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「原爆投下は明らかな国際法違反」とする画期的判決文…朝ドラのモデル三淵嘉子が語らなかった原爆裁判の真実

プレジデントオンライン / 2024年8月8日 8時15分

広島市の原爆ドーム(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/font83

原爆の被害者には被爆者援護法が適用されるが、この法律が成立したのは1994年で、終戦の49年後と遅い。作家の山我浩さんは「1955年から三淵嘉子裁判官らが担当し『原爆投下は国際法違反』とした原爆裁判の判決は、日米両政府が原爆の責任から目をそむける中で下された画期的な判決。その後の被害者救済にもつながった」という――。

※本稿は、山我浩『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』(毎日ワンズ)の一部を再編集したものです。

■広島、長崎の被爆者が国家に賠償を求めた有名な裁判

「原爆裁判」は、昭和30年代、原爆投下の違法性が初めて法廷で争われた国家賠償訴訟の通称名である。その資料は担当した松井康浩弁護士から日本反核法律家協会が預かり、現在は会長の大久保賢一弁護士の事務所で保管されている。

本来裁判所が保管すべきものだが、近年、全国の裁判所で裁判記録の大量廃棄が明らかになっている。この原爆裁判の記録も、判決文を除き、すべて捨てられていた。したがって原爆裁判資料の大半はもはや大久保事務所にしかないのである。

1953年(昭和28年)、日本の弁護士がアメリカの裁判所で、原爆を使用したアメリカ政府を訴えようとする。しかし1953年は日本が独立を回復した翌年である。弁護士の多くは戦勝国で超大国となったアメリカを訴えることに消極的で、周囲の理解は得られなかった。

だが、2年後の1955年(昭和30年)、広島と長崎の被爆者5人が大阪地方裁判所と東京地方裁判所で訴えを起こす。弁論準備などの手続きの後、1960年(昭和35年)2月から1963年(昭和38年)3月まで、9回の口頭弁論が開かれている。この「原爆裁判」に三淵嘉子(みぶちよしこ)が携わっている(嘉子は昭和31年、名古屋地裁から東京地裁に異動した)。

残されている口頭弁論調書、その表紙には審理の日付と担当裁判官の名前が記されるが、右陪席(次席裁判官)にはすべて、「三淵嘉子」の名が記されている。裁判長と左陪席は何度か交代しているが、嘉子だけは、第1回の口頭弁論から結審に至るまで、一貫して原爆裁判を担当し続けた。

■三淵嘉子は次席裁判官として8年に及んだ裁判を全て担当

審理は8年に及んでいる。保管されている記録からは弁論準備だけで27回、4年に及んでいる。1960年(昭和35年)からは大阪地裁の訴えも、東京地裁に併合された。質量ともに難しく、重く大きな事件だった。

この原爆裁判に関して、嘉子が語ったものは何も残されていない。彼女は、自身のしてきたこと、試みや制度、自分が外に対して語るべきことなどを折りに触れて語ってきた。饒舌(じょうぜつ)ではないが、寡黙に過ごすことはむしろあまりなかった。

その彼女が、日本にとっても世界にとっても「原爆裁判」という極めて深刻な訴訟について、沈黙を貫いたのは、自分が見解を述べることで、わずかでも影響を残す可能性を恐れたのかもしれない。また裁判官が合議の秘密を語ることは固く禁じられていた、ということもあったろう。

長男の芳武さんはこれについて、「当時の報道で母が原爆裁判を担当したことは知っていますが、内容について聞いたことはなかった」という。

■原告のひとりは広島で5人の子を亡くし、自分には傷害が残った

弁護士事務所に保管された古い紙の綴りや手書きの訴状には、原爆投下による惨状や原告の受けた被害について、生々しく描写されている。

「原子爆弾投下後の惨状は数字などのよく尽すところではない。人は垂れたる皮膚を襤褸(らんる)として、屍(しかばね)の間を彷徨、号泣し、焦熱(しょうねつ)地獄の形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した惨鼻(さんび)なる様相を呈したのであった」

「原告は本件広島被爆当時47歳であって、広島市中広町に家族とともに居住し、小工業を自営していた健康な男子であったが、当日の被爆のため長女(当時16歳)三男(当時12歳)次女(当時10歳)三女(当時7歳)四女(当時4歳)は爆死し、妻(当時40歳)および四男(当時2歳)は爆風・熱線及び放射線による特殊加害影響力によって障害を受け、原告は現在右手上膊(じょうはく)部にケロイドを残し、技能障害あり、また右腹部から左背部にわたってもケロイドあり、毎年春暖の節には化膿しまた腎臓及び肝臓障害があって、現在まったく職業につくことはできない」

原爆投下からまだ10年余りの、その言葉に生身のような痛みが残っている頃のことである。裁く立場の嘉子の心象風景は知る由(よし)もないが、戦争による心の傷は嘉子にも癒されぬまま残っている。日々の生活の細々とした苦労は思い出したくなくとも、忘れ去ることはできない。嘉子の夫と弟を奪ったのも戦争であった。肉親を原爆で理不尽に奪われた原告の気持ちは、最もよく嘉子が理解したところだろう。

三淵嘉子、1982年
写真提供=共同通信社
三淵嘉子、1982年 - 写真提供=共同通信社

■嘉子や裁判長の古関は万全の体制で原爆裁判を受け持った

第1回、第2回口頭弁論の裁判長は畔上(あぜがみ)英治が、第3回弁論から判決までは古関敏正が務める。左陪席は弁論準備手続を伴うので変遷が激しいが、第8回弁論から判決までは高桑昭が務めた。

裁判長の古関は、嘉子より3期上で判決時、50歳であった。戦後司法省調査課や最高裁民事局の二課長などを務めた。風貌からは穏やかそうな印象だが、原爆投下が国際法違反かどうかが争点になると、躊躇(ちゅうちょ)なく3人の国際法学者を鑑定人に選任した。原告が申請した原水爆禁止日本協議会の理事長で法政大学の安井郁教授、そして被告の国側(日本政府)が申請した京都大学の田畑茂二郎教授(横田喜三郎教授と交代)と東京大学の高野雄一教授である。

著名な国際法の研究者を3人並べたことで、古関は、自身が原告にも国にも、訴えを正面から受け止める覚悟ができていることを示した。3人の鑑定結果は1961年(昭和36年)から翌年にかけて裁判所に提出された。最大の焦点である原爆投下と国際法について、安井と田畑の意見はともに、「非人道的、無差別爆撃であり国際法に違反する」であった。高野も断定を避けつつ、「国際法違反の戦闘行為とみるべき筋が強い」と述べている。

■原爆裁判で合議した若手裁判官「三淵さんは優しい人でした」

ちなみに、3人の裁判官の中で1人だけ、終盤に左陪席となった高桑昭さんが、原爆裁判について発言している。前年に裁判官になったばかり、26歳だった高桑さんは当時を振り返り、「(三淵さんは)おうようなやさしい人。私とは親子ほど年齢差がありましたが、古関さんとともに私を合議体の一員として遇してくれた」と語り、3人で合議をし、判決の方向性を決めたと明かしている(2024年4月20日付け「中国新聞」)。ただし判決文の内容を決める話し合いで誰が何をいったかについては、触れていない。

極めて難しいのは、この裁判が持つ政治的な影響力の大きさである。もし判決が原爆投下を国際法違反と結論づけ、国に賠償を命じれば、広島と長崎の他の被爆者たちは、次々に同じような裁判を起こすだろう。被爆者援護の法律の制定を求める声も高まる可能性がある。改めて原爆を投下したアメリカの責任を問う声は高まり、国際問題ともなろう。

■「広島、長崎両市に対する無差別爆撃で国際法違反」

様々な問題、難題を抱えながら3人は判決文を書き進めた。ただ嘉子が判決文のどの部分を書いたかは分からない。しかし、第1回口頭弁論から結審まで、一貫して審理を担当した嘉子の意見がかなり反映されたことは、間違いない。

古関は判決後の囲み取材で、「政治的にどんな効果があるかは考えなかった。また裁判官は考えるべきではない」と語る。

「二十数年間の判事生活を通じて、今度が一番苦労した」とも語る。

また、「あなたの裁判の師は誰か」と問われて、尊敬している裁判官として、三淵忠彦(三淵嘉子の夫の父で最高裁判所長官)を挙げた。

判決は1963年(昭和38年)12月7日午前に言い渡された。

注目される原爆投下の国際法上の評価については、

「広島市には約33万人の一般市民が、長崎市には約27万人の一般市民がその住居を構えていたことは明らかである。したがって、原子爆弾による襲撃が仮に軍事目標のみをその攻撃の目的としたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目襲撃と同様の結果を生ずるものである以上、広島、長崎両市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」としたのである。

長崎県香焼島にあった造船所の事務所屋上から原爆炸裂の約15分後に松田弘道が撮影
長崎県香焼島にあった造船所の事務所屋上から原爆炸裂の約15分後に松田弘道が撮影。1945年8月9日(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

■被爆者の損害賠償請求は認められなかったが……

判決は国内法上も国際法上も被爆者の損害賠償請求権は否定した。

だが最後に、異例の言葉が加えられた。

「人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ原子爆弾の投下によって損害を被った国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう。戦争をまったく廃止するか少なくとも最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである」

「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことはとうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう」

「しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかも、そういう手続によってこそ、訴訟当時者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講じることができるのであって、そこに立法及び立法に基づく行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であることはとうてい考えられない」

「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおれないのである」

■被害者の救済策を法律で定めていなかった立法府を批判

裁判長は最後に、「原告等の請求を棄却する」と主文を読み上げた。閉廷を告げた直後、記者たちは法廷を飛び出していった。

判決の日、嘉子は法廷にいなかった。すでに裁判は結審となっており、結審後の4月に彼女は東京地方裁判所から東京家庭裁判所へ異動となっていた。最後の日の右陪席には、審理に加わっていない後任の男性裁判官が座った。もちろん判決文には「三淵嘉子」の自筆署名が残されている。

この日の夕刊には、原爆裁判の判決が1面トップに並んだ。

「原爆投下は国際法違反、東京地裁、注目の判決」(毎日新聞)
「東京地裁『原爆訴訟』に判決、原爆投下は国際法違反」(読売新聞)
「原爆投下は国際法違反、東京地裁で判決」(朝日新聞)

各紙とも判決を高く評価した。

■「原爆の違法性がはっきり裁判で打ち出されたのは世界初」

読売新聞は記事の見出し部分で「原爆の違法性がハッキリ裁判で打ち出されたのは世界でもはじめてのことであり、しかも被爆国の裁判所が下した点で国際的にも大きな波紋を呼ぶものとみられる」と書いており、判決がもたらす国内外への影響に言及している。また、判決文の末尾で「政治の貧困を嘆かずにはおられない」と批判するのは極めて異例である。各紙はこの1文にも言及している。

提訴後、「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が作られ、判決後には「原子爆弾被爆者に対する特別措置法」が制定される。そして1994年には、「被爆者援護法」が制定されている。

被爆者の認定がなお不十分という声もあるが、制度は少しずつ作られてきている。日本被団協は「この裁判は、被爆者援護施策や原水爆禁止運動が前進するための大きな役割を担った」と評価している。

■この判決が被爆者援護法につながり、国際的にも評価された

山我浩『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』(毎日ワンズ)
山我浩『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』(毎日ワンズ)

原爆裁判の記録を保管している日本反核法律家協会会長の大久保賢一弁護士は、60年前の判決をどう評価するかと問われて、賠償を認められなかったのは残念だが、この判決がその後の国内と海外に与えた影響は大きいと指摘する。

「判決が日本の原爆被爆者行政に寄与したことは間違いありません。また国際司法裁判所で参照すべき先例として位置づけられ、1996年に『核兵器の使用、威嚇は、一般的に、国際法に違反する』とした判断枠組みが、東京地裁の判断枠組みと共通しており、原爆裁判の影響を見て取ることができます」(清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』)

大久保弁護士は核兵器の問題は、まさにいま世界が置かれている状況と直結しているという。「いまだにロシアがウクライナへの侵攻で核兵器の使用をちらつかせるなど、危機は続いています。核兵器の使用が国際法に違反すると明確に述べた判決が持つ意義は、現代も失われていないと思うのです」(前掲書)

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山我 浩(やまが・ひろし)
作家
東京都生まれ。1969年明治大学文学部卒業後、出版社山手書房入社。編集長として『自分の会社を持ちなさい』(竹村健一著)、『リーダーシップの本質』(堀紘一著)、『殿と重役』(ジョージ・フィールズ著)などのベストセラーを手掛けた。現在は独立し、幅広いジャンルで執筆活動を続けている。著書に『安藤百福物語』(毎日ワンズ)など。

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(作家 山我 浩)

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