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「父も母も鬱病」担任教員に容姿や成績の悪さを揶揄され不登校の小3女子…40年後に"ワンオペ両親介護"の不遇

プレジデントオンライン / 2024年7月13日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hakase_

ケンカの絶えない両親は、ともに精神疾患にかかっていた。しつけを受けなかった女性は学校の担任教員から嫌われ不登校に。それから約40年後、バツイチで実家に戻ってきていた女性は高齢の両親をW介護することになる――。(前編/全2回)
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、他に兄弟姉妹がいても介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

■菓子職人を目指す父親

東北地方在住の下島麻鈴さん(仮名・50代)の父親は、和菓子職人を目指していた。父親26歳のとき、同じ年齢の女性と結婚し、翌年男児に恵まれたが、女性は病死。男児は女性の親族と養子縁組し、引き取られた。

「私は腹違いの兄とは一度も会ったことがなく、父も音信不通だそうです。当時父はとても貧しく、自分の母親を数年前に亡くしており、身内のサポートを受けるのが難しい状態だったため、子どもを手放してしまったことをずっと悔いていたようでした」

父親は30歳のときに和菓子職人になるのを諦め、知り合いの紹介で市役所に勤め始めた。同じ年、お見合いで10歳下の女性と出会い、結婚。翌年下島さんが生まれた。

「父の前妻は綺麗な人だったらしく、死別という状況が母には重く感じられ、ずっと自分は父にとって“2番手”だと思い、引け目を感じていたようです」

下島さんが物心ついたとき、両親の仲は良くなかった。

「もしかしたら母は、発達障害や軽度の知的障害があったのかもしれません。両親は会話が噛み合わず、もともと短気な父はいつも母を怒鳴っていました。母は自分を守るために嘘をついて誤魔化すところがあり、『お前はどうしてそんな嘘をつくんだ』と言って泣いている父の姿を幾度も見ました。今のように情報やサポートもない時代ですので、理解に苦しみ続けていたのかもしれません。父は30歳のときに心身症とうつ病と診断されてから何度か入院しており、母も職場でいじめの対象にされ、うつ病を発症して何度か入院しています」

母親がうつ病を発症したのは結婚後に引け目を感じていたことや職場のいじめが原因かもしれないが、父親が30歳のときに心身症とうつ病と診断されたのは、最初の妻との死別と、子どもを手放してしまったこと、そして菓子職人の仕事が上手く行っていなかったことが大きな要因のように思われる。

下島さん自身も、クラスメイトや教師、親族たちと上手くコミュニケーションがとれず、いつも一人でいた。

小3の頃、太っていて身だしなみにも無頓着だったという下島さんは、クラスメイトのみならず、担任の教師からも嫌われ、容姿や勉強ができないことを揶揄されて不登校になった。

「父は公務員でしたが決して裕福ではなく、母は働きに出ていて家計を助けることで精一杯だったため、子育てまで手が回らなかったのだと思います。幼い頃は躾られた記憶もなく、身だしなみを整えるということも知りませんでした」

初めて友だちの家に遊びに行ったとき、友だちの親から、「よその家に上がったら、『こんにちは、お邪魔します』と言うんだよ」と教えられたという。

■父親の不倫

下島さんは小4の夏、父親に連れられて海水浴に行った。浜辺に着くと、父親の同僚だという女性とその息子がおり、4人で遊んだ。女性の息子は下島さんより1〜2歳上で、下島さんの父親に懐いている様子はなく、終始険しい顔をしていた。

孫と一緒に海に走ったり飛び跳ねたりする老人
写真=iStock.com/Imgorthand
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Imgorthand

帰宅すると下島さんは、「どっかのオバちゃんと子どもと海に行った」と仕事から帰ってきた母親に報告。

「その時の母の表情を見た瞬間、『言ってはいけないことだったんだ』と後悔したことを今でも忘れません……。その後、その女性が電話をしてきて『旦那さんと別れて!』と言ったり、怒ったり泣いたりして、応対した母はいつも困惑した様子でした」

当時は台所ともう一部屋しかない長屋暮らしだったため、幼い頃の下島さんは、夫婦喧嘩を何度も目の当たりにしてきた。中でも強烈に脳裏にこびりついているのは、父親の足にすがりつき、「捨てないで〜!」と泣いている母親の姿だった。

「母は常に父の顔色を窺っていました。口下手で、誰に対してもですが咄嗟に言い返すことができません。何も言い返さない母に対して、父は泣きながら怒っていました……」

■子はかすがい

下島さんは高2になった。修学旅行に京都へ行く数日前、父親から1万円札を渡され、「京都で飾り物でも買って来てやって」と頼まれた。1万円札は、父親の不倫相手からの餞別だった。

旅行中、下島さんは長年不倫を続けている父親への怒りがこみ上げ、抑えられなくなった。1万円分の人形やこけし、五重塔や金閣寺などの置物、陶器の湯呑など、わざと嵩張るものを選んで買い込んだ。

修学旅行から帰ってくると、多くの親は駅まで迎えに来ていたが、下島さんの親は来ていない。幸い友だちの親が車で家まで送ってくれたが、1万円分のお土産で荷物が重いうえ、迎えにも来てくれていない父親に対し、さらに怒りが増していた。

下島さんは家に入るなり、父親の前にお土産をぶちまけると、「女と別れるか母さんと別れるか、決めるまで帰らない!」と言って家を飛び出し、友だちの家に駆け込んだ。

「『アンタの愛人のためにこんな重い荷物を持ち歩いてたのに、迎えにも来ないなんて!』と腹が立ちました。でもその日のうちに父から電話があり、『俺が悪かった。相手とは別れたから』と言って、迎えに来てくれました」

この日を境に父親は帰宅が早くなり、家にいることが多くなった。

「たぶん父にとっては母よりも、娘である私の存在のほうが大きかったのだと思います。幼少期から親と折り合いが悪く、反抗ばかりで、私はうまく笑うことができませんでしたが、父が言った冗談に少しでも私が反応するといちいち喜んでいました。一人娘はかわいかったのだと思います。そしてそれは、前妻との子を手放したからではないかと想像しています」

■結婚と離婚

下島さんは高校在学中に就職活動がうまくいかず、卒業後はフリーターになった。27歳でやっと会社員になったものの長続きせず、さまざまな仕事を転々としていた。

やがて父親から、「どんな相手でもいいから早く結婚してくれ!」と懇願される。

ちょうどその頃、高校時代の女友だちから連絡が来るようになった。彼女には10歳年上で子持ちの彼氏がおり、その彼氏の友だちも交えて4人で会うことが増えていく。

「私は結婚に向いていない自覚があったので、『一生独身でいいや』と思っていたのですが、父への当てつけの気持ちから、勢いで手近な相手との結婚を決めてしまいました」

日本の婚姻届と結婚指輪
写真=iStock.com/shirosuna-m
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/shirosuna-m

下島さんは1995年6月、旧友の彼氏の友だちと29歳で結婚。しかし、“勢いで手近な相手と”という結婚は、長続きしなかった。その後、離婚することになる。

元夫は、下島さんの体調が悪いと機嫌が悪くなり、すぐにフテ寝してしまった。意見の相違があった時に話し合えないことは、「一生添い遂げる相手ではない」と思う大きな要因となった。

「私の父は短気な上に不倫をして母を苦しめてきましたが、母の体調不良の時はフォローしていたので、元夫は冷淡だと感じました」

下島さんの体調が悪いと不機嫌になることは、立派なDVだ。

結婚から6年後。35歳で下島さんは実家に戻り、別居状態に。理由を話すと父親は、迎えに来た元夫に対して「お前は出てくるな」と言い、間に入ってくれた。元夫はなかなか離婚を受け入れなかったが、結局2002年6月、下島さん側が慰謝料として100万円支払うことで離婚が成立。慰謝料は父親が払ってくれた。

■突然の介護

離婚から3年後、下島さんは出会い系サイトで機械関係の仕事をする2歳上の男性と出会い、すぐに交際に発展。その頃、長年膝関節が湾曲する病気を患っていた父親は、主治医から人工関節手術を勧められていた。

「人工関節には耐用年数があり、若い年代ですると、のちに再手術をしなければならないそうです。そのため父は、ある程度の年齢になるまで手術を待っていました」

60歳で定年退職すると、自宅で家事をしたり、覚えたてのパソコンでインターネットをしたりして過ごす。しかしいよいよ膝が悪くなってきたため、2011年に77歳で左膝、2012年に右膝の手術を受けることになった。

膝関節の痛み。ラインとポイントのポリゴンモデル
写真=iStock.com/Ilya Lukichev
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ilya Lukichev

ところが、父親は右膝の手術後、全身麻酔から覚めた瞬間からせん妄が激しく、不穏な状態でベッドから降りてしまうなど、危険な行動が続き、日中は誰かがつきっきりで見張っていなければならなくなる。

当時、ちょうど勤めていた飲食店が閉店することになり、無職になった下島さんは、1週間ほど父親に付き添っていたが、1日だけ休息のため、母親に交代してもらうことに。当時68歳の母親は、10年以上前に病院の看護助手の仕事を退職した後、仲間とカラオケやパークゴルフをしたり、温泉へ行ったり、庭で野菜や花を育てて過ごしていた。

下島さんが自宅で休んでいたところ、突然看護師から「お母さんが倒れたので来てください!」という電話を受ける。

急いで駆けつけると、横たわった母親が処置を受けながら検査室に運ばれる所だった。医師からは、父親の付き添いの合間に、昼ごはんのために売店で購入したいなり寿司を喉に詰まらせ、心肺停止になったと聞かされる。

幸い母親は一命をとりとめたが、そのまま入院に。一方で父親の不穏な状態は続いており、精神科受診を勧められ、半ば強制的に退院することに。

「本来は2カ月ほど入院し、足のリハビリを受けてからの退院になるはずでしたが、それもせず厄介払いするかのような対応に怒りが湧きました。錯乱している父を連れて帰ることへの病院側のフォローもなく、途方に暮れました……」

父親は何とか歩けたため、下島さんと交際中の男性とで家に連れて帰ることができた。しかし10日後、追い打ちをかけるように、「次の入院患者が待っているから」と言われ、母親も退院することに。

錯乱状態が続く父親を一人家に置いては行けない。このときも交際中の男性に助けを求め、父親も連れて3人で母親を迎えに行った。

いきなり両親2人の介護が始まり、46歳の下島さんは大混乱に陥った。(以後、後編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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