清少納言は「偉そうで利口ぶった風流気取り」…紫式部がライバルを異常なまでに非難した政治的意図
プレジデントオンライン / 2024年8月4日 19時15分
■『枕草子』が持っていた政治的役割
清少納言はなぜ『枕草子』を執筆し、宮廷社会に広めたのか。彼女は亡くなった皇后定子と、彼女が産んだ一条天皇の第一皇子、敦康親王の存在意義について、公卿たちに再確認させようとした可能性がある。
NHK大河ドラマ「光る君へ」の第29回「母として」(7月28日放送)には、そんな『枕草子』の特徴や、政治的な役割について理解できる場面が複数あった。
まず、ききょう(ファーストサマーウイカ、清少納言のこと)がまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)の家を訪問し、のちに『枕草子』と呼ばれる文章を読ませた。まひろはその内容に感心しつつ、「私は皇后さま(註・高畑充希が演じた定子)の影の部分も知りたい」と伝えたが、ききょうは「皇后さまに影などないし、あったとしても書く気はありません。華やかな姿だけを人々の心に残したい」と拒んだ。
これまで「光る君へ」では、なんとなしに交流を重ねるように描かれてきた2人の差異が、はじめて明確に描かれたといえようか。それは『枕草子』と『源氏物語』の差異にもつながる。
続いて、ききょうは定子の兄である藤原伊周(三浦翔平)を訪ね、『枕草子』を渡したうえで、「皇后さまのすばらしさをみなの心のうちに末永くとどまるように、これを宮中に広めていただきたい」と頼み込んだ。それが、父の道隆(井浦新)に端を発する中関白家の再興につながると悟った伊周は、ききょうの望みを受け入れた。
■『枕草子』が道長を脅かす存在に
清少納言と紫式部が対面したという記録はない。だからといって2人に直接的な交流はなかったと断じることはできないが、「光る君へ」で描かれる2人の交流はフィクションである。だが、清少納言が意図したかどうかはともかく、『枕草子』が当時の宮廷社会で、「光る君へ」の第29回で描かれたような政治性を帯びたことはまちがいない。
清少納言については、生まれた年も、宮仕えをはじめた時期も、史料から確定することができない。だが、定子が入内して2、3年以内に出仕したとすれば、正暦3年(992)か同4年(993)ごろということになる。長保2年(1000)12月16日に定子が亡くなると、里に下がって、ふたたび女房になることはなかった。
そして、清少納言が宮仕えをした7、8年のことを記述したのが『枕草子』で、伊井春樹氏はこう記す。「清少納言は中宮定子を賛美し、現実の世に迫って来る厳しく追い詰められた姿は描こうともせず、明るい話題に転じるのが自分の任務と考えていたようである。(中略)むしろ悲しい現実から目を背け、定子の賛美を書き留めることが、自分の女房としての責務であるとしていたのであろう」(『紫式部の実像』朝日選書)。
実際、『枕草子』は宮中でたちまち評判を呼び、長女である彰子のサロンを盛り上げたい藤原道長を脅かす存在になった。
![「枕草子絵巻」の一部](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/7/1200wm/img_f7b3db5d413292e3afeca289d3b74ed4375480.jpg)
■いつ紫式部は「源氏物語』を書き始めたのか
一方、紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは、清少納言が宮仕えをやめて何年かしてからだった。どの年か正確にはわからないが、『紫式部日記』の寛弘5年(1008)12月29日の条に、「しはすの二十九日にまゐる。はじめてまゐりしもこよひのことぞかし(12月29日に参上する。最初に参上したのも同じ日だった)」とある。
また、それに続いて「こよなくたち馴れにけるも、うとまし身のほどやとおぼゆ(宮仕えにすっかり慣れてしまったのも、いとわしいことと思える)」と書かれているから、寛弘5年の前年ではなく、寛弘3年(1006)か同2年(1005)だろうと思われる。
出仕することになった理由は、道長の引きがあったからに違いない。だが、いうまでもないが、2人のあいだに「光る君へ」で描かれている恋愛関係があったからではない。書きはじめられていた『源氏物語』などによって、文才が認められたからだと考えられる。
では、『源氏物語』はなぜ、そして、いつ書かれたのか。「光る君へ」で時代考証を担当する倉本一宏氏の見解によれば、書きはじめられたのは、夫の藤原宣孝が死去した長保3年(1001)から出仕するまでのあいだと推定されるという。
■一条天皇を引き付けるとっておきの品
当時、紙は高価であり、すでに寡婦で、父親もふたたび無官になっていた紫式部が、それを用意できたとは考えられない。紫式部は道長から紙を提供され、第一部のうち、光源氏の生い立ちや、藤壺および紫の上との関係を描いた部分、さらには、光源氏が須磨に流されたのち都に召喚される下りの途中くらいまでを、出仕するまでに書いた――。それが倉本氏の見解である(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。
実際、『源氏物語』のそれに続く内容は、宮廷に出仕して宮廷政治の機微を目の当たりにしないかぎり、書けるとは思えない。だが、上記の部分までなら、出仕前でも書けなくはない。
それでは、道長はなぜ紫式部に『源氏物語』を書かせたのか。それは一条天皇に読ませるためだったと考えられる。より具体的にいうと、文才があると評判だった紫式部に物語を書かせ、中宮彰子のサロンに置けば、文学好きの天皇は物語への興味からも彰子のもとに通い、それが彰子への寵愛、ひいては皇子の出産につながる、という算段である。
結果として、寛弘5年(1008)9月、彰子は道長邸で敦成親王を出産した。その際、道長邸では『源氏物語』を書き写す作業も行われた。彰子が内裏に戻る際、一条天皇に奉呈するためだった。
![京都御所](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/b/e/1200wm/img_be831c6363ff829caa756fead702f37d595026.jpg)
■清少納言は「偉そうで利口ぶった風流気取り」
さて、紫式部が出仕した中宮彰子のサロンは、『紫式部日記』によると、非常に地味な気風だった。『枕草子』に描かれた定子のサロンが、廷臣たちの華やかな交流に彩られていたのと対照的に不愛想で、理由は、彰子のきわめて遠慮がちな性格に求められるという。
そうした状況では、かつての定子のサロンへの追憶が宮廷社会に生じても不思議ではない。それは道長には困った状況であり、道長の推挙で彰子のもとに出仕している紫式部にとっても、憂うべき状況だったかもしれない。
そう考えると、紫式部が清少納言を異常なまでにこき下ろした理由も見えてくる。『紫式部日記』には、清少納言について以下のように書かれている。
「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてははべるほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり。かく人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行く末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ」
現代語に訳すと、ざっとこんな感じである。
「清少納言こそ、得意顔で偉そうにしていた人です。あんなに利口ぶって漢字を書き散らしていますが、よく見ると、まるで足りない点が多い。こうして人に勝ろうとする人は、必ず見劣りして、将来は悪くなるばかりで、風流気取りが染みついた人は、まったくつまらないときでも情緒があるふりをして、趣があることは見逃すまいとするうちに、誠実でない軽薄な態度になってしまいます。そんな人の行く末は、どうしてよいことがあるでしょう」
■紫式部が清少納言を中傷した政治的意味
あまりに激しく、悪しざまに罵っているので驚かされる。ただし、これは直接交流した結果ではなく、『枕草子』および女房たちからの話を踏まえての批判と考えられる。
『紫式部日記』では、清少納言に触れる前に、ほかの女房たちついても記されている。たとえば、『栄花物語』の前半の作者にも擬せられる赤染衛門のことは、品があって、こちらが決まり悪くなるほどすばらしい歌詠みだ、と評価。恋多き女として知られる和泉式部のことは、書くものは軽薄で、すばらしい歌人というほどではない、と批判する。
だが、多くの場合は、歌詠みとしてどうか、という話を展開しているが、清少納言に関しては和歌への批判ではない。
すでに記したように、『枕草子』は、定子と敦康親王を盛り立てるプロパガンダの役割を負っていた。しかし、紫式部が清少納言を批判した時点では、すでに中宮彰子が敦成親王を出産しており、敦成を春宮(皇太子)にするという方向性が見えてきていた。
清少納言を批判し、ひいては定子のサロンを否定する。それは道長のおかげで彰子のもとへ出仕した紫式部にとって、どこまで意識的だったかはともかく、彰子のサロンと、そこで生まれた皇子を盛り立てるための、政治的行為だったのではないだろうか。清少納言が定子のサロンを、政治的なねらいもあって実際以上に美化したように。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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