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「どうか神様助けてください」「恐い恐い恐い」世界最悪の墜落事故「日航ジャンボ機」の乗客が遺した「妻への手紙」

プレジデントオンライン / 2024年8月11日 9時15分

天井のプレートが開いて酸素マスクが落ちてきた(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/no_limit_pictures

1985年8月12日、東京・羽田発大阪・伊丹行き日航機123便が群馬県御巣鷹山に墜落、乗員・乗客524人中520人が亡くなる大惨事が起きた。あれから39年がたち、新たな証言も出てきている。元産経新聞論説委員の木村良一さんの新著『日航・松尾ファイル 日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』(徳間書店)より、墜落直前の機内の様子についてお届けする――。

■「ドーン」という異常音

「ドーン」という異常音がして機体に衝撃が加わると、キャビン(客室)で「ウワッ」「キャッ」という悲鳴が上がった。

同時に濃い白い煙のようなものが発生し、乗客の多くは耳が詰まるような違和感を強く感じた。客室の気圧低下を警告する高度警報装置が鳴り出し、天井のプレートが開いて酸素マスクが落ちてきた。

機体の揺れでいくつものマスクが空中を跳ねた。マスクを引っ張ると、酸素が流れ出す。白い煙のようなものは数秒で消えた。

客室乗務員が「酸素マスクを着けてください」と乗客に求める声がコックピット・ボイス・レコーダー(CVR)に録音されている。乗客が機内を撮影し、後に遺族が公開した写真にも酸素マスクの下りた様子が写っている。

コックピットでは懸命な操縦が続いていた。

■乗客は遺書を綴った

乗客たちは急いで酸素マスクを着けたが、機体が大きく左右に揺れるたびに悲鳴を上げた。赤ちゃんの泣き声がする。揺れに気持ち悪くなって嘔吐する人がいる。墜落という恐怖と不安に耐え切れず、泣き出す男性もいる。

客室乗務員が「大丈夫です。大丈夫ですよ」と励ます。乗客同士でも励まし合ったり、助け合ったりしてみんなでがんばる。

そんな状況下、乗客たちは手帳やノート、封筒、手元にあった紙に妻や子供たち家族に向けた言葉を綴った。

死を覚悟した遺書である。

事故後、墜落現場からそれらの遺書が見つかると、遺族のもとに届けられ、新聞やテレビで報じられた。

この後に遺書をいくつか列挙するが、読みやすくするために分かりにくいところは多少整えてある。名前や年齢は伏せた。

■「どうか神様 助けてください」

〈どうか仲良く がんばって ママを助けてください パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分からない いま5分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 助けてください 何か機内で爆発したような形で 煙が出てきて 降下し出した さようなら 子供たちのことをよろしく頼む いま6時半だ 飛行機は 回りながら 急速に降下中だ〉

〈恐い 恐い 恐い 助けて 気持ちが悪い 死にたくない〉

〈突然 ドカンといってマスクがおりた ドカンといって降下しはじめる〉

〈機体が大きく左右に揺れている 18・30急に降下中 水平ヒコーしている みんな元気で暮らしてください さようなら 18・45機体は水平で安定して 酸素が少ない 気分が悪い 機内よりがんばろうの声がする 機体がどうなったのかわからない 18・46着陸が心配だ スチュワーデスは冷静だ〉

緊急アナウンス用のメモ書きも見つかっている
写真=iStock.com/rai
緊急アナウンス用のメモ書きも見つかっている(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/rai

■「おちついていて下さい」

アシスタント・パーサー(チーフパーサー、パーサーに次ぐ職位の客室乗務員)の1人が不時着を想定して書いた緊急アナウンス用のメモ書きも見つかっている。

〈おちついていて下さい ベルトをはずし 身のまわりを用意して下さい 荷物は持たない 指示に従って下さい PAX(乗客、passenger)への第一声 各DOORの使用可否 機外の火災CK(チェック) CREW(乗員)のチェック ベルトを外して ハイヒール 荷物は持たないで 前の人2列 ジャンプして 機体から離れて下さい ハイヒールを脱いで下さい 荷物を持たないで下さい 年寄りや体の不自由な人に手を貸して下さい 火災 姿勢を低くしてタオルで口と鼻を覆って下さい 前の人に続いてあっちへ移動して下さい〉

■「なんだこれ…」

再び、コックピット・ボイス・レコーダー(CVR)とデジタル・フライト・データ・レコーダー(DFDR)の解析記録をのぞいてみよう。

午後6時28分35秒の機長の「アンコントロール(操縦不能)」という発声。その13秒後に副操縦士が「ライトターン ディセンド(降下する)」と告げる。

29分00秒
 機長「気合を入れろ」
 副操縦士「はい」
29分05秒
 機長「ストール(失速)するぞ。本当に」
 副操縦士「はい。気を付けてやります」
29分59秒
 機長「なんだこれ……」

■「できない。羽田に戻りたい」

日航123便(JA8119号機)は、焼津市の北付近を通過する。

31分02秒 東京ACC(埼玉県所沢市の東京航空交通管制部)「降下できますか」
31分07秒 機長「了解。現在降下中」
31分08秒 東京ACC「オーライ。現在の高度をどうぞ」
31分11秒 機長「240(2万4000フィート、7315メートル)」
31分14秒 東京ACC「オーライ。現在位置は名古屋空港へ72マイル(133キロ)。名古屋空港へ着陸できますか」
31分21秒 機長「できない。羽田に戻りたい」
31分26秒 東京ACC「オーライ。これからは日本語で話していただいて結構ですから」
「できない。羽田に戻りたい」
写真=iStock.com/hikarum
「できない。羽田に戻りたい」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/hikarum

航空機のクルーと管制官とのやり取りは通常、専門的な用語や慣用句を交えた英語で行われるが、東京ACCは深刻な事態だと考え、より分かりやすい日本語でのやり取りに切り替えたのである。それだけ事態は逼迫していた。

31分31秒 機長「はい、はい」

■「R5ドア」に異常はなかった

35分過ぎ、日航123便はカンパニー無線(社用無線)を使って日本航空のオペレーションセンター(通称・オペセン)に「R5ドア ブロークン(機体の右側最後部のドアが壊れた)。機内の気圧が下がっている。緊急降下中です」と連絡している。

事故直後、この「R5ドア ブロークン」の声を根拠に「右側最後部のドアが吹き飛んで垂直尾翼にぶつかり、垂直尾翼を破壊して操縦不能になった可能性がある」と報じる新聞社もあった。

しかし、墜落直後の航空事故調査委員会の事故現場検証によってこのR5ドアに異常がなかったことがすぐに判明する。

■助かったのは女性4人だけ

操縦不能の日航123便の機体は東京国際空港(羽田)に戻れず、富士山の西側を飛んで山梨県大月市上空を右回りに360度旋回して山間の東京都西多摩郡奥多摩町に向かった後、群馬、長野、埼玉の3県にまたがる三国山から北北西1.4キロの地点で数本の樹木をなぎ倒し、そこから西北西に520メートル離れた稜線に接触した。

さらに機体はバラバラになりながら北西に570メートル飛行し、機首と右主翼を下に向けた姿勢で御巣鷹の尾根(1565メートル)に衝突し、そこに墜落した。

山肌を焦がし散乱する日航ジャンボ機の主翼部分
写真=共同通信社
助かったのは女性4人だけだった(山肌を焦がし散乱する日航ジャンボ機の主翼部分、1985年8月13日) - 写真=共同通信社

墜落した御巣鷹の尾根は高木のカラマツが林立し、その下はクマザサが厚く覆っていた。土砂崩れや落石が多く、登山道などなかった。

524人の乗員・乗客のうち520人(乗員15人、乗客505人)が亡くなった。助かったのはわずか乗客の女性4人だけだった。

■企業のトップクラスや著名人も乗っていた

亡くなった乗客は当初、お盆休み前日だけに家族連れやレジャー客が多いと思われたが、後に新聞社やテレビ局が乗客名簿を整理すると、会社の経営者や社長、それに役員、部課長ら企業のトップクラスが150人以上もいることが判明した。企業の種類は銀行、証券、商社、建設業……と多岐にわたっていた。東京と大阪500キロ間をわずか1時間で結ぶ利便性が、彼ら企業戦士に空の便を選択させていたのである。

著名人も乗っていた。歌手の坂本九(43)=本名・大島九、阪神タイガース球団社長で阪神電鉄専務の中埜肇(なかのはじむ)(63)、グリコ・森永事件で脅迫を受けたハウス食品工業社長の浦上郁夫(48)、大相撲伊勢ケ浜親方(元大関清国)の妻(39)と長男(12)、長女(10)の3人、日本を代表する脳神経学者の大阪大学基礎工学部教授、塚原仲晃(51)らだ。

( )内の年齢はすべて当時のものである。

線香を手向け合掌する自衛隊員
写真提供=産経新聞
線香を手向け合掌する自衛隊員 - 写真提供=産経新聞

■エンジンは4基とも正常

「ドーン」という異常音から墜落までの32分間に機体の高度を下げながら少なくとも4回、「操縦不能(アンコントロール)」と管制に連絡している。

それでもコックピットの機長、副操縦士、航空機関士は必死に機体を立て直して羽田空港に戻ろうとがんばった。乗客乗員524人の命が掛かっていた。墜落直前のコックピット内の様子はまさに地獄絵そのものだった。

55分27秒 機長「頭上げろ」
55分34秒 副操縦士「ずっと前から支えてます」
55分42秒 副操縦士「パワー(エンジン出力を上げろ)」

エンジンは4基ともすべて正常に機能していた。

55分43秒 機長「フラップ(高揚力措置の下げ翼)止めるな」

電気モーターがバックアップしているフラップは、油圧システムを喪失しても多少は作動した。

55分43秒 東京APC(羽田空港進入管制所)「現在位置はレーダーで50、いや60マイル、羽田の北西。北せ……、あー、50ノーティカルマイル羽田の北西」

ノーティカルマイルとは海上で使われるカイリ(海里)のことで、航空の世界でマイルといえばこのノーティカルマイルを指す。1ノーティカルマイル=1カイリ=1.852キロの計算となる。

■「頭上げろ、頭上げろ、パワー」

55分47秒
 機長「パワー。フラップ。みんなでくっ付いちゃダメだ」
55分49秒
 副操縦士「フラップアップ、フラップアップ、フラップアップ、フラップアップ」
55分51秒
 機長「フラップアップ」
 副操縦士「はい」
55分56秒
 機長「パワー」
56分04秒
 機長「頭上げろ、頭上げろ、パワー」
56分07秒
 機長「頭上げろ」。
「頭上げろ、頭上げろ、パワー」
写真=iStock.com/ViktorCap
「頭上げろ、頭上げろ、パワー」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/ViktorCap

緊張度は最高のレベル9に達している。

機体の高度が急激に下がり始め、速度アップと右急旋回で垂直方向加速度が急増し、機首下げ36度、右横揺れ角70度の異常がDFDRに記録されている。

56分10秒 機長「パワー」
56分11秒 降下率が毎分1万8000フィート(5486メートル)に達する。
56分12秒 火災警報音。
56分14秒 GPWS(Ground Proximity Warning System、対地接近警報装置)の警報「シンクレイト(sinkrate、降下率注意)……。ウーウー、プルアップ(機首を上げろ)。ウーウー、プルアップ。ウーウー、プルアップ」
56分18秒 パワーが最大まで上がり、降下が止まる。垂直加速度は上向き3Gほど続く。
56分23秒 激しい衝撃音。GPWSの警報「ウーウー、プルアップ」
56分26秒 激しい衝撃音。
56分27秒 DFDRの記録終了。
56分26秒〜27秒92にかけ、飛行状況を表す各種データに異常な変化が記録されている。
56分28秒 CVRの録音終了。

■シミュレーションでは羽田空港の近くまで戻ることができた

ところで、墜落事故翌年(1986年)の3月、運輸省航空事故調査委員会は全日空に頼んで、日航123便と同じように4基のエンジン以外操作できなくなる状態を全日空のフライト・シミュレーター(模擬飛行装置)に入力し、エンジンのパワーだけでどこまで機体をコントロールできるかを検証している。全日空と運輸省航空局のベテランのパイロットたちがシミュレーターを操縦した。

シミュレーターはパイロットの訓練に使う高度な機材で、実機と同じコックピット機能を装備し、コンピューターに飛行条件を入力することで実機のように動き、様々な飛行状態を再現できる。

検証の結果、着陸自体は不可能だったが、エンジンをふかしたり、絞ったりしながら羽田空港の近くまでは戻ることができた。ふかせば、機首は上を向き、反対に絞れば機首は下がる。

右翼と左翼のエンジンの出力を互い違いに変えることで方向転換もできた。

日航123便の機長も墜落直前に「パワー」という言葉を何度も繰り返している。エンジン出力の調整で機体を操縦できることが次第に分かってきたのだ。

このことにもう少し早い段階で気付いていたら「着陸は無理でも、羽田空港近くの浅瀬になんとか着水できたかもしれない。そうすれば520人も犠牲にならずに済んだ可能性もある」と指摘する声もある。

■「山の陰から白煙と閃光が上がった」

しかし、シミュレーターと違い、日航123便の機長や副操縦士、航空機関士ら乗員は、垂直尾翼が吹き飛ばされると同時に4系統すべての油圧システムが破壊された結果、過酷な状況に追い込まれていった。

この操縦不能の原因を少しでも知ることができたら、多少は落ち着くこともでき、緊急事態からの脱出方法をなんとか見つけ出すことができたかもしれないが、現実は操縦不能の原因を知る術(すべ)などほとんどなかった。

木村良一『日航・松尾ファイル 日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』(徳間書店)
木村良一『日航・松尾ファイル 日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』(徳間書店)

墜落してもケガ1つ負わないシミュレーターの操作と死と隣り合わせの事故機の操縦とは大きく違うのである。

事故調の事故調査報告書(本文83〜86ページ)もこの点について「今回の事故においては、事故機のクルーは減圧とそれに伴う酸素不足、予想もしなかった異常事態下の心理的圧迫というような厳しい状況のもとで飛行したとみられるが、このような状況は飛行シミュレーションでは模擬できない」と書いている。

墜落直前の様子を墜落した御巣鷹の尾根から南南西に3〜4キロのところで、偶然4人が目撃していた。

「奥多摩の方からかなり低い高度と速度で機首をやや上げ、爆音を立てながら飛んで来て頭上を通過した」
「扇平山の付近で急に右に針路を変え、三国山の方向に飛行した」
「三国山を越えたと思われるときに突然、左に傾いて急降下して山の陰で見えなくなった」
「その後、山の陰から白煙と閃光が上がった」

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木村 良一(きむら・りょういち)
元産経新聞論説委員・編集委員
1956年10月18日生まれ。慶應義塾大学卒。慶大新聞研究所修了。ジャーナリスト・作家。日本医学ジャーナリスト協会理事。日本記者クラブ会員。日本臓器移植ネットワーク倫理委員会委員。三田文学会会員。元産経新聞論説委員・編集委員。元慶大非常勤講師。産経新聞社には1983年に入社。社会部記者として警視庁、運輸省、国税庁、厚生省を担当し、主にリクルート事件、金丸脱税事件、薬害エイズ事件、脳死移植問題、感染症問題を取材した。航空事故の取材は運輸省記者クラブ詰め時代(89年~91年)に経験し、日航ジャンボ機墜落事故の刑事処理(不起訴処分)などを取材した。社会部次長(デスク)、編集委員などを経て社説やコラムを書く論説委員を10年間担当し、18年10月に退社してフリーとなる。02年7月にファルマシア医学記事賞を、06年9月にファイザー医学記事賞を受賞している。著書に『移植医療を築いた二人の男』(02年、産経新聞社)、『臓器漂流』(08年、ポプラ社)、『パンデミック・フルー襲来』(09年、扶桑社新書)、『新型コロナウイルス』(20年、扶桑社)などがある。

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(元産経新聞論説委員・編集委員 木村 良一)

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