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「ギャンブルで大負けすると安心するんです」50歳男性を競馬・パチンコにのめり込ませた「幼少期の深い傷」

プレジデントオンライン / 2024年7月22日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GoodLifeStudio

お金に執着がなくても「ギャンブル依存症」に陥る人がいる。『ルポ 虐待サバイバー』(集英社新書)著者で、心理カウンセラーの植原亮太さんは「意志が弱い・だらしない人と思われがちだが、そうではない。幼少期に親から受けた心の傷が原因となるケースがある」という――。

※本稿の事例は、個人が特定されないように一部事実を加工しています。

■「児童虐待」が原因となったギャンブル依存症

ドジャースの大谷翔平選手の元通訳・水原一平氏の一件で、日本でも「ギャンブル依存症」が再注目されるようになった(DSM-5-TRというアメリカ精神医学会が発行する国際的な診断基準では「ギャンブル行動症」へと正式名称が改められたが、本稿では通称の「ギャンブル依存症」を用いる)。

「ギャンブル依存症」と聞いて、読者の方はどのようなイメージを持つだろうか。「意思の弱い人」などだろうか。一般的には「勝ったときの興奮が忘れられない」「負けを取り戻したい気持ちが依存症へと発展させる」と思われがちだが、こうした通常の心理とは異なる理由で、ギャンブルをやめられなくなる人がいる。この背景には幼少期に親から受けた「児童虐待」が原因のこともある。

■好きでもないのにギャンブルがやめられない

名取勝之さん(50歳・仮名)は、自身の金銭問題に悩んでいるという趣旨で相談にやって来た。

「これまで、妻からは何度も病気だと言われてきました。パチンコに競馬、負けるとわかっているのにやってしまうんです。依存症の治療を受けたことがあるんですけど、あまり効果はありませんでした」

名取さんの借金は膨れ上がり、その返済のために別の消費者金融から借金をしてしまった。それを妻に知られてしまい、今は妻が金銭管理してくれているが、今度はインターネットゲームに課金し始めてしまったという。

一般的なギャンブル依存症かなと思った矢先、名取さんは意外な言葉を口にした。

「ギャンブルもゲームも、特に好きなわけではないんです。熱中しているわけでもなくて、それなのに、やめられないんです」

金銭問題によって日常生活に支障が出ている点で見れば、依存症だと判断しても相違ない。ここで肝要なのは、なぜそうなってしまうのかである。私はカウンセラーの立場から名取さんがギャンブルに興じる心理的背景を細かく確認していった。

「どのような気持ちで、賭博を行うのですか?」
「当たればいいなとは思いますけど、当たらないことはわかっています」
「当たったときの気持ちはどうですか?」
「嬉しいですけど、別にそこまでではないです」
「話が変わりますが、ゲームは好きなのですか?」
「いえ、他にやることがないので、ついついやってしまう感じです」

■依存症は「憂さ晴らし」が原因のことが多い

専門的には、

(1)「持続的かつ反復性の問題賭博行為」で、
(2)「興奮を得たいがために、掛け金の額を増やして賭博」をするが、
(3)やめる努力は「繰り返し成功」しない、
(4)賭博に「心を奪われている」、
(5)気分が苦痛のときに「賭博することが多い」、
(6)「失った金を“深追いする”」、
(7)のめり込みを隠すために「嘘をつく」、
(8)人間関係や仕事を「危険にさらし、または失った」ことがある、
(9)「他人に金を出してくれるように頼む」

などの項目のうち4つ以上に当てはまると、医師はギャンブル依存症の診断を下す。

※DSM-5-TR 「ギャンブル行動症」より抜粋・引用し、筆者が編集

私の印象では、男性の依存症問題はギャンブルやアルコールの問題に限らず仕事などで思い通りにならないことが続いてきた人に多い。根っこにあるのは「憂さ晴らし」である。「憂さ」が蓄積しているからこそ、これを解消して満足を得ようとのめり込む。のめり込んでいる間は日常を忘れさせてくれる。それをするのに物質を用いるのか、行為を用いるのかの違いがあるが、いずれにせよ現実から遠ざかりたいがために耽溺(たんでき)する心理がある。

女性の場合は、子育ての悩みが関係していることが多い。

「意志が弱い・だらしがない」のではなく、依存症の問題を抱えるにまで至ってしまった彼ら彼女らにとっては、心を平常に保つために用いられた手段でもある。そうせねばならなかった苦しみが、そこにはある。

■「何をしてもうまくいかない。これが人生」

名取さんの行動はギャンブル依存症の定義を満たすのだろうが、その行為そのものに心が奪われているというよりも、どこか心寂(うらさび)しい印象であった。満足を求めようとしたがための、依存症の典型には感じられなかった。

私は質問を追加した。

「もう少しお聞きしたいのですが、負けたときの気持ちはどうですか?」

典型的には、ここでは「取り戻したい」「負けを帳消しにしたい」などの言葉が聞かれるはずだ。

しかし彼には、そのような心理は見られず、代わりに次のように述べた。

「ああ、やっぱりな、という感じです。こうなるのが人生だよなって。もちろん勝ったほうがいいんですけど、取り返したくなるほどの気持ちはないんです。そういうところが、周りの依存症の方とは違うなとは感じていました。だから、自助グループはあまり合わなくて……」
「なぜ、そう思うのですか? 『こうなるのが人生だ』とおっしゃいましたが」
「ええ、どうせ何をしてもうまくいかないんです。そういう意味で、これが人生だと思います」

名取さんは、小さく言った。

ここに彼なりの整合性が隠されていた。

■「思い通りにならない」ことを確かめる儀式のよう

一般的な感覚では、ギャンブルやゲームは勝って楽しむものである。勝つこともあれば負けることもある。その分、勝ったときには興奮するものだろう。だから私たちは、ときに熱中する。こういう心理は、ギャンブルに限らず誰でも多少の心当たりがあるのではないだろうか。

身近な例では、応援しているスポーツチームの勝ち負けなどである。負けが続いていたときに勝てば、嬉しさも大きい。そして、みんなで喜び合えば、なお楽しい。熱中して楽しめば、心はそこそこに満足である。

スポーツ中継を見て盛り上がる人たち
写真=iStock.com/gpointstudio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gpointstudio

しかし彼は、あまり勝敗に対して心が動いていない。まるで「どうせ思い通りにならない」という結果を確認するための儀式のようである。そして、どこをとっても独りである。

「名取さんのギャンブル問題は、ちょっと普通とは異なるようですね」
「それは、どういう意味ですか」
「ええ、まだ詳しくうかがっていないのでわかりませんが、子どもの頃から寂しい経験をしてきたのだろうと思いましたよ」
「はあ、そうなんでしょうか」

初回の面談はここで終わった。

■「あたりまえ」を歪ませた幼少期の心理的虐待

名取さんは定期的に相談に訪れるようになり、次第に幼少期の話題になった。カウンセリングが深まっていくと最終的には家族の問題へと至るこの流れは、どんな人でもほぼ共通している。

母親の話になったときのことだった。彼は次のように話した。

「母親は気性が激しい人でした。どんなことで怒り出すのか、予想がつきませんでした。ある日、たまには褒めて欲しいと思って、小学校のテストで98点を取ったので母親に見せたんです。そうしたら『いま忙しいんだ! 話しかけるな!』って。そのとき母親は、居間で寝転がってテレビを観ていたんですが」

これ以外にも、家の中での異常な親子関係の描写が確認できた。彼が心理的虐待やネグレクトに曝されてきたことは、間違いなさそうだった。これらは積極的な暴力こそないが、親側の気分次第の一貫性のない態度で一方的に接せられるため、子の側の心だけが萎(しお)れていく。しかも目には見えない虐待だけに、子も自分が虐待されているとは気づかない。

この環境下では、子どもにとっては期待が裏切られ続けることの連続になる。何をしても、親は振り向いてくれない。だから、いつの日か裏切られることが「あたりまえ」になる。

ここに、普通の人とは異なる心理が生まれる要因がある。

■「心身が満足する」という経験がない

私たちは、親に気持ちを聞いてもらって、受け取ってもらって、理解してもらった体験を積み重ねて大人になってきた。もちろん、いつも希望通りになるとは限らないが、それでも「わかってほしい」気持ちは通じることを体感で知っている。これは、普通の親子関係があったからこそである。

専門的な言い方をすると、親子の愛着関係が成立していたのである。

愛着関係とは、J・ボウルビイの研究による成果から見出されたもので、母親(主たる養育者)との持続的かつ情緒的に豊かな関係が、子の心身の健康を後押しするとしたものである。

親との愛着関係という基盤を持っているからこそ、私たちは人との心のつながりを、いつも欲し、求めている。人生の初期に「愛着関係」を通して知ったのは、心身が満足するという経験である。だからこそ不満足もわかる。背景に児童虐待がない依存症問題の場合は、こうした欲求を充足したいという気持ちが土台にあるからこそ、割とはっきりと「のめり込む」のだ。

しかし虐待を受けてきた人には、こうした心理が「ない」か、もしくはかなり「薄い」ようである。彼ら被虐待者にとっては、わかってもらえないことが自然で、わかってもらおうとすると、かえって傷つくだけだった。親子の愛着関係が「不成立」だったからである。

そうした環境下では、親は子の心身の健康に無関心である。だから子は満足したことなどない。不安と不快で固定された人生を生きていかなければならなくなる。そして、子の期待は必ず裏切られる。

だから、名取さんにとって裏切られることは「あたりまえ」なのである。

満足したいがための依存症問題ではなさそうである。

私はスクールカウンセラーの立場で働くこともあるが、虐待を受けている子ほど、助けを求めには来ないし、相談しにも来ない。わかってもらいたいという欲求の充足や、わかってもらえるという安心を、端から期待していないか、知らないかのようでもある(詳しくは、『なぜ「子供の自殺」が増えているのか…学校カウンセラーが「眠そうな子が危ない」と警鐘を鳴らす理由』を参照)。

3人の男の子の影
写真=iStock.com/AlexLinch
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AlexLinch

■「裏切られること=生きていること」

名取さんが生きる世界では「裏切られること=生きていること」である。裏切られていると、自分の存在を確認できる。母親から肯定してもらえなかった存在を、彼らはこうして苦しみを介して確認している。

ギャンブルに負けていたほうが自分を確認できるのは「幼児期の外傷体験」であるネグレクトや心理的虐待が原因である。負けが込んでくると、妻に合わせる顔がなくなる。何をやっているんだろうと自分でも思う。そういうダメな自分を包む空虚を「意識することなしに行動で反復」している。

精神分析の世界では、これを「反復強迫」という。反復強迫とは、幼児期の外傷体験を意識することなしに行動で反復してしまうことだ。

名取さんのギャンブル問題の背景もここにある。

だから負けるたびに、彼は「ああ、やっぱりか」と人生に納得する。それで、かえって安心する。だからまた「負けに行く」。表面上は依存症問題のように見えるが、根っこに巣食っているのは虐待問題である。

■無自覚だから行動を変えられない

こうした理由から、ときに彼らの行動は表面上だけを見ると不可思議に思われることがある。

たとえば、誰もが羨むような昇進や栄転の話を断ってしまったり、あと一歩で成功に近づくのに手柄を他人に譲ってしまったりなどである。理由を聞くと、特に明確に答えるわけではないのだが「僕(私)は、いいんです」と異口同音に言う。

反復強迫を考えるときに重要なのは、彼らにとって何をしていたら「生きている」ことになるのかである。

名取さんにとっては、母親から愛情をもらいたいと欲する気持ちが裏切られ、その余韻の中で浸るあきらめや空虚が「生きている」ことだった。だから、人生において吉兆めいたものがあると「変に怖くなる」と話したことがあった。

彼はここでも自分の心の傷に忠実に生きていた。

長男が生まれた翌日、彼は一人でパチンコに出かけた。昇進が決まった日には同僚からの祝宴を断って、一人で競馬に出かけた。長女の結婚式では「飲まずにはいられなくて」酒を煽り、式を台無しにしてしまった。

こうしたことをするたびに妻からは「私(周囲)から嫌われたいの?」と泣かれた。なんでこんな行動をするのか妻から詰問されるたびに、「自分でもわからない」と答えたという。それから「次は気をつける」とも言う。

しかし、無自覚であるからこそ行動は変わらない。

何度も離婚に向けての話し合いがなされたという。

こういう視点で周囲を見渡してみると、まるでわざと苦しいほうへ、不幸なほうへと、突き進んでいるかのような生き方をしている人がいることに気づくかもしれない。

■「普通ではない」が「理に適った」生き方

依存症治療では、我慢し続けて依存行為をしないようにすることが目的となっている部分も多い。ところが、そうした治療を進めると、我慢が破綻してしまったときに激しい衝動に突き動かされてしまうことがある。すると、これまで我慢できていたギャンブルや薬物などを欲する気持ちが高まってしまって、また手を出してしまうことも珍しくない。そして、このときの手の出し方は、これまでに我慢してきた分だけ激しい(こうした背景があって、近年ではアルコール依存症の治療は「断酒」ではなく「節酒」へとなりつつある)。

どんな人でも、安心を求めて生きていく。

しかし、それは「本人なりの」安心である。

虐待を受けてきた人は、この世の中で生きている多くの「普通の」人とは、安心の概念が異なっているようである。

「普通の」親子関係に恵まれてきた人にとって安心とは、人と気持ちが通じ合えること・理解し合えること、などだろう。

一方の普通とは異なる親子関係で生きてきた被虐待者も、言葉では上記と同じように答えるはずである。それが常識的であるということは知っているからだろう。

しかし彼ら彼女らは、実のところ幸せや人との気持ちのつながりを恐れているようでもある。ずっと欲しかったそれが手に入るかもしれないと思うと、怖くなるようだ。彼らは、期待が壊れる事を知っている。信じると裏切られることを感じている。ならば、いっそ、つらいことに触れているほうが安心なのだ。

こういう独特の心理は、心に深い傷があるという本質が見えてくると、とても整合性がある。「彼らなり」の理に適った生き方が、そこにある。

■「ホス狂い」「DV」も同じ原因のことが多い

こうした心理を念頭に置いて社会を見渡してみると、いろいろなこともわかってくる。若い女性の間で流行している「ホス狂い」(=一人のホストに没頭する人を指す俗称)も、反復強迫に近いのだろうと思う。

DV問題も同じである。せっかくDV加害者から離れたのに、また同じような相手といっしょになってしまう人がいる。

共通しているのは、けっして振り向いてくれない相手に一生懸命になるという点である。

ここに、幼少期の心の傷が浮かび上がってきそうである。

「反復強迫」は、私たちにとって「安心」とは何か、「生きている」とはどういうことなのかを問いかけてくれるようでもある。

これを考えていくのに、その後の名取さんの話は示唆に富んでいた。

やがて彼は、自身が受けてきたことが虐待だったと理解した。そして、決して母親から愛されていたことなどなかったのだとも知った。

このショックは大きかったが、変化もあった。

植原亮太『ルポ 虐待サバイバー』(集英社新書)
植原亮太『ルポ 虐待サバイバー』(集英社新書)

ギャンブル問題が自分の心の傷を確認するかのようにして起きていたことが見えて、わざわざ「負けに行く」ことはしなくなった。このときの気持ちを次のように話してくれた。

「いろいろと理解していくにつれて、自分のことが可哀想になりました。もともと、別にギャンブルじゃなくてもよかったんだと思いました。ここで言われたように、虚しいのを確認できればよかったんだと思ったら、ギャンブルに固執しなくなりました。むしろ、いままで何をやっていたんだろうと思ったんです。ほんとうに虚しかった、その真っ只中にいたから、虚しさがわからなかった。いま、こうして俯瞰していると、しょうがなかったと思えました。あのときの自分には、これも必要だったんだと……」

以後、ギャンブルをしようとも、したいとも思わないという。

■原因を知って「自分のことが可哀想に」なった

名取さんが言ったように彼らにとっては、ギャンブルやアルコールではなくてもよかったのだろう。必ず「裏切られる」ことを確認できる行為なら、特にひとつのことに拘泥(こうでい)する必要はないのかもしれない。そうしてでも「生きている」ことを確認できないと、社会の中で居場所がなくなってしまう。親からも存在を認められてこなかった彼らは、こうしてギリギリの存在感をつないできたはずである。

社会の中で必要だった生き方が見えてくれば、そこからの修正を図ることができる。これに関しては、名取さんが証明してくれている。彼は「自分のことが可哀想に」なった。そして賭博をしなくなった。そうせねばならなかったわけを理解したからだ。

自分の中にある気持ちに気づくと、行動は変わる。

行動は気持ちに支えられているのである。

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植原 亮太(うえはら・りょうた)
精神保健福祉士
1986年生まれ。公認心理師。汐見カウンセリングオフィス(東京都練馬区)所長。大内病院(東京都足立区・精神科)に入職し、うつ病や依存症などの治療に携わった後、教育委員会や福祉事務所などで公的事業に従事。現在は東京都スクールカウンセラーも務めている。専門領域は児童虐待や家族問題など。

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(精神保健福祉士 植原 亮太)

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