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「織田信長を2度も裏切った男」は本当に極悪人だったのか…最新研究でわかった武将・松永久秀の本当の姿

プレジデントオンライン / 2024年7月24日 18時15分

太平記英勇伝:十四、松永弾正久秀(画像=歌川芳幾/東京都立図書館/Hidden categori/Wikimedia Commons)

戦国時代の武将、松永久秀とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「戦国時代最大の梟雄として知られているが、近年の研究でその評価は大きく変わっている」という――。

■「将軍を殺し、主君を殺し、大仏殿を焼き払った」

「下剋上」という言葉から、多くの人が真っ先に思い浮かべる人物のひとりが松永久秀だろう。私自身、かつては大嫌いな歴史上の人物の筆頭だった。なぜなら、重源上人が率いた復興事業により鎌倉時代初期に再建された東大寺大仏殿を、焼き払った張本人だと認識していたからである。

事実、江戸時代以来、そう信じられていた。それに久秀のマイナスイメージは、東大寺への放火にとどまらない。

『信長公記』の作者である太田牛一による『太かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』には、13代将軍足利義輝を討ち、主君の三好長慶をそそのかして、その弟の安宅冬康を殺させ、その息子の義興を毒殺。また、信長の家臣になるも背き、東大寺大仏殿を焼いた報いによって焼死した、という旨が記されている。

また、戦国時代から近世初頭まで約50年間の武士の逸話を、江戸時代中期に備前岡山藩の儒学者、湯浅常山がまとめた『常山紀談』には、こう書かれている。

「東照宮、信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり、信長、この老翁は世の人のなしがたき事三ツなしたる者なり、将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり(徳川家康が織田信長と対面したとき、傍らにいた松永久秀について、信長は『この老人は常人にはなせないことを3つも行った。将軍を殺し、主君の三好(長慶の息子の義興)を殺し、東大寺大仏殿を焼失させた松永という人物だ』と紹介したので、松永は汗を流して顔を真っ赤にした)」

■近年の研究で「松永久秀像」は大きく変わった

将軍も主君も殺害し、大仏殿まで焼いたなど、まさに「世の人のなしがたき事」にほかならない。だから「梟雄」とはだれかという話題になると、斎藤道三らと並んで必ず名前が挙がる。以前も歴史雑誌が行った「『梟雄』と聞いて思い浮かべる歴史人物は?」というアンケートで3位だったが(4位以下に大差をつけていた)、戦国最大の梟雄というイメージを抱く人も多いだろう。

だが、近年の研究で、久秀像はすっかり変化を遂げたといっていい。

明応2年(1493)、室町幕府のナンバーツーである管領の細川政元は、10代将軍足利義材を追放して足利義澄を将軍に擁立(明応の政変)。以後、将軍家が分裂して畿内はもとより全国の政情は不安定になるが、畿内はおおむね細川家の勢力下に置かれる。

政元から2代目の細川晴元に仕えていた三好長慶は、天文18年(1549)、不甲斐ない晴元らの軍と戦って撃破した。これを受けて、13代将軍義輝も近江(滋賀県)に退却したので、長慶は摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)の国主になるとともに、京都を軍事的に占領。畿内最大の実力者になった。

三好長慶像
三好長慶像(画像=大徳寺・聚光院蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

摂津国五百住(大阪府高槻市)の百姓の出である可能性が高い松永久秀は、実務に加えて軍事的な才もあって頭角を現す。長慶の京都占拠後は、訴訟を長慶に取り次ぐほか、家臣に軍役を賦課するための情報管理まで、三好家の万事を取り仕切る存在として、家臣団のなかでも筆頭の地位を得るようになった。

■「出自不明」からの大出世

三好政権は将軍義輝を公然と非難し、足利将軍家に頼らず京都を支配した。細川氏をはじめそれまでの実力者が、将軍を必ず擁立していたのにくらべて画期的だった。そんな政権で、たとえば近江の六角氏に、義輝を見限って三好につくように誘いかけるなど、大名間外交を担ったのは松永久秀だった。対幕府、対朝廷の重要案件も久秀が裁いた。

その結果、久秀は破格の出世を遂げていく。永禄2年(1559)12月、三好氏との友好関係を模索する将軍義輝は、まず長慶の嫡男の孫次郎に「義」の偏諱を授与(義長となり、のちに義興と名乗った)。続いて、永禄3年(1560)2月には、義長と久秀がそろって、将軍の直臣格である御供衆に加えられた。

さらに永禄4年(1562)には、義長と久秀がともに従四位下に任ぜられたが、この位階は、久秀の主君の三好長吉や将軍義輝と同格である。そのうえ、長慶と義長の親子ばかりか久秀までが、義輝から桐紋を拝領した。のちに織田信長や豊臣秀吉も、天下人になった証明として拝領した桐紋を、元来は三好家の家臣にすぎない久秀が授けられたのである。

天野忠幸氏はこう書いている。「久秀は朝廷と幕府の双方から、主君と同等の待遇を受けたことが、極めて異例なのである。久秀にみる下剋上の特徴とは、主君をないがしろにしたり、傀儡化したりすることではない。(中略)特筆すべきは、将軍を頂点とする家格秩序が存在し、全国の戦国大名がそれに服している中で、出自がほとんどわからない身分から、自分一代で主家と同格、さらには将軍一門にも准ずる地位を、朝廷からも幕府からも公認されたことなのだ」(『松永久秀と下剋上』平凡社)。

■奈良に築いた城と安土城のまさかの共通点

このころ、久秀は大和(奈良県)に侵攻した。これまで、この久秀の行動は、個人的な野心だと説明されることが多かったが、現在では、あくまでの三好家の戦略で、久秀はそれに従ったと解釈されている。

大和を制圧すると、久秀は永禄2年(1561)11月、信貴山城(奈良県平郡町)に入城。翌永禄4年(1563)には、奈良の北端の佐保丘陵に多聞山城を築く。奈良の町および奈良盆地全体を一望できるこの場所へは、これ以前もこれ以後も、興福寺への遠慮から城は築かれていない。その意味で画期的な城には、ほかにも画期的な面が多々あった。

『多聞院日記』などによれば、「四階ヤクラ」がそびえたという。織田信長が安土城を築く13年前に、4階建ての天守が出現していた可能性がある。城内を見学した宣教師ルイス・デ・アルメイダの報告によれば、山を切り崩した平地に多くの塔や堡塁が築かれ、家臣団が集住し、家臣の屋敷は豪華で、ヨーロッパ風の上階や蔵をともなっていた。また、城の建造物は白壁に黒瓦が葺かれ、廊下には日本と中国の歴史物語が描かれ、柱は塗金され、彫刻が施されていたという。

こうした内容はルイス・フロイスや公家の吉田兼右らの記述とも一致する。また、久秀が家臣に伝えた書状からは、調度品を制作するために、金属加工に携わる太阿弥や室町幕府の御用絵師の狩野氏を、多聞山城に派遣したことがわかる。

じつは、信長の安土城も、たとえば天守の内部に「日本と中国の歴史物語」が描かれ、柱は塗金され彫刻も施されていたと、『信長公記』などに記されている。それに、信長はのちに多聞山城の櫓を安土城に移築するように命じ、同じ太阿弥と狩野氏を安土城の装飾のために動員した。安土城は広壮な普請と絢爛豪華な建造物で、訪れた人を威圧するが、そのモデルは多聞山城にあったかもしれないのである。

松永久秀ゆかりの信貴山の南側山腹には、毘沙門天を持つる朝護孫子寺がある。
撮影=プレジデントオンライン編集部
松永久秀ゆかりの信貴山の南側山腹には、毘沙門天を持つる朝護孫子寺がある。阪神タイガースの選手やファンが必勝祈願に訪れる地としても知られる。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■実は「将軍・義輝殺害」には関わっていない

朝廷からも幕府からも異例の厚遇を受け、画期的な城を築いた松永久秀。紙数もかぎられるから、ここからはその「冤罪」を晴らしたい。

永禄6年(1563)、三好長慶の嫡男、義直改め義興が病没し、のちに、久秀が毒を盛ったという風聞が生じた。だが、同時代の史料には、久秀は義興をずっと後見し、その死を嘆き悲しんだという記述しかない。

養子の三好義継が長慶の後継になると、永禄7年(1564)5月、長慶は次弟の安宅冬康を殺害した。その原因は、松永久秀が讒言したためだという風聞もあるが、現在では、だれかが冬康を擁立する可能性を消して、義継の後継としての地位を盤石にするためだったと解釈されている。

それから間もない永禄7年7月4日、長慶が死去すると、翌永禄8年(1565)5月18日、義継は1万余りの軍勢を率いて上洛。翌日、将軍義輝の御所を攻撃して、義輝のほか弟や母、側室とその父、それに奉公衆らを討ち取った。

これに久秀も参加したかのようにいわれてきたが、久秀は永禄6年(1563)末、家督を嫡男の久通に譲っていた。このため、三好義継の軍に加わったのは久通であり、久秀はこのとき京都にすらいなかったのである。

■なぜ主君・信長を2度も裏切ったのか

その後、三好家が劣勢になって反三好勢力が活気づくと、いわゆる三好三人衆が久秀を排除。それからは三人衆との抗争が激化し、永禄10年(1567)4月、三人衆は奈良周辺に布陣した。そのまま抗争は続き、10月10日に久秀は、東大寺に陣を張る三人衆を夜討ちしたが、このとき火が広がって大仏殿に延焼したとされる。

冒頭で述べたように、これは久秀の所業のようにいわれてきたが、じつは、三好三人衆が火をつけたとする史料のほうが多い。「大仏炎上は、久秀梟雄説の証拠として挙げられることが多いが、実際は両軍の戦闘により起こった不慮の事故に過ぎず、しかも放火は当時の一般的な戦闘行為の一環に過ぎなかった」と、前出の天野氏は書く(前掲書)。

それからは隠居の身ながら再度立ち上がり、足利義昭や信長の上洛に尽力。大和一国を安堵され、功労者として幕府の有力な構成員になる。だが、義昭と信長が決別すると、久秀は義昭方につき、天正元年(1573)12月、織田軍に多聞山城を包囲され、城を差し出して降伏している。

こうして信長の家臣になったが、歯車が狂う。信長は久秀の宿敵であった筒井順慶に大和の支配を委ねたが、久秀はそれに耐えられなかったようだ。そのうえ、手塩にかけた多聞山城を、自身の手で解体するように命じられたことも苦痛だったに違いない。将軍義昭の上洛作戦に呼応して信長に離反し、息子の久通とともに信貴山城に籠城。天正5年(1577)10月10日、父子は腹を切って果てた。

戦国最大の梟雄は、じつはかなりの忠臣だった。だが、能力があるために破格の出世を遂げ、常識を超えた城を築き、それが非常識に映ったばかりに、梟雄と恐れられ、さまざまな風聞を生むことになった。リアルな松永久秀は、梟雄としてよりもむしろ才能あふれる時代の先駆者として、見直す価値がある。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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