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ダーウィンと同時代に生きた「歴史上最も無視された科学者」が見つけた"アジア"と"オーストラリア"の境界線

プレジデントオンライン / 2024年8月4日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/joakimbkk

インドネシアのバリ島とロンボク島は隣り合った島にもかかわらず、生息する野生生物が大きく異なる。バリ島はアジア系で、ロンボク島はオーストラリア系だ。シカゴ・デポール大学の地理学講師であるマキシム・サムソンさんは「この違いに気づいたのが、ダーウィンと同時代に生きた自然科学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスだ。彼は歴史上最も無視された科学者とも言える」という――。

※本稿は、マキシム・サムソン著『世界は「見えない境界線」でできている』(かんき出版)の一部を再編集したものです。

■距離は近いのに大きく異なる「バリ島」と「ロンボク島」

この列島には厳密に区分された2種類の動物相が存在しているが、2つの違いは南アメリカとアフリカと同程度であり、またヨーロッパと北アメリカの動物相の違いよりはるかに大きい。それでも、これらの境界を示すものは地図上にも、現実の島々の表面にもいっさい記されていない。
――アルフレッド・ラッセル・ウォレス

インドネシアのバリ島とロンボク島の距離は、一番狭いところで35キロほどしかない。ところが、この西から東への短い旅が大陸をまたぐ旅行に思えることがある。

バリは美しいビーチや水田、火山を訪れる観光客で賑わっているのに対し、ロンボクはもっと静かで落ち着いており、開発もされていない。

ロンボクまで来ると、ヒンドゥー教に代わってイスラム教が盛んになり、寺院の代わりにモスクが、子豚の丸焼きの代わりに牛肉の串サテ焼きが多くなる。

特に鋭敏な旅行者は、バリ語とササク語の違いに気がつくかもしれない。新婚旅行客はバリを訪れ、冒険旅行を好む者はロンボクを選ぶことが多い。海はまったく同じに見えるだろうが、ほかの多くの部分で際立った対比が見られる。

【図表1】
出典=『世界は「見えない境界線」でできている』

■「歴史上最も無視された科学者」が出した答え

両島の野生生物を考慮に入れると、対比はさらに明確になる。バリ島の動物相はマングースやキツツキ、過去にはトラも生息した“アジア系”である。一方のロンボク島はヤマアラシ、タイハクオウム、トサカハゲミツスイなど“オーストラリア系”だ。

ホップ、ステップ、ジャンプで飛び越えられそうなロンボク海峡をはさんで、どうしてこれほど明らかな違いが生じるのだろう? こうした相違から、もっと広い世界について何を学べるだろう? ありがたいことに、歴史上最も無視された科学者が、それらの疑問に答えを与えてくれた。

街で通行人に、進化を発見したのは誰かと訊けば、まず間違いなくチャールズ・ダーウィンという答えが返ってくるだろう。

そういう人々は、ダーウィンがおおむねガラパゴス島での体験に基づいて理論を展開していたときに、そこから1万6000キロ離れた場所で、もっと若くて無名の自然学者が、ほぼ同様の結論を導き出していたことを知ったら驚くにちがいない。

■ダーウィンとは正反対の人物だった

変異に対する鋭い観察眼ではひけを取らなかったアルフレッド・ラッセル・ウォレスは、いくつかの点で自分より有名な同時代人ダーウィンとは正反対の人物だった。ダーウィンは裕福な一族に生まれ、エジンバラとケンブリッジ両方の大学で学問を修めたが、ウォレスのほうは14歳のときに父親が破産し、教育費をまかなえなくなったので学校を中退した。

アルフレッド・ラッセル・ウォレス
アルフレッド・ラッセル・ウォレス(写真=Maull & Fox photographers, London. Upload, stitch and restoration by Jebulon/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

ダーウィンは著名な奴隷廃止論者のジョサイア・ウエッジウッドとエラズマス・ダーウィンの孫であるにもかかわらず、なぜか生涯、政治的信念の表明には消極的だった。それに対してウォレスは、土地の国有化と女性の参政権を支持する記事を発表し、隠すことなく社会主義者を自称して、英国の自由貿易と軍国主義を批判した。

ウォレスはまた、13世紀のスコットランド独立運動の指導者ウィリアム・ウォレスの直系の子孫を名乗った。独立心旺盛で、研究活動の多くは独学で行い、その後彼が発見したことの一部は同じウィリアムという名の兄のもとで見習いをして学んだ測量の経験に基づいたものだった。

■マレー諸島における先駆的研究で知られている

まだ20代の頃、ウォレスは1848年から52年にかけて探検したアマゾンの熱帯雨林で貴重な経験を積んだ。この地でリオネグロの詳細かつ正確な地図を作成し、訪ねた場所や人々について大量の記録を残し、数千種にのぼる動物の標本を収集したが、帰りの船が火事になって沈没してしまい、そのほとんどを失った。それでも、マレー諸島における彼の先駆的研究は、今日(こんにち)でもよく知られている。

1854年から62年まで、この地域を広く旅したウォレスは、12万5000種を超える標本を収集した。おもに昆虫と鳥だが、なかにはアカエリトリバネアゲハ(ラジャ・ブルックス・バードウィング)やマレーのリーフウィング蝶(マラヤンリーフウィングカリマパラレクタ)、セレベスハナドリ、ラケットカワセミ、モルッカツカツクリなどが含まれる。

彼が“新しい”種と予想していた飛ぶカエルの記述は、「爪先の変異性は……泳ぎと粘着登攀(とうはん)のために調整された」という記述のおかげでダーウィン説信奉者の関心を集めると同時に、特に西洋の科学界で注目を浴びた。

彼はマレー諸島の動物相を綿密に調査することで、私たちの生物学と地理学の理解を決定的に変えてしまうパターンを確立しようとした。

■ウォレスが気付いた「目に見えない分かれ目」

科学者たちはすでに、種が地理的に変化することには気づいていたが、東南アジアで特にウォレスの関心を引いたのは、ロンボク海峡のように短い距離でも、反対側では種が急激に変化している点だった。

ボルネオ熱帯雨林
写真=iStock.com/yusnizam
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/yusnizam

通常、植物や動物の群集に著しい変化があるのは、山脈や砂漠といった際立った境界があるためだと考えられていたが、ボルネオ島とスラウェシ島のあいだには短い距離の海がはさまっているだけである。

この思いがけない出来事に気づいたウォレスは、マレー諸島の南北に見えない線が走っていて、ほとんどがアジア系のものである西側と、オーストラリアと近縁性の高いものが多い東側とを分けていると結論した。

現在では、地質学や氷河学の分野で当時とは比べものにならないほど多くのことが知られるようになったし、その後100年ほどでプレートテクトニクス理論が科学的に広く受け入れられた。それでもウォレスはその時代に、自分の引いた線の両側の島々を隔てる海は同地域のほかの場所よりもはるかに深いことを正しく言い当てている。

■“アジア”と“オーストラリア”の分かれ目と言える

何度かあった氷期に多くの海が凍結し、そのために海面がいまより100メートル以上低くなったこともたびたびだった。その間、この地域には海がほとんど存在しなくなり、陸生生物の移動が可能だった。

だが、ウォレスが引いた線上にある海域はその時期でもまだ深く、長距離を泳いだり飛んだりできない動物種の移動を妨げた。その結果、線の両側の種は別々に進化することになった。

この“アジア”と“オーストラリア”の目に見えない分かれ目は、1868年にもうひとりの有力な科学者トマス・ヘンリー・ハクスリーによっていくらか修正された。さらに北に広がって、パラワン諸島をフィリピンのほかの部分と分けるために使われるようになり、そのおかげで異なるタイプのキジ科の鳥の分布をより正確に説明できるようになった。

■5000万年以上、深海溝に隔てられていた

引いた線が現実のものになったいまではウォレスの引いた線に沿って複雑な構造プレートの境界が走っていることがわかっており、ウォレスの観察した種の驚くべき変異を説明できるようになった(それはまた、北米と南米の動物がなぜあれほど違っているのかを説明するのにも役立つ。2つの大陸はほんの数百万年前までつながっていなかったのだ)。

地質学的に見ると、ウォレス線の西側は東南アジア大陸棚のスンダ拡張部であるのに対して、東側はオーストラリアのサフール大陸棚の一部であり、2つはまったく別々の進化が行われるのに十分な5000万年以上という期間、深海溝に隔てられていた。

その結果、大型の陸生哺乳類や、飛べないか、飛ぶ力の弱い鳥は片方だけに存在することになった。世界の有袋類の約3分の2(カンガルー、ワラビー、コアラ、ウォンバット、タスマニアデビル、バンディクートなど)や、すべての単孔類(カモノハシ、ハリモグラなど)は東側特有の種である。

カンガルー
写真=iStock.com/ross1248
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ross1248

一方、東側には有胎盤類(ネコ、ルトン、リスなど)の在来種がほとんど見当たらない。植物ははっきり区分ができないし、現地を調査中のウォレスはあまり興味を持たなかったが、ユーカリのほとんどの種が東側だけに存在する点は特記すべきだろう。

もう少し見方を広げれば、ウォレスはこの現地調査によってダーウィンときわめて近い推論を行い、自然選択を通じた進化の理論を生み出したと言える。

■相手を尊重する関係を続けたウォレスとダーウィン

ウォレスは論文を査読してもらうためにダーウィンに送った。ダーウィンは感銘を受けたものの、どう扱えばいいかわからず、友人であり科学者仲間でもあるチャールズ・ライエルとジョセフ・フッカーに助言を求めた。

そうして、影響力のあるロンドンのリンネ協会で両者の小論を同時に発表し、どちらが先かの紛争を避けることが決まった。

翌年、ウォレスがまだ東南アジアにいるあいだに、ダーウィンは『種の起源』を出版し、学界のみならず一般社会の賞賛を浴びた。ダーウィンはこの原稿に20年以上も取り組んでいたが、最終的には、ウォレスの著作より先に読まれるように短縮された。

■2人の科学者は互いに支え合った

ウォレスはその後も“自然選択”というダーウィンの用語や“ダーウィニズム”という言葉を使って、自分のライバルと進化のつながりを一般大衆の頭に焼きつける役目を果たしたが、彼自身の貢献は軽視された。

それでも、ふたりは友好的で、たがいに相手を尊重する関係を続けた。

ウォレスは、なおも論議の的になっているダーウィンの理論を擁護し、自分の最も重要な著作である『マレー諸島』を、「個人的な敬意と友情のしるしだけでなく、彼の才能と業績を心から賛美するために」ダーウィンに捧げている。

一方ダーウィンは、当時もまだ経済的な苦境にあったウォレスを支援して、1879年に科学への貢献に対する政府年金を受け取れるようにした。

チャールズ・ダーウィン
チャールズ・ダーウィン(写真=Herbert Barraud/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

ウォレスが自分の声価が低いことに不満を抱いていたふしはなく、逆にダーウィンとの関連を通じて、自分の考えが広く受け入れられると思っていたらしい。

その後の人生で、ウォレスは生物地理学や進化論に留まらず、政治学や人類学、宇宙生物学、スピリチュアリズムなど幅広いテーマに関する研究を発表した。

ただし、そういった研究は科学的思考とはとても言えないものだった。彼はまた、森林伐採、土壌浸食、外来種の導入の危険を認識していた初期の環境保護主義者でもあった。

■ウォレスの名前は「ウォレス線」として残った

ふたりの画期的な論文が同時に発表されてから50年たった1908年、ロンドンのリンネ協会は“ダーウィン・ウォレス・メダル”の最初の“ゴールド・メダル”をウォレスに授与して、進化研究への貢献を称えた。

もっとも、今日までウォレスの名が残っているのは、ウォレス線とウォレシア(訳注:ウォレス線とウェーバー線にはさまれた、アジア区とオーストリア区の生物が混在する地域)だけである。

のちにリチャード・ライデッカーやマックス・カール・ヴィルヘルム・ウェーバーといった科学者が、別の種の分析をもとに、分割線はもう少し東に存在すると主張したが、ウォレスがこの地域で明確な区分を行ったことが19世紀以降の生物地理学の研究分野や動物地理区の概念の基盤になったのは間違いない。

さらに後年、この線は人類遺伝学、人類学、言語学などの分野で、差異を説明する際に使われることになる。

■「政治的分断の道具」として利用されることもあった

パプア地方の民族主義者は、ずっと以前から自分たちをインドネシア人とは異なる人種であると主張するときに、見えない分割線の概念を援用した。

マキシム・サムソン著『世界は「見えない境界線」でできている』(かんき出版)
マキシム・サムソン著『世界は「見えない境界線」でできている』(かんき出版)

過去にはオランダとポルトガルの植民地支配者がこの地域の領有権を主張するときに、それぞれが引用している。

優生学を公然と批判したウォレスは、自分の提唱した生物地理学上の概念が政治的分断の道具として利用されることに不快感を抱いたはずだ。これこそ、境界線の持つ力の一例である。

たとえ、もともとの境界が形態の差異に基づいて、現実的な経験に裏づけされていても、その単純さゆえに、自分を例外的存在と見なし、それを正当化しようとする者には利用しやすいのだ。

このように、別のものと見なされる集団や場所を空間的に分割するために、想像上の見えない線が、少なくとも科学的な事実と甲乙つけがたいほど多くある。

とはいえウォレス線のように、地球の活動を理解するために役立つ線も数多く存在する。

もしかしたらそれは、地球上でもごく限定された特殊な場所でだけ通用するのかもしれないが、そうした場所でも偏見が入りこむのを防げない。難しいのは、私たちがすでにその場所について知っていることと科学が教えてくれることのもつれを解きほぐすことなのだ。

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マキシム・サムソン シカゴ・デポール大学地理学講師
イギリス信仰学校の入学方針、インドネシアの津波への対応、1933~34年のシカゴ万国博覧会など、さまざまなテーマの学術論文を発表。「宗教と信仰体系の地理学」(GORABS)研究グループの議長。近年、『ユダヤ教育ジャーナル』の副編集長に就任。

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(シカゴ・デポール大学地理学講師 マキシム・サムソン)

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