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「それでもダメなら、わしの頭を殴っていい」会社を辞めたがる新入社員に松下幸之助が提示した"条件"

プレジデントオンライン / 2024年8月5日 8時15分

訪れた松下政経塾の卒業生に熱心に語りかける松下幸之助氏(右)=1984(昭和59)年8月29日、松下電器産業本社 - 写真=共同通信社

パナソニック創業者の松下幸之助は、部下に対してどのように接したのか。PHP理念経営研究センターの編著書『松下幸之助 感動のエピソード集』(PHP研究所)より、一部を紹介する――。

■一度目は経験、二度目は失敗

昭和30(1955)年ごろのこと、競争の激化によって、電機業界は非常に混乱していた。松下電器の代理店の中にも倒産するところが出て、被害総額は数百万円にものぼった。

倒産した代理店を管轄していた東京営業所の所長は、責任を感じ、始末書を持って、本社の幸之助のもとに出向いた。そして、こういう大きな損害をこうむった、これだけのお得意先に迷惑をかけた、金額はこれだけである、その原因はこういうところにある、と一つひとつ報告し、

「これはやはり私の監督不十分であります。まことに申しわけありませんでした」

と、頭を下げた。

「二度とこういうような失敗をくり返さないために、こういう対策を立てました。当面の処置対策はこのようにいたします」

じっと聞いていた幸之助は、

「そうか。きみな、一回目は経験だからな。たいへん高い経験をしたな。しかし、二度くり返したら、きみ、これは失敗と言うんだぞ。二度と犯すなよ」

そして尋ねた。

「ところできみ、最近の市況はどうや。ラジオや電球はどうや」

厳しい処分が下ることを覚悟していた営業所長は、そのひと言に涙があふれた。

■おまえまでがそんなことをするのか!

松下電器の社員が50名くらいになっていた、夏の暑い日であった。その日のうちに、どうしても仕上げてしまわなければならない仕事があって、5、6人の社員が幸之助から残業を命じられていた。

ところが、遊びたい盛りの若い社員である。残業を命じられていた者も、みな仕事をほうって、広場に野球をしに行ってしまった。最後まで残っていた先輩格の一人が、皆に遅れて工場を出ようとしたときである、幸之助が出先から戻ってきた。

頼んでおいた仕事はできたのか、みんなはどこへ行ったのか、と尋ねる幸之助に、その社員は、仕事はあす仕上げることにして、みんな遊びに行ってしまったこと、自分もこれから行くところであることを告げた。

「なんやて。残業してやってくれと言うたのになんでやらんのや! 仕事をほっといてボール投げに行くとは何ごとか。それだけやない。おまえまでがそんなことをするのか!」

「……」

翌日、仕事が終わるころ、幸之助から呼ばれたその社員は、思いがけず夕食をご馳走になり、長い訓示を受けた。

「他人が遊んでいたら、自分も遊びとうなるやろ。けどな、命じられ、引き受けたことは、やり遂げる責任がある。その責任を果たすということは、人としていちばん大切なことや。そやから、わしはあれだけ怒ったんや。わかったか」

諭すような幸之助の言葉だった。

*「きみならば」「おまえまでが」「きみともあろう者が」という呼びかけは、幸之助がよく口にしていた表現である。

■なぜ上司を説得せんかったのか

幸之助は、ある商品についての説明を、技術担当者から受けていた。

「きみ、この商品のデザインはもうちょっとこうしたほうがええのとちがうか」

「はい、実は私も製作段階でそう思っていました。しかし、上司の反対にあいましたので、今のような形にいたしました……」

幸之助の顔が急に厳しくなった。

「いいと思ったのであれば、なぜ上司を説得せんかったのか。上司説得の権限はきみにあるんだよ」

■徹底すれば、神通力が身につくはずや

昭和35、6年のこと。当時の冷蔵庫の販売は、各メーカーが10月にその年の新製品をいっせいに発表、その展示会をディーラーが見てまわって注文するというかたちで行なわれていた。

したがって各メーカーとも、展示会にすべてを懸けて、いかに他社よりすぐれた新製品を打ち出すかにしのぎを削っており、ときには勢いあまって企業スパイまがいの情報収集合戦も見られる状況であった。

そんなとき、たまたまある有力な筋から、他社情報の売り込みの話が松下電器にもたらされた。冷蔵庫事業部の責任者から相談を受けた幸之助は、即座に答えた。

「それはやめておこう」

そしてこう続けた。

「なあ、きみ、神通力という言葉を知っているやろ。そういう言葉があるということは、これまでにその神通力を身につけた人があったということや。だからわれわれでも、ほんとうに事業に打ち込んで徹底すれば、神通力が身につくはずや。そうなれば、他社の動向でもなんでもおのずとわかるようになる。そうならないかんで」

■新入社員が立ち上がって幸之助に訴えたこと

松下電器が九つの分社に分かれていた昭和11(1936)年のこと。その分社の一つ、松下乾電池で、その年に配属された新入社員、35、6人が集められ、幸之助を囲む懇談会が持たれた。

無人の会議室
写真=iStock.com/luchunyu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/luchunyu

そのとき、何か感想があれば言ってほしいという司会者の言葉に、一人の新入社員が立ち上がって言った。

「私は会社をやめようと思ったんです。今からでは行くところもありませんので、まだいますけど、松下電器はエゲツない会社やと思います」

「どうしてや」と問う幸之助に、新入社員は、自分はアマチュア無線のライセンスを持っていて、できたら無線関係のところに入りたく思っていたこと。松下無線の専務が自分の学校に求人に来たので、てっきり松下無線に入社できると思っていたところが、案に相違して乾電池にまわされてしまったことを説明し、ひどいやり方だと思うと述べた。それは、率直な気持ちであった。

■だまされたと思って10年間辛抱してみい

「それで、今きみは何をしてるのや?」

「調合場で真っ黒になって実習しています」

調合場は、乾電池の中味である黒鉛や二酸化マンガンなどを調合するところで、当時は、手も顔も作業服も真っ黒になる最も汚れの激しい仕事場の一つであった。

「それは考えと違ってえらいところへ来たな。しかし、松下電器というのはええ会社やで。きみ、わしにだまされたと思って10年間辛抱してみい。10年辛抱して、今と同じ感じやったら、わしのところにもう一度来て、頭をポカッと殴り、『松下、おまえは、おれの青春10年間を棒に振ってしまった!』と大声で言ってやめたらいいやないか。わしは、たぶん殴られんやろうという自信を持っておるんや」

20年ほどのち、その新入社員は乾電池工場の工場長になった。

*みずから認識できる適性もあるだろうが、さまざまな仕事の経験から発掘される適性もまた確かなところがある。幸之助は両方を大切にしていた。

■きみがやればやるだけ業績が上がる

昭和30(1955)年、東京営業所の無線課長が、九州の小倉営業所へ所長として転勤せよ、との内示を受けた。

PHP理念経営研究センター『松下幸之助 感動のエピソード集』(PHP)
PHP理念経営研究センター『松下幸之助 感動のエピソード集』(PHP)

働き盛りの35歳、明らかに栄転であった。しかし、その心は必ずしもはればれとしたものではなかった。

“営業所長ともなれば、地域全体の経営、販売、人事と、すべてのものを見ていかなければならない立場だ。それに加えて、九州は以前、松下の勢力が強く、いわば金城湯池(きんじょうとうち)の地であったというが、最近は「家庭電化ブーム」で市場が戦国時代に突入し、松下の勢いも下がり気味で、きわめて厳しい状態だという。これはたいへんなところへやられるな……”

東京での生活が長かったその課長にとって、九州はまた、遠い、見知らぬ土地でもあった。

そんな内心の不安を隠して辞令交付に臨んだ課長に、幸之助はこう言葉をかけた。

「きみ、今度は九州だよ。九州はね、実は今、状況が悪いんだ。昔はものすごくよかったんだが、今はいうなれば最低の線だ」

「……」

「ということはだね、きみがこれから行って何かをすれば、そうしたぶんだけ必ず業績が上がるということだ。もうこれ以上悪くはなりようがないんだから。

一所懸命やっても業績が上がらんというところもある。しかしね、きみがやればやるだけ業績が上がるというのは、きみ、いいところへ行くね。幸せだよ、きみは」

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PHP理念経営研究センター 松下幸之助が提唱した“理念に基づく経営のあり方”を探求するために設立された研究機関。企業をはじめとする各経営体が、いかに各自の経営理念に基づく良好な経営を行なうか、すなわち“経営理念”実現の手法を模索し、理念経営についての理論研究や調査を推進し、企業等の組織の経営力向上のためにさまざまな提言活動をしている。

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(PHP理念経営研究センター)

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