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だから清少納言は「貧乏はイヤ」と蔑んだ…出世競争で死人を出した平安時代ならではの"美意識"

プレジデントオンライン / 2024年7月28日 10時15分

土佐光起筆 紫式部図(一部)(画像=石山寺蔵/ CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

平安時代のほぼ同じ時期に女房として宮仕えをし、女流作家として活躍した紫式部と清少納言。2人は対照的な性格だったと言われているが、実際はどうだったのか。歴史小説家の杉本苑子さんと永井路子さんの共著『ごめんあそばせ 独断日本史』(朝日文庫)より、2人の対談を紹介する――。

■紫式部の父の越前赴任の裏で起きた悲劇

【杉本】庶民は自力で生きるほかないし、官吏社会は昇進の遅速をめぐってだれもがストレスの塊……。

【永井】出世競争は今より激しかったでしょう。上の人を飛び越して出世すると、飛び越されたほうは悔しくて、それだけで死んじゃったりするんだから。(笑)

【杉本】紫式部のお父さんの藤原為時(ためとき)が淡路守になったとき、源国盛(くにもり)が越前守に任ぜられた。為時は悲しんで一条天皇に漢詩を差し上げて直訴したでしょ。越前のほうが実入りのよい上国だから……。

その詩が泣きどころをつくうまさだったから、天皇は「それじゃチェンジしよう」と代えてしまった。そうしたら、国盛は死んじゃったわね。きっとノイローゼから胃潰瘍でも起こしたんでしょう。

【永井】だけどそのときは、越前に宋の人が来てたの。それで、宋の言葉、要するに外国語ができなきゃ、交渉ができない。為時は語学の能力を買われたのよ。

【杉本】彼、宋語があやつれるの?

【永井】いやあ、筆談だと思う。学者の家の出だから詩も確かにうまい。そこで、詩に感じたという形で彼を任じたのよ。ここが、平安朝の本音と建前の使い分けでして。

■「わが国は疲弊している」と外交を遮断

【杉本】宋人が漂流して来たのは彼の任官以前なの?

【永井】流れてきたというより、貿易したいの。ところが、絶対に都に入れないのね。それで、その商人が若狭守をぶんなぐったりするのよ。でも、ここが、今の政治より良心的なところよ。日本は亡弊(ぼうへい)の国だから人に見せられないってわけよ。今みたいに日本はいちばんいい国だなんて言わないの。(笑)

【杉本】明治とは雲泥のちがいね。どこか外国の皇太子が来たとき、「夷狄(いてき)紅毛は穢(けが)れているから、御祓(おはらい)しなければ皇居の二重橋を渡らせない」って言ったんですって。(笑)

神国思想。国粋主義を根にしたうぬぼれね。700、800年経過したら日本人の頭の内容は、それだけ変わっちゃった。

【永井】でも、わからないのね、外国の事情は……。

【杉本】そうなの。国際場裡に日本を置いた場合、諸外国との力のかねあいや状況の全体像が的確に把握できないのね。

【永井】あれでよく過ごしたと思うわね。隣の火事も御存知なくて。

■昇進できるよう心血を注いだ官僚たち

【杉本】ところで、除目のさい捧げる申文(もうしぶみぶん)――自己推薦状というのは面白いわね。秋は京官の任命、春は県召除目(あがためしのじもく)をさすのが原則だけど、今の人なら恥ずかしいわ。自分の長所、美点、能力や功績をれいれいしく書き並べてPRするなんてね。

しかも『枕草子』あたりを見ると、春の除目は正月(編集部注=太陽暦で2月頃)だから「雪降りいみじう凍りたる」中を鼻水をすすりながら老吏が女房たちの局(つぼね)の外庭へやって来て、「よきに奏したまへ、啓したまへ」、つまり、女御や中宮にまで手を回して昇進の依頼をする。その有様を真似して、部屋の中で女どもがクスクス笑うさまが描写されているわね。

かと思うと、「今期こそ必ずあの人はよい地位につく」と見越して、分け前に与(あずか)ろうと友人親類が集まってきたのに、遂にその時刻になっても何の音沙汰もない。みんな居たたまれずにコソコソ帰って家族だけが残ったというような悲哀が書いてあるけど、官僚とすれば出世以外に生き甲斐も人生の目的もない……。

■中宮や高位な人の「推薦」が出世に響いた

【永井】だからクビになるわけにいかない。だけどね、「中宮に啓したまえ」というのは、逆の見方をすれば、それだけ女の発言権があるということですよ。

【杉本】そうね、中宮や皇后は公人だから、江戸時代の側妾が寝物語のついでに殿さまに「わたしの弟をお側用人に……」とねだるのとはちがう。しかし女謁(じょえつ)ではあるわけよ。その中宮の実家の背景と天皇への発言権の強さをあてにして縋(すが)るわけだから……。

【永井】情実が堂々とまかり通った時代なのよ。

【杉本】それと賄賂。

【永井】そう。ある程度の位がある人は、自分の知り合いを推薦することができるの。

【杉本】その場合は叙料(じょりょう)ね。賄賂とはちがうわね。推薦して通ったらば、位の場合は叙料、官職の場合は任料を持ってくることが、公然たる決まりになっていたんだから……。

【永井】そういうことができる人は、それがひとつの資格というか、名誉なのね。

■1億3千万円相当の「賄賂」の価値

【杉本】でも、皇胤源氏から地方へ国司として出て、ためこんでもどって中央に再アタックしはじめた連中なんか、これはもう完全な賄賂攻勢よね。例えば道長の土御門邸が焼けたとき、源頼光が運び込んだでしょう、目をおどろかすばかり豪華な調度一式……。

【永井】オール・インテリアを引き受けた。今のわれわれが考えている以上のものすごい富の集積があるわけね。例えば、受領クラスの佐伯公行という男がいるわけですが、彼は、売りに出た藤原為光の屋敷をその娘から買って、そっくり東三条院詮子に寄付しちゃう。

私が調べたら、今のお金で1億3千万円もする。そうすると、東三条院の口添えで、また播磨介に任ぜられる。その収入、もう1億3千万円どころじゃない。

【杉本】すぐそのくらい回収できるね。

■道隆一族の悲劇が描かれなかった理由

【杉本】少し方向転換しましょう。どうもわれわれの話題は野郎っぽい。(笑)

【永井】女の話。紫式部と清少納言。

【杉本】オヨヨッて感じ……。(笑)

【永井】どっちも、私、好きじゃない。あなたは?

【杉本】両方とも。(笑)

【永井】そうね。もの書きには、いい女はいないのだ。(笑)

【杉本】でも、一抹掬(きく)すべきとこもあるのよね。(笑)

『枕草子』に中関白家の悲劇について詳細な描写がほとんどないことについて、いろいろ説があるけど、あなたどう思う?

【永井】私は『栄花物語』と同じ態度だと思う。清少納言が仕えていた中関白家は道長と対立して没落してしまう。中宮定子は子供を産むけど、その子は出世の見込みはないし、しかも3人めの赤ん坊を産んで死んでしまう。それを清少納言は見ているわけでしょ。

これは、悔しいから書かないという考え方があるけど、私はそうじゃないと思う。そういうことは書くべきじゃないのね。それが一種の美意識であり、礼儀なのよ。

『栄花物語』の著者、赤染衛門という説がありますが、彼女は、「皇子誕生の喜びを分かち与えるために伊周を京に呼び戻した」と書いてますが、事実は、まだ皇子はこの時には生まれていない。むしろ東三条院が病気になったのでたたりがこわかったの。だけど彼女はそう書かない。つまり、事実と礼儀のどちらが優先するかといったら、礼儀なのよ。私たちの歴史意識と違うわけ。

■貧乏に生まれたのは「その人自身の罪」

【杉本】首までズッポリ事件の渦中に入り過ぎているということもあるね。政治の流れの中で一度つき放して、中関白家を襲った不祥事を客観視する冷静さが持てない。

【永井】後の『大鏡』になると、中関白家が実にだらしなく没落していく様子を、かなりあからさまに書くんですけど、そこまで客観化できない。

【杉本】清少納言は、下司(げす)の家に月光が差し込んでもけしからんとか、下司の家に雪が降るのも身の程を知らないとか、(笑)すごい傲慢だと思われがちだけど、あれは彼女一流の美意識なのよね。

土佐光起筆 清少納言図(一部)
土佐光起筆 清少納言図(一部)(画像=東京国立博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

【永井】私、彼女はそんなに傲慢だとは思わないわ。

【杉本】貧しいことは醜く、醜いことは汚い、汚いことは嫌ですという三段論法的美意識……。(笑)

それと、もう一つ大事なのは、人間の平等だの基本的人権を尊重するなどといった近代的な考えがなかった時代だということ。だから貧者や弱者にひどい言葉を浴びせているのを、現代風にすぐ差別だ傲慢だと取るのはまちがいなのよね。そもそも貧しい階層や弱者に生まれついたのが、その人自身の罪、前世の報いというわけだから……。

すべて“宿業”論で律すれば、天子は前世での十善の結果、王家に生まれたのだし、富者や権力者は「積善(しゃくぜん)の家に余慶(よけい)あり」ということになる。

■平安朝人が重んじた独自の美意識

【永井】そう。自分が受領層の娘でいながら、受領になりたい、なりたいって騒ぐ連中を笑うのは、いかにも自分は上の階層になったように考えている、浅薄な女だという説があるけど、そうじゃないのね。

【杉本】そうなの。たとえば貧乏といっても、では貧乏は彼女にとってすべて醜いかというと、そうじゃなくて、貧しくても清(すが)やかに生きている人は美しい。反対に、富んだ受領の北の方でも、成金ぶりをひけらかしダイヤモンドだ毛皮だと着飾っているのは醜いのよ。

清少納言に限らず、おしなべて平安朝人は彼らなりの美意識を重んじたのね。人の評価にしろ物の評価にしろ、平安朝ならではの美の基準があって、それに適(かな)っているか、外れているかを重視したわね。

■デリケートな描写は清少納言に軍配

【永井】だから、恋愛なんかもその美意識に適うようにするのね。清少納言はそれを非常に重んじている。朝、男が別れて行くとき、少し着物が乱れているほうがいいっていうのよ。つまり、ネクタイをきちっと締めるんじゃなくて、(笑)ちょっとゆうべの残り香があって、それで「もう行かなきゃダメよ」「まだ……」とか言いながら、(笑)すっと出て行く。

それでいかにも名残り惜しそうな雰囲気を残しているのがいい。バッと起きて、「何時? 財布! 眼鏡!」バタバタ探して、「じゃ、さよなら!」と出て行くのは下の下だと。(笑)

【杉本】そういう点、清少納言のほうがデリカシーがあるわね。「鏡はちょっと曇ったのがいい」とか、「暗がりで鏡を覗くとどきどきする」なんて。紫式部にはそこまでのデリケートな描写や観察がない。

【永井】だから私は「紫式部は近眼だ」っていうの。(爆笑)杉本さんの前で悪いこと言った。

【杉本】かまわんかまわん。紫式部の仲間に入れられるなら光栄だ。(笑)

【永井】あなたは近眼でもよく見えるけどさ、そうじゃなくて、清少納言のような、「ウーン」とうなるようなピリッとしたセンスは紫式部からは感じないの。『源氏物語』の美意識はもう『古今集』の時代にできてるのよ。

■紫式部は考える女、清少納言は感覚する女

【杉本】ただ、文章力と大長篇を支える構築力は卓抜している。

【永井】それから思想背景というか、人間観察の深さは、これはやっぱり紫式部にしかない。

【杉本】それはもう紫式部よ。彼女は考える女、清少納言は感覚する女。

【永井】『源氏物語』というのは、一種の哲学小説だと思って読めばいいと思う。決して源氏の栄燿栄華を書こうとしたのではないわね。

土佐光起筆 源氏物語絵巻 二十帖『朝顔』
土佐光起筆 源氏物語絵巻 二十帖『朝顔』(画像=バーク・コレクション/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

【杉本】栄華どころか、むしろ摂関体制が斜陽に向っていくであろう未来を予見して、翳(かげ)りというか、おののきのようなものを、紫式部は本能的に感じ取っているわね。

【永井】把握しているわね。

【杉本】そして、そういう時代に生きなければならなかった人間の重圧感、拘束感を漠と感じていた人よね。

【永井】そうね。

【杉本】それが『源氏物語』に反映してあの作品の魅力にもなっている。

■もともと勝気だった性格が変わっていった

【永井】私は、それは彼女の教養だと思うのよ。いわゆる歴史を見る眼というよりも仏教的な末法思想。当時はそういう考え方がどんどん出てきている時代ですから、それをいち早く感じ取って書いている。たとえば、戦後エグジステンシャリズムが流行ったときに、サルトルばりの実存主義小説を書いたような感じで、末法思想の影響を深く受けているなあ、という感じがありますね。

【杉本】性格の差もあるわね。清少納言との……。

【永井】うん。でも、若いときの紫式部ってわりと勝気みたいね。

【杉本】そう。小娘のころは生意気ね。けれども、母親が早く死んで、学者肌の父親だけのうすぐらい家の雰囲気とか、いい相談相手だった姉さんとの死別とか、出来のよくない弟といった家族構成から生まれる家庭環境。それらが彼女の性格を後天的に作りあげたと思うし、さらには幸せとはいえない結婚もね。当時とすれば晩婚だし……。

【永井】夫がまたすぐ死んじゃう。

■愉快な父親に育てられた清少納言との差

【杉本】そう。四十男と結婚したけど、すぐ死なれてしまった。そうした半生から培われた性格もあると思うわ。内向的な、哲学的にものを感じていく方向に育つ……。

杉本苑子、永井路子『ごめんあそばせ 独断日本史』(朝日文庫)
杉本苑子、永井路子『ごめんあそばせ 独断日本史』(朝日文庫)

ところが、清少納言のお父さんというのは『今昔物語』に「元輔(もとすけ)は人笑わするを役とする翁」と書かれた人物でしょ。賀茂祭の勅使に選ばれて都大路を行進中、馬がつまずいて落馬した拍子に冠を落としてしまった。頭にテカテカ夕日が当る。みんながドッと笑ったら、冠を落とした人々の先例を滔々(とうとう)と述べたて、ますます沿道の見物を笑わせた。

つまり失敗をユーモアに変えてしまうウィットの持ちぬしなのね。お父さんからしてそういう愉快な人ですから、清少納言の育った家は、おそらく笑い声の絶えない朗らかな家庭だったと思うのね。定子中宮のおそばへ上っても、ゲームなど始まればすぐ音頭をとって、出しゃばりに見られようと何であろうと清少納言ははしゃぐタイプだったのではないかな。

【永井】ユーモアがわかるっていうのも一種の洗練なのよね。

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杉本 苑子(すぎもと・そのこ)
歴史小説家
1925年、東京生まれ。文化学院文科卒業。1952年『サンデー毎日』懸賞小説に「燐の譜」が入選したのを機に、選考委員だった吉川英治に師事。1963年『孤愁の岸』で第48回直木賞を受賞。その後、『滝沢馬琴』で第12回吉川英治文学賞、『穢土荘厳』で第25回女流文学賞を受賞。2002年菊池寛賞を受賞、文化勲章を受勲。そのほかの著書に『埋み火』『竹ノ御所鞠子』『悲華水滸伝』などがある。2017年没。

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永井 路子(ながい・みちこ)
歴史小説家
1925年、東京生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業後、小学館勤務を経て文筆業に入る。1964年『炎環』で直木賞、82年『氷輪』で女流文学賞、84年菊池寛賞、88年『雲と風と』ほか一連の歴史小説で吉川英治文学賞、2009年『岩倉具視』で毎日芸術賞を受賞。著書に『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』『この世をば』『茜さす』『山霧』『元就、そして女たち』『源頼朝の世界』『王者の妻』などのほか、『永井路子歴史小説全集』(全17巻)がある。

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(歴史小説家 杉本 苑子、歴史小説家 永井 路子)

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