1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

だから「20人の婚外子」と「500の会社」を作った…「新一万円の顔・渋沢栄一」が最晩年まで守り続けていたこと

プレジデントオンライン / 2024年7月18日 10時15分

療養中の身で、中国の水害基金募集を放送で呼び掛ける中華民国水災同情会会長の渋沢栄一子爵(中央)と、兼子夫人(右端)、長男篤二(栄一の左後ろ)ら家族=1931年9月6日、東京・飛鳥山の自邸(日本電報通信社撮影) - 写真=共同通信社

人間は一面では語れない。それは経営者も同じだ。新一万円札の顔に選ばれた渋沢栄一は、1000を超す企業や事業の設立にかかわる一方、艶福家だった。ライターの栗下直也さんは「可能な限り多くの人と会い、分け隔てなく接した。その根底には生涯守り続けた孔子の教えがあった」という――。

■自宅に妻と妾を同居させ、子どもの数は20人以上

7月3日に紙幣が刷新された。1万円札の肖像には福沢諭吉に変わり、渋沢栄一が採用された。渋沢は日本資本主義の父と呼ばれた。民間経済の活性化こそ国の発展につながると訴え、多くの株式会社を設立した。

みずほ銀行、東京証券取引所、日本赤十字社、東京ガス、帝国ホテル、王子製紙、東急電鉄、キリンビールなど日本の近代化の礎となった数々の大企業を立ち上げ、その数は500近い。経済のインフラといえる業種が大半で、渋沢が立ち上げた企業が私たちの日常を支える。

功績からしてお札の肖像に選ばれるのは不思議ではない。むしろ、遅かったとの指摘もある。実際、渋沢は1963年にも一度、新千円札の肖像の候補にあがったが、外されている。落選した理由は「ひげ」だ。

当時は紙幣の偽造防止技術が進歩していなかったため、ひげのない渋沢は肖像が複雑にならず、偽造の可能性を排除できなかったのだ。そこで、豊かな口ひげやあごひげをたくわえた伊藤博文が、採用されたといわれている。

この際、まことしやかにささやかれたのが「渋沢は女性関係が派手だから落とされた」という説だ。伊藤博文も女性関係は派手で「箒」(愛人が掃いて捨てるほどいたため)と呼ばれていたくらいなので、女性問題を理由に肖像から外されることはないのだが、確かに渋沢はスケールが違う。

■「ああ」は自宅、「うん?」は妾宅

愛人の数が7人だの20人だのいわれ、女性の元に通うだけでなく、邸内に妾を囲っていた時期もあった。子供の数も婚外子をあわせると20人だの50人だのいわれている。

例えば、第一銀行頭取などを務めた長谷川重三郎が渋沢の息子であることは公然の秘密であった。関係者にしてみれば、衝撃は、長谷川が渋沢の子であることよりも、渋沢が68歳の時の子どもであったことだろう。また、あまりにあちこちに子供をもうけたため、実の息子と愛人の息子が学校で同じクラスになることもあったとか。

子どもも多いので、子孫の面々も顔ぶれ豊かで、財界人のみならず、孫に指揮者の尾高尚忠、曾孫に競馬評論家の大川慶次郎、作家の渋沢龍彦は栄一の縁戚にあたった。

「令和の今ならばともかく、昔はそういう時代だろ」との声も聞こえてきそうだが、当時でも渋沢は大変な好色家として知られていた。

有名なエピソードがある。

三男が仕事から帰るときに、父親の車に同乗させてもらうことがよくあったが注意点があったという。「御陪乗願えましょうか!」と聞いて「ああ」とすぐに返事があった場合はOKだが、「うん?」のような曖昧の返事の場合は、すぐに引き下がらねばいけなかった。曖昧な返事は「別宅」にいくサインだったからだ。

新一万円札
写真=iStock.com/petesphotography
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/petesphotography

■私生活と功績の大きなギャップ

渋沢の妻の兼子も夫の女性好きには呆れていた。息子に「論語とはうまいものを見つけなすったよ。あれが聖書だったら、てんで教えが守れないものね」とこぼしている。

家族だけではない。小説家の幸田露伴は渋沢の評伝を書いたが、渋沢の好色ぶりは最後まで好きになれなかったという。また、作家の大佛次郎は学生時代に渋沢が妾を囲っていると聞き、「伊藤博文ならともかく、渋沢栄一がそんなことをするなんて」と衝撃を受けたとしている(彼はのちに渋沢の伝記小説を書いている)。

妾が公認されていた時代とはいえ、渋沢の輝かしい功績とその私生活にいかに乖離があったかがわかるだろう。

もちろん、功績はすごい。彼は資本主義の仕組みは熟知していたが、自身の利益を追求することにその仕組みを使わなかった。生涯、公益の人を貫いた。多くの会社を立ち上げたが、それらの会社が日本を代表する企業になりながらも、令和の今、三井や三菱のような財閥を形成していないことからも明らかだろう。

ちなみに、渋沢と三菱グループの創業者の岩崎弥太郎との間には有名なエピソードがある。「向島の決闘」だ。「決闘」といっても、別に、本気で殴り合ったわけではなく、向島の料亭で岩崎と経営に対する考え方について激論を交わしたのだ。

■「向島の決闘」で起きたこと

近代日本の礎を築いた実業家の二人だが資本主義に対する価値観は大きく異なった。岩崎は権限とリスクを集中すべきという「独裁主義」だったのに対し、多くの人の資本と知恵を結集する「合本主義」(株式会社制度)を唱えた。

二人はいくつかの事業でつばぜり合いを演じていたが、あるとき、岩崎から渋沢に招待状が届く。渋沢が向島の料亭・柏屋に向かうと、そこには岩崎と芸者が15人いたが、岩崎は芸者を交えてどんちゃん騒ぎをしたいわけではなかった。渋沢と手を組みたかったのだ。

ただ、会社を経営して利益を独占したい岩崎と、合本主義の渋沢では考えがあうわけはない。渋沢は岩崎のような財閥の手法、すなわち政治家との癒着構造による利益誘導も真っ向から否定していた。渋沢はあまりの考えの違いに辟易し、便所に行くふりをして帰宅してしまう。

この「決闘」をもって、渋沢が岩崎を毛嫌いしていたともいわれるが、二人はその後に日本初の損害保険会社である東京海上保険を設立する。思想は違っても商売人としては認め合っていた。

岩崎弥太郎
岩崎弥太郎(写真=世界の歴史マップ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■生涯をささげて目指したこと

渋沢は69歳でほとんどの役職から退き、76歳で完全に引退するが、現役時代から関わっていた社会福祉事業に注力し、生涯忙しく働いた。80歳近くなっても深夜の1時、2時まで働くこともあり、81歳で渡米までしている。

渋沢は社会事業を通じて富の再配分をすることで社会が潤い、経済が循環する「道徳経済合一説」を唱えた。ビジネスパーソンとして数多くの会社を立ち上げて運営しながら、社会事業や教育などへの積極支援を惜しまなかった。彼が生涯をささげて目指したのは極論すれば社会をよくすることだった。

慈善事業を実業人の当然の仕事と捉え、有言実行で、東京慈恵会、日本赤十字社などを設立した。関東大震災後には寄付金集めに奔走した。

実業教育に関しても日本全国の商業学校を支援し、現在の一橋大学の原型を整えたのも渋沢だ。従来は不要といわれていた、商人や女子のための教育機関づくりにも尽力し、日本女子大学、東京女学館などの教育機関創立を手がけた。

また、労働団体の活動を支援し、労働者の環境や地位の向上にも努めた。経営者は社員の人格を尊重し、その福利厚生のために努力しなければならない、と主張する彼の言説は、当時としては異端だったが、21世紀の今も課題になっている「ブラック企業」に経営者としていち早く問題意識を持っていたことになる。

■自宅に押し寄せる人、人、人

渋沢が関わった福祉機関・教育機関は、設立した企業数(約500)を上回る約600とも言われている。会社とあわせると生涯で1000以上の組織に関わったことになる。もちろん、渋沢がいくら精力的とはいえ、当然、渋沢一人で立ち上げられるものではない。アイデアにも限界がある。彼の著書の『論語と算盤』にはこうある。

老年となく青年となく、勉強の心を失ってしまえば、その人は到底進歩するものではない、いかに多数でも時間の許す限り、たいていは面会することにしている。

彼は孔子の熱烈な信奉者だった。論語を枕元に置き、悩みがあると寝る前に手にとって読んでいた。現代よりも儒教色が強い当時でも異色だった。

「多数の訪客に接するは人間の義務」という孔子の教えを守り、忙しくても渋沢は時間が許す限り、人と会った。これにより、人との縁もでき、情報を得て、新たな事業の着想が生まれた。現代ほど情報が流通していない時代、人が情報を運んできたのだ。

渋沢ほどの人物ともなれば、多忙だ。時間は有限だ。実行するのは簡単ではない。それにもかかわらず、朝の出勤前に面会時間を設けて、誰とでも面会した。相手の身分を問わずに、分け隔てなく、応じた。

旧渋沢邸「中の家」
写真=iStock.com/ranmaru_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ranmaru_

■「金をくれ」という訪問客に対してやったこと

高齢になってもその習慣は続き、少ない日でも毎朝10人の訪問があったという。

私は遅くも朝六時半には起きて入浴し、書信に一通り眼を通し七時半に食事が終る。その食事前から訪客が待っているので、直ちに御面会するのであるが、その訪問客の内にはあらかじめ電話を掛けて打合せの上見えられる方もあるけれども、突然尋ねらるる人もあるし、初めて御会いする人も多く、時には新聞雑誌記者が意見を聞きに来る。

相談の内容も千差万別だ。渋沢を利用しようとする者も少なくなかったという。

こういう風なので、その要件も各種各様にわたり、中には事業についての意見を問う人もあるし、寄付金の勧誘もあり、海外に赴くについての紹介や斡旋、就職の依頼等を始めとして遽かに数へ切れないが、私を利用しようとして訪問さるる人も少なくない。加うるにその日によっては訪客の半数位は全然未知未見の人である事も往々あるが、従て面会して見るといわゆる空空如たるものもある。しかし私はいかなる人に対しても時間の許す限り面会をしており、またその要件についてはなるべく解決を与えてやる方針を採っている。

当然、どこの馬の骨ともわからない者も押し寄せてきた。「金をくれ」というものもいれば、弟子にしてくれというものもいた。それでも誰とでも会うという姿勢は崩さなかった。誠意をもって耳を傾け、自分の良心にもとづきできるだけの答えを示し、ときに相手を諭した。

■最晩年まで続けたこと

訪問客のひとりにはイオングループの創業者である岡田卓也の父親の岡田惣一郎もいた。

当時十代だった岡田は友人たちと四日市から行商しながら旅費を稼ぎ、上京し、渋沢の自宅をアポなしで訪ねた。

渋沢は会ってくれた。時間はわずか2分余りで特に会話はなかったが、渋沢はひとり一人と握手を交わしたという。惣一郎の日記には「この感激を如く何に伝えん」とある。惣一郎は稼業の呉服屋を継ぎながらも、洋服の扱いを始めたり、貸借対照表などの近代経営をとりいれたり、巨大流通グループの礎を築く。渋沢との出会いが少なからず影響しているだろう。

情報があふれる現代においても、対面で話す意味は薄れない。思わぬ出会いや気づきをもたらし、人を新たな世界に導いてくれる。それを人は「運」と呼ぶのではないだろうか。

渋沢は「運」をいかすも、殺すも自分次第であることを知っていたのだろう。その運を最大限に生かすために、多くの人と会い、利他の心で接し続けた。人に会う、可能な限り、わけへだてなく接する。渋沢ほどの偉業を達成できるかどうかは別にして、誰もが明日から実践できる知恵ではないだろうか。

参考文献、WEBサイト
『雨夜譚 渋沢栄一自伝』渋沢栄一、長幸男校注、岩波文庫
『論語と算盤』渋沢栄一、KADOKAWA
『処世の大道』渋沢栄一、近代経済人文庫
『デジタル版「実験論語処世談」』渋沢栄一記念財団
『明治を耕した話』渋沢秀雄、青蛙選書
『岡田克也、父と子の野望』榊原夏、扶桑社

----------

栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。

----------

(ライター 栗下 直也)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください