JALはなぜボーイング社を訴えられなかったのか…「日航ジャンボ機墜落事故」を闇に葬った中曾根政権の圧力
プレジデントオンライン / 2024年8月13日 9時15分
■「日航が修理ミスを見逃した」新聞・テレビが批判
ボーイング社の修理ミスによって墜落事故が起きたことが明らかになると、新聞、テレビなどの報道は「日航がボーイング社の修理ミスを見逃し、見落とした」「修理ミスは日航の領収検査や定期点検で発見できたはず」と日本航空を批判し、責め立てた。
世論もその方向になびいた。群馬県警や検察庁も同様な観点から捜査に力を入れ、業務上過失致死傷罪という日航の刑事責任を立件しようと動いた。
墜落事故から4カ月後の1985年12月7日に発足した遺族による「8・12連絡会」も、翌年の4月から8月にかけて5回、日航とボーイング社、運輸省の幹部ら計12人の告訴・告発を行うなど活発な活動を繰り返していた。
もちろん、航空会社には乗客を安全に目的地まで運ぶ運航責務がある。航空法などもそう規定している。
■「ボーイング社の修理ミス」が事故の原因
だが、しかし、日航ジャンボ機墜落事故は航空機メーカーであるボーイング社の犯した修理ミスに起因する。日航がパイロットの操縦ミスや天候判断の誤り、整備不良から起こした事故ではない。
しりもち事故の修理に当たり、日航はボーイング社を高く信頼し、損傷した機体の修理をすべて任せるという委託契約を結んだ。日航は立ち会いの領収検査の際に整備士や検査員に「作業エリアに近寄り過ぎてボーイングのAOGチームの邪魔をしてはならない」という指示まで出していた。
■日航はボーイング社を特別扱いしていた
日航はボーイング社を特別扱いした。整備部門には「ボーイングは神様だ」と高く評価する声まであった。それだけボーイング社を信用し、頼りにしていたわけだった。
しかし、厳しい見方をすれば日航の妄信だった。
修理ミスさえなければ、JA8119号機は正常な機体に整備されて日航の手もとに戻り、その後、不具合(調子や状態の良くないこと)や故障が見つかったとしてもさらなる整備・修理によって安全飛行を重ねることができるはずだった。
航空機は地上に降りるまで、あるいは次の定期点検まで、安全運航が可能なように設計されている。これがフェイル・セーフ(多重安全構造)とリダンダンシー(冗長性、余剰安全装備)による安全性の担保である。
しかし、後部圧力隔壁の修理で中継ぎ板を2枚に切断し、それぞれ接続部に差し込んでリベットで留めるという強度を軽視したボーイング社の作業によって隔壁のフェイル・セーフもハイドロ・システム(油圧装置)のリダンダンシーも役に立たなくなった。
結果的に安全運航を無視したことになる。
■ボーイング社とアメリカ政府にものを言うべきだった
日航や運輸省、事故調、群馬県警、検察庁、それに日本政府はもっとボーイング社とアメリカ政府に対し、ものを言うべきだったのではないか。
墜落事故から3カ月後の11月初旬のことである。
木枯らしが吹き始めていた。大手町など東京駅周辺のビジネス街でも、街路樹の黄色く染まったイチョウの葉がビルの谷間の路面に落ち、赤や茶に紅葉した他の落ち葉といっしょに強い風に吹かれて高く舞っていた。
日差しが雲に隠れると、寒かった。近くのビルの飲食店街まで昼休みで食事に出た帰りなのだろう。
上着の襟を立てたサラリーマンやカーディガンを羽織ったOLの姿が多く見られた。
この日、東京駅前の東京ビルヂング(旧丸ビル)の日本航空本社で行われた役員会議の後、松尾芳郎(事故当時、日航取締役の整備本部副本部長で、日航社内で事故原因の調査を担当した最高責任者)は社長室に立ち寄り、社長の高木養根(たかぎやすもと)に面会している。
■「ボーイングを訴えましょう」
役員室や社長室は最上階の8階にあった。眼下で街路樹が木枯らしに揺れているのが、窓越しに見える。
向こうの灰色のビルの屋上では、いくつもの落ち葉が小さな竜巻に飲まれたかのようにグルグルと回っていた。
お茶を運んできた女性秘書が出ていった。社長室にいるのは松尾と高木の2人だけだった。最初、松尾は高木の大きな机の前に立って話していたが、高木にソファーに座るよう勧められ、そこに腰を下ろした。
応接セットのテーブルの上には2つの湯呑み茶碗のほか、ガラスの灰皿と煙草を入れた木製のケースが載っていた。
松尾は日航の自分の事故調査で新たに判明したことを報告した後、少し大きな声で「ボーイングを訴えましょう」と進言した。思い切った発言だった。
■ボーイング社に非があることは十分に理解していた
しかし……、松尾のその進言を聞いた高木は黙ってうなずくだけだった。聞き置くといった感じだった。
うなずいた後、高木は煙草に火を点けて一度煙を深く吸い込み、そして紫煙をくゆらせながら天井をじっと見ていた。
松尾は後になって「もう少し強くお願いすべきだった。担当の専務や上の役員たちにも具申すべきだったかもしれない」と反省したが、松尾の進言を否定せずに聞き置いた高木は、松尾と同じ思いを持っていたのだろう。
松尾を信頼して墜落事故の原因調査を任せた高木だ。
これまでの松尾の報告からボーイング社に非があることは十分に理解していたはずである。
高木には自分の信じる道を貫こうとする強い信念があった。寡黙だが、しっかりとした考えの持ち主で日航社内での評価は高かった。
戦後日本の航空業界のなかで半官半民の日航を世界的な航空会社に育て上げてきた1人だ。歴代の日航社長のなかで初めて社内から社長に就いた人物である。
学生時代には治安維持法違反の罪に問われ、自ら京都帝国大学文学部哲学科を中退し、東京帝国大学法学部に入学し直すという苦労もしている。
松尾はそんな高木を尊敬していた。だから進言まで行ったのである。
■「日本とアメリカは運命共同体である」中曽根政権が成立していた
聞き置くだけの高木だったが、墜落事故の起きた年の12月18日に社長を辞した後も8月12日になると、御巣鷹の尾根への慰霊登山を繰り返していた。
墜落事故当時、1945(昭和20)年8月15日の太平洋戦争の終結から40年がたっていても、まだ日本はアメリカに完敗したという敗戦色が消えず、日米関係はアメリカ優位の状態が続いていた。
そんななか、政界で頭角を現し、勢いを増していた中曽根康弘が政権を握る。
1982(昭和57)年11月27日に第1次中曽根内閣を成立させると、中曽根はアメリカとの関係を重視し、日米関係を揺るぎないものにしようと考えて翌年すぐに渡米、日米首脳会談(1983年1月18日、19日)で「日本とアメリカは運命共同体である」と強調し、強固な日米関係を作り上げていく。
■史上初めての「ロン・ヤス関係」
このときの渡米で中曽根は大統領のロナルド・ウィルソン・レーガン(1911年2月6日〜2004年6月5日、享年93歳)と会食をする。
レーガンが「私をロンと呼んでくれ。あなたをヤスと呼びたい」と語り、それ以来、2人は「ロン」「ヤス」とファースト・ネームから取ったニックネームで呼び合うことになる。
首脳同士がニックネームで呼び合うなど日米の歴史のなかで初めてのことだった。
映画俳優を経てカリフォルニア州知事から第40代大統領に選ばれたレーガンは、大統領を1981年1月20日から1989年1月20日まで8年間、務めている。
「ロン・ヤス関係」は、良好な日米関係を象徴していた。
たとえば、レーガンは夫人の元女優、ナンシー(1921年7月6日〜2016年3月6日、享年94歳)をともなって1983年11月9日から12日にかけて国賓として日本を訪れている。この来日で奥多摩に近い中曽根の別荘「日の出山荘」(東京都西多摩郡日の出町)でロン・ヤス会談(11月11日)が開かれ、その席で中曽根はお茶を点ててレーガンとナンシーの2人をもてなした。
■ボーイング社を提訴すれば日米関係にひびが入る
「ロン・ヤス関係」が出来上がった後、1985(昭和60)年8月12日に日航ジャンボ機墜落事故が起きる。
日本航空がアメリカを代表する企業であるボーイング社を提訴すれば、中曽根政権が築いた日米関係に大きなひびが入る。
中曽根はレーガンと強く結び付いていた。そんな中曽根政権下でボーイング社を相手に訴訟を起こすことなど到底不可能なことだった。
結局、日航はボーイング社を提訴することはなかった。
高木はアメリカとの外交上、日本が不利益にならないように中曽根政権から求められていたのかもしれない。
あるいは高木自身が日本の将来をおもんばかったのかもしれない。
墜落事故から2日後の8月14日午後、高木は首相官邸に中曽根を訪ね、事故の謝罪と辞任の意向を伝えている。
そして12月18日に社長を辞任し、相談役に退いた。
■「日航の民営化」を推し進めていた
中曽根政権は一連の行政改革のなかで、日航の民営化を推し進めていた。墜落事故が起きる1カ月前の7月には、総務庁の初代事務次官、山地進(1925年5月12日〜2005年5月27日、享年80歳)を常勤顧問に送り込んでいた。
日航では8月12日の墜落事故当日、日航123便(JA8119号機)が御巣鷹の尾根に墜落する数時間前に経営会議が開かれ、社長の高木をはじめとする役員たちが完全民営化の方針を決定している。
事故後の12月18日に高木が社長を退くと、中曽根は自分が気に入っていた鐘紡(カネボウ)社長の伊藤淳二を社長に推した。
しかし、人事が混乱するなどうまくいかず、伊藤を会長に据え、社長には山地を起用した。この伊藤・山地体制で日航は1987(昭和62)年11月に完全に民営化される。
中曽根は日航社内で人望のあった、初の生え抜き社長の高木を墜落事故の責任を取らせる形で辞任させ、高木に従う役員も辞めさせるなど日航という半官半民の会社をうまく掌握しながら完全民営化を推し進め、それを成し遂げた。
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元産経新聞論説委員・編集委員
1956年10月18日生まれ。慶應義塾大学卒。慶大新聞研究所修了。ジャーナリスト・作家。日本医学ジャーナリスト協会理事。日本記者クラブ会員。日本臓器移植ネットワーク倫理委員会委員。三田文学会会員。元産経新聞論説委員・編集委員。元慶大非常勤講師。産経新聞社には1983年に入社。社会部記者として警視庁、運輸省、国税庁、厚生省を担当し、主にリクルート事件、金丸脱税事件、薬害エイズ事件、脳死移植問題、感染症問題を取材した。航空事故の取材は運輸省記者クラブ詰め時代(89年~91年)に経験し、日航ジャンボ機墜落事故の刑事処理(不起訴処分)などを取材した。社会部次長(デスク)、編集委員などを経て社説やコラムを書く論説委員を10年間担当し、18年10月に退社してフリーとなる。02年7月にファルマシア医学記事賞を、06年9月にファイザー医学記事賞を受賞している。著書に『移植医療を築いた二人の男』(02年、産経新聞社)、『臓器漂流』(08年、ポプラ社)、『パンデミック・フルー襲来』(09年、扶桑社新書)、『新型コロナウイルス』(20年、扶桑社)などがある。
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(元産経新聞論説委員・編集委員 木村 良一)
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