「なぜ国宝・松山城の天守は3重なのか」に答えがある…難攻不落の城で土砂崩れが発生した根本原因
プレジデントオンライン / 2024年7月27日 8時15分
■城が築かれるのは「地盤が堅牢な場所」とは限らない
7月12日、松山城(愛媛県松山市)の「城山(勝山)」で土砂崩れが発生し、住宅3棟が全壊したほか、13棟が一部損壊。直撃された住宅に住んでいた3人が亡くなった。松山市では10日から2日間で、平年の7月1カ月分に相当する213ミリの雨が降っていた。
現場一帯は以前から、土砂災害警戒区域に指定されていた。風化して表面がやわらなくなった土壌が大量の雨を吸収して重くなり、表層崩壊、すなわち、硬い岩盤上の表面の土が滑り落ちる現象が起きたようだ。
テレビのニュースやワイドショーなどでは、この災害が「松山城の近くで発生」と報じるケースが目立ったが、「近く」ではない。まさに松山城内で災害が発生したのである。
ちなみに、私は7月15日から松山城の取材旅行に出掛ける予定だったので、亡くなった方にくらべれば小さなダメージではあるが、困り果てた。もうキャンセルできないので松山には出向いたが、当然、城内へ立ち入ることはできない。営業再開までには1カ月程度かかるようで、閑散としているふもとの商店街は悲鳴を上げていた。
ところで、ワイドショーでコメンテーターが、「城は地盤が堅牢な場所を選んで築いているはずなのに」と発言していたが、城を築く際に考慮されるのは、戦略上の、あるいは領土を治めるうえでの要地であるかどうかであって、地盤ではない。そのことを踏まえたうえで、最初に松山城の特徴と魅力について確認しておきたい。
■姫路城に次ぐ、壮観な建造物群
松山平野の中央に松山城はある。標高132メートルの勝山山頂に本丸があり、そこが城郭としての中枢に当たるが、山麓に展開する二の丸と三の丸が政務の中心だった。山頂部には天守を中心に、多くの櫓や門が建ち並んでいたが、往時のその景観は、紆余曲折を得ながらも、今日まで良好に伝えられている。
明治6年(1873)のいわゆる「廃城令」で松山城は廃城となり、大蔵省の所管になった。廃城になった城の多くで建造物等が競売にかけられ、かつての景観が短期間で失われたのに対し、松山城は本丸と二の丸が大蔵省から愛媛県に払い下げられ、その後、県が一括管理したため、多くの建造物が残された。
だが、昭和8年(1933)には放火で、本丸でもひときわ高い本壇(天守曲輪)に建つ連立天守群が、大天守を除いて焼失。その後、大天守をふくむ35棟が旧国宝に指定されたが、太平洋戦争の空襲でそのうち11棟が焼け落ちた。
それでも大天守は焼失を免れ、昭和43年(1968)以降、焼失した建造物も木造で次々と再建された。現在、重要文化財21棟をふくむ51棟が建ち並び、江戸時代に近い景観を目にすることができる。これだけ建造物が連なっている城は、世界遺産の姫路城を除けばほかにない。
また、山麓の二の丸も、多門櫓や門が再建されているほか庭園が整い、かつての御殿の間取りも植栽等で示されるなど、整備が行き届いている。
![松山城天守](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/3/1200wm/img_339523df3b0b5dec4b5d50f1dbcd74da392159.jpg)
■なぜ5重だった天守は3重に改築されたのか
築城に着手したのは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功により、伊予(愛媛県)20万石をあたえられた加藤喜明で、約25年をかけて工事を進めたが、完成する直前に陸奥国会津(福島県西部)に移封になってしまった。
その後、寛永4年(1627)に蒲生忠知が入ったが、7年後に急死して蒲生家は断絶。寛永12年(1635)に徳川家康の甥である松平定行が15万石で入封し、以後、幕末まで15代にわたり、久松松平家が城主を務めた。
加藤喜明がいつ天守を建てたのか、正確なところは不明だが、慶長10年(1605)ごろには、すでに建っていたともいわれる。ところが、寛永16年(1639)に松平定行は、5重だった天守を3重に改築したと伝えられている。
ただし、この3重天守は天明4年(1784)、落雷を受けて焼失してしまった。残されているのは嘉永5年(1852)に再建されたもので、全国に現存する12の天守のなかではいちばんあたらしいが、外装などは創建時の意匠が踏襲されているという。
さて、5重の天守を構えることができたのは、将軍家とその縁戚など、原則として特別な大名にかぎられた。このため、松平定行が幕府に遠慮するあまり、3重に改築したという説があるが、別の説も伝えられる。築城工事がはじまる前、山頂部には谷や池があったというのである。
■谷や池を埋めて整地された
太鼓門をくぐると、北西に向かって細長い平坦地が開け、150メートルほど先に天守が見える。そして太鼓門の北側に井戸があるが、なんの変哲もないように見えるこの井戸は、深さが44.2メートルもある。伝えられているのはこういう話だ。
この場所は、加藤喜明が築城工事をはじめた時点では深い谷で、それを埋め立てて平担地を創出したのだが、この井戸は谷に掘られた浅い井戸を、谷を埋めながら残したもの。だからこれほど深いのだ、と。
![松山城本丸の井戸](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/8/1200wm/img_a882df5ed909bad6ba300014e27ce708781496.jpg)
この井戸の場所は天守からは100メートル以上離れているが、じつは、天守が建つ本壇も、かつて谷だった場所で地盤が弱いという説がある。したがって、5重の天守では倒壊する危険性があるので、3重に改築したというのだ。
いずれにせよ、壮大な石垣で囲まれた松山城の本丸は、複数の谷や池を埋めて整地された場所で、必ずしも地盤が堅固ではない、と考えられるのである。
■危険箇所があることは1年前からわかっていた
ところで、今回崩落したのは、天守が建つ本壇の東側、再建された艮門(うしとらもん)東続櫓のすぐ外側の斜面である。
ここは石垣の裾の部分に緊急車両道がとおされているが、昨年7月に大雨の影響で、この車両道の擁壁(ようへき)が傾いた。このため、応急処置として擁壁を撤去し、そのうえで工事のための準備が進められ、1年を経たこの7月、ようやく復旧工事がはじまった。そのタイミングで、まさに当該箇所が崩落してしまったのである。
それにしても、復旧工事をはじめるまでに、どうして1年もかかったのだろうか。端的にいえば、松山城は国指定史跡である。このため、工事をするためには、いちいち文化庁の許可が必要で、文化庁が指示する発掘調査を行うなど、さまざまな手続きが必要になる。どうしても時間がかかってしまう。
松山城の緊急車両道の場合、昨年9月に市議会で、車両道の復旧工事の補正予算案が可決。11月に、工事に向けた発掘調査を文化庁に申請し、12月中旬に文化庁から発掘調査の許可が下りた。それを受けて今年1月下旬、復旧工事を行う箇所に埋蔵文化財がないかどうかを調べる発掘調査が行われ、2月にその調査結果を市の審議会に報告。
文化庁に工事の申請が行われたのは4月で、5月17日に文化庁から工事の許可が下り、それを22日、松山市が受け取って、ようやく工事がはじめられることになった。
![土砂崩れが起きた現場付近の様子。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/2/0/1200wm/img_20b3c6022218ce27e620aa20d9b49b14649852.jpg)
■文化庁がすばやく工事を認められるかがカギ
文化庁とのやり取りとしては、これは通常のプロセスなのだそうだが、その結果が、事故につながってしまった。温暖化の影響等で、以前にくらべるとあきらかに異常気象が増えている。梅雨や台風、線状降水帯などによる豪雨の影響も、かつてとは桁が違う。
史跡である以上、工事を行う前には、事前にていねいな発掘調査を行うのは当然で、私自身、そうすべきだと考える。しかし、問題は時間のかけ方である。梅雨時の豪雨によって危険が生じたのであれば、ふたたび豪雨が予想される時期を迎える前に、工事を終えるのが当然だろう。梅雨によるダメージを修復する工事を、翌年の梅雨時に行うなど、言語道断である。
その結果、人命が失われてしまった。それに、史跡を守るための発掘調査に時間をかけているうちに、災害によって史跡が破壊されてしまったら、本末転倒もはなはだしい。
今年の7月は大雨の影響で、「日本三大平山城」のひとつに数えられる津山城(岡山県津山市)でも15日、二の丸の石垣が幅20~30メートル、高さ12~13メートルにわたって崩落した。同じ日には、鳥取城(鳥取県鳥取市)の三の丸御殿跡の法面(のりめん)も、一部が崩落している。津山城も鳥取城も国指定史跡である。
今後、異常気象によって、こうした事例は増えると思われる。少なくとも国指定史跡に関しては、いまのうちに危険な箇所がないか点検を急ぎ、工事が必要な箇所が見つかった場合、文化庁は許認可手続きを、これまでの何倍ものスピードで行う必要がある。史跡を守るために時間をかけた結果、史跡も人命も守れないのでは洒落にならない。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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