだろう。

この俳句の意味については、もはや、どんな説明も不要だろう。

この俳句のすごいところは、とにもかくにもわかりやすいということだ。

誰でもすぐに覚えられるし、説明されなくても意味がわかる。誰にでも、すぐに作れそうなくらいに簡単だから、小学生くらいでも、パロディの俳句を作ってみたりする。

しかし、松尾芭蕉の時代、この俳句はとても斬新だった。何しろ当時は、「蛙」と言えば、「山吹の花」がセットだと考えられていたのだ。

実際に、芭蕉の門人は、この歌を「山吹や蛙飛びこむ水の音」と提案したらしい。しかし、松尾芭蕉は、これを「古池」という風流でもなんでもない平凡な言葉に変えたのである。

たとえば、サンタクロースと言えば、トナカイである。しかし、芭蕉に言わせれば、「トナカイの引くソリなんて実際には見たことはないし、何なら、家の近所ではサンタクロースがピザ屋のバイクに乗っていた」と言うようなものである。

本当は、山吹と蛙の取り合わせなんて、誰も見たことがなかったかも知れない。しかし、蛙と山吹はセットというのが、みんなのイメージだった。しかし、芭蕉は、そんな固定観念をぶち壊し、実際に自分が経験したことを詠んだのである。

■古池に飛び込んだカエルの種類

ちなみに、古くから詠われたカエルは、山の清流で美しい声で鳴く「カジカガエル」だった。

そして、「蛙鳴く」という音の風景とともに、鮮やかに黄色い花を咲かせる山吹の花を併せて詠むのが慣習だったのである。

しかし、芭蕉は美しく鳴くカジカではなく、裏の池にいる別のカエルを詠んだ。そして雅な空想の世界ではなく、日常的な現実を詠んだのである。

これは、まさに、革命である。

ところで……この俳句には、謎とされていることがある。

古池に飛び込んだカエルは、いったい何ガエルなのだろうか?

一説には、このカエルはツチガエルであると言われている。

ツチガエルは、ふだんは陸にいるが、危機を察知すると、水の中に飛び込む性質がある。そのため、この句に詠まれたカエルはツチガエルであるとされているのである。ツチガエルは水に飛び込むと水底の泥の中に隠れてしまう。そのため、水音に気づいて、池を見たときには、もうカエルの姿を見ることはできない。

■芭蕉が詠んだのはカエルではない

ツチガエルは、俗にイボガエルと呼ばれているカエルである。

古来、詩歌の世界で「カエル」と言えば、何の疑いもなくカジカガエルを詠むのが常識だった。ところが松尾芭蕉は、あろうことか古い池とツチガエルを俳句にしたのだ。これは、当時は、とても画期的なことだったことだろう。

それだけではない。

松尾芭蕉が詠んだのは、本当にツチガエルだったのだろうか?

松尾芭蕉
松尾芭蕉(画像=森川許六画/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

じつは、この俳句の中にカエルの姿は登場しない。詠まれているのは、「水の音」だ。

松尾芭蕉は、目に見えたものではなく、耳に聞こえた音を詠んだのである。

しかしおそらくは、松尾芭蕉が伝えたかったものは、「水の音」でもないだろう。

「ポチャン」というカエルが飛び込む音。カエルが飛び込む程度の音だから、きっとかすかな音である。

そんなかすかな音が聞こえてくるくらい、辺りは静まりかえっている。そして、カエルが飛び込んだ後には、何も聞こえずに、静寂だけが残っている。

芭蕉が詠んだのは、この音のない「静けさ」だったのだ。

■和歌の世界では「カエル=カジカガエル」

菜の花に かこち顔なる 蛙哉 小林一茶

「かこち顔」は「恨めしそうな顔」という意味である。

いったい、何を恨めしいと思っているのだろう。

それは一茶にもわからないことだろう。本当の理由はカエルに聞いてみなければわからないのだ。

まるで、カエルを擬人化したアニメを見ているようなユニークな俳句である。

この句の「菜の花」は春の季語である。ちなみに「蛙」も春の季語である。

菜の花
写真=iStock.com/kamisoka
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kamisoka

それにしても、どうして、蛙は春の季語なのだろう。

冬眠をしている冬は別にしても、カエルは、春から秋までずっといる。むしろ、梅雨時の方が、カエルが盛んに鳴いているような気がするが、どうだろう。

それなのに、蛙が春の季語というのは、すぐにはピンと来ない。ちなみに梅雨時期に盛んに鳴くのは、アマガエルである。

アマガエルは漢字では「雨蛙」。雨が降る前に鳴くことからそう名付けられた。この雨蛙は夏の季語である。

それでは、春の季語となるカエルは、どんなカエルなのだろう?

そもそも、俳句は和歌から誕生したものである。和歌の五七五七七の最初の五七五の発句を独立させたものが、俳句となった。

風流を詠む和歌の世界で、カエルと言えば、カジカガエルのことである。

■「菜の花畑のカエル」は何ガエル?

カジカは漢字では「河鹿」と書く。鹿の鳴き声に似ていることから、「河の鹿」と名付けられた。カジカガエルは清流に棲むカエルである。「ルルルー、ルルルー」と鳴く、高く美しい声は、清流の流れる音と良く合う。まさに、風流の極みである。

この美しい声と、鮮やかに咲く山吹の花が、併せて詠まれることによって、和歌の雅な世界を創り上げていたのである。

もっとも俳句は、貴族ではなく庶民の間で広がった。

そのため、風流な世界というよりも、日常の世界を詠まれることも多くなった。

この歌で詠まれている「菜の花畑のカエル」も、そんな日常の風景である。

それでは、菜の花畑にいるカエルは、どんなカエルなのだろう。

一茶の活躍した江戸時代には、菜の花が盛んに栽培されていた。そして、菜の花を栽培し終わった後は、そこを耕して稲を作る。つまり、菜の花の多くは田んぼで栽培されていたのである。しかし、田んぼのカエルというと、田植えの頃に鳴くアマガエルの印象が強い。

■春の季語になったワケ

どうして、蛙は春の季語となったのだろう。

話は一万年以上前の昔にさかのぼる。

氷河期と呼ばれる時代には、地球上の水の多くが氷となって、海水面が低下した。

そのため、日本列島と大陸とが地続きになったのである。

このときに、さまざまな生物たちが、大陸から日本列島へとやってきた。ナウマンゾウなどのゾウの仲間も日本列島に棲み着いていたころである。

日本人の祖先とされる人たちの多くも、この時代に、大陸からやってきたと考えられている。

そして、おそらくはカエルたちの祖先も大陸から日本にやってきた。

このとき、日本列島は南の九州と北の北海道で大陸とつながっていて、今の日本海は、巨大な湖になっていた。

そのため、カエルたちの祖先は、北の寒い地方からは北海道を経たルートで日本に広がっていった。そして、南の暖かい地方からは九州を経たルートで日本に広がっていったのである。

やがて、日本にやってきたカエルたちに、事件が起こった。

日本に稲作が伝来したのである。

稲作が伝来した日本では、米作りのために、湿地が次々に田んぼに変えられていった。そして、湿地に棲んでいたカエルたちもまた、田んぼに生息するようになったのである。

■田植えの前に脱出する

稲作の伝来は日本の風景を一変させたが、湿地と田んぼは似たような環境だから、もしかするとカエルたちにとっては、それほど大変な変化ではなかったかも知れない。

しかし、湿地と田んぼには、決定的な違いがある。

田んぼでは、土を耕して、イネの苗を植える「田植え」が行なわれるのである。

カエルの子どもはオタマジャクシである。田植えの作業はオタマジャクシたちにとっては一大事だ。

そのため、カエルたちは、オタマジャクシの時期が田植えの時期に重ならないように、適応する必要に迫られたのだ。

アマガエルやトノサマガエルなど暖かい地域からやってきたカエルは、田植えが終わってから卵を産む作戦を選んだ。

一方、寒い地域からやってきたカエルたちは、冬の終わりから春の初めの寒い時期に卵を産み、田植えが始まるまでにオタマジャクシからカエルになって田んぼから脱出する作戦を選んだ。アカガエルが、そんなカエルの代表である。

今ではすっかり珍しくなってしまったが、アカガエルやシュレーゲルアオガエルなど、春のカエルの大合唱を聞くことがある。おそらく江戸時代には、春にも田んぼにはカエルの声が聞こえていたことだろう。

そして、冬眠から覚めたカエルたちの声は、季節の訪れを感じさせる風物詩として、春の季語となったのである。

■俳句だけに残るかつての日本の春

しかし今、春の田んぼでカエルの鳴き声を聞くことはほとんどない。田んぼに水を入れるのは、田植えの前である。もちろん、それは昔も同じである。

稲垣栄洋『古池に飛びこんだのはなにガエル?』(辰巳出版)
稲垣栄洋『古池に飛びこんだのはなにガエル?』(辰巳出版)

しかし、排水技術の発達していなかった昔は、田植え前の冬の田んぼにもところどころ水たまりがあった。冬のカエルであるアカガエルは、そんな場所に卵を産んでいたのである。

しかし、土木技術の発達した現代では、春のカエルの声を聞くことはほとんど、できなくなってしまった。

アカガエルの仲間は、今では絶滅が心配されるほどに、数を減らしてしまっている。

今でもカエルは春の季語である。しかし、菜の花とカエルの春の風景は、もはや過去のものになってしまったのである。

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稲垣 栄洋(いながき・ひでひろ)
静岡大学大学院教授
1968年静岡市生まれ。岡山大学大学院農学研究科修了。農学博士。専攻は雑草生態学。農林水産省、静岡県農林技術研究所等を経て、静岡大学大学院教授。農業研究に携わる傍ら、雑草や昆虫など身近な生き物に関する著述や講演を行っている。著書に、『植物はなぜ動かないのか』『雑草はなぜそこに生えているのか『イネという不思議な植物』『はずれ者が進化をつくる』(ちくまプリマー新書)、『身近な雑草の愉快な生きかた』『身近な野菜のなるほど観察録』『身近な虫たちの華麗な生きかた』『身近な野の草 日本のこころ』『身近な生きものの子育て奮闘記』(ちくま文庫)、『たたかう植物 仁義なき生存戦略』(ちくま新書)など。

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(静岡大学大学院教授 稲垣 栄洋)

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