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これがあったから藤原道長は最高権力者になれた…NHK大河では描かれない「平安時代の脱税システム」の中身

プレジデントオンライン / 2024年8月12日 8時15分

太宰府天満宮は菅原道真の霊を慰めるために建てられた(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/orpheus26

藤原道長はなぜ絶大な権力を握ることができたのか。元国税調査官の大村大次郎さんは「藤原道長は荘園そのものよりも、平安貴族の間で横行していた『脱税システム』を利用して巨万の富を得ていた」という――。(第1回)

※本稿は、大村大次郎『脱税の日本史』(宝島社)の一部を再編集したものです。

■国司の腐敗をなくそうとした菅原道真

荘園が拡大して朝廷の財源が減るのは、徴税責任者である国司の腐敗が大きな要因でした。朝廷もこの弊害を認識し、たびたび国司の改善策を打ち出しました。

たとえば、天長元(824)年には次のような法令が出されています。

・観察使を派遣し国司の業務を監視させる
・優秀な国司は複数の国を兼任させる
・国司は任期中に一、二度入京し、天皇に業務報告を行う

このような朝廷の努力にもかかわらず、国司の腐敗は改まりませんでした。国司は有力貴族が後ろ盾になっているので、簡単にはつぶすことができなかったのです。

国司の腐敗をなくそうとして、逆に悲劇の最期を遂げたのが、かの菅原道真です。

■菅原道真に濡れ衣を着せた藤原時平が不審な死を遂げる

菅原道真は、貴族としては名門の出ではありませんでしたが、230年間でわずか65人しか合格者が出なかったという、当時の最高国家試験である文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に合格するなど秀才ぶりを発揮し、讃岐守(現在の香川県知事にあたる)などの重要ポストに就いて、当時の宇多天皇の信頼を得ました。

そして、昌泰2(899)年には右大臣、現在の首相のような地位にまで上り詰めます。

しかし、その直後に無実の罪を着せられ、昌泰4(901)年、大宰権師(だざいのごんのそつ)(大宰府の副指令長官)に左遷されてしまいました。その後、名誉を回復することなく、京都に帰ることもないまま、大宰府で死んでしまうのです。

菅原道真に濡れ衣を着せた藤原時平やその関係者が次々に不審な死を遂げたので、一時は「道真の祟(たたり)」と言われ、朝廷はパニックに陥ります。

学問の神様として名高い「天満宮」は、菅原道真の霊を慰めるために建てられたものです。

■菅原道真の失脚は「古代史の謎」

菅原道真の失脚は、古代史の謎の一つにもなっています。

菅原道真は貴族の中では決して名門ではなかったので、藤原氏など他の名門貴族に嫉妬されて失脚したというのが、もっとも一般的な見方です。

もちろん、それも要因の一つでしょう。

ただ、当時、菅原道真は「首相クラス」です。

しかも、宇多上皇という超強力な後ろ盾も持っていました。簡単に首を切ったり、左遷したりできるものではありません。ちょっと嫉妬されたくらいで、失脚してしまうことはないはずです。

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写真=iStock.com/years
菅原道真の失脚は「古代史の謎」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/years

■「脱税スキーム」に手を入れた

では、なぜこのようなことが起きたのかというと、「農民・役人・貴族の脱税スキーム」に手を入れてしまったからです。

菅原道真は、「寛平(かんぴょう)の改革」と呼ばれている国制改革を指揮していました。寛平の改革では、「農民・役人・貴族の脱税スキーム」を止めるために、京都の有力貴族と悪徳国司、富裕農民との関係を絶ち切り、清廉な国司による適正な徴税を復活させようとしたのです。

この改革を切望していたのは、宇多上皇でした。宇多上皇は当時すでに天皇を退位して上皇となっていましたが、まだ国政に影響力を持っており、改革の実行責任者として菅原道真を指名したのです。

この悪弊を行っていたのは、名門の貴族たちです。

菅原道真は、貴族としては名門ではないので、改革実行者としてはうってつけでもありました。だからこそ、宇多上皇から改革担当者として指名されたのです。

もちろん、この改革に対して名門貴族たちは反発します。

彼らは菅原道真が右大臣に就任した途端に結託し、宇多上皇の隙を見て、道真を追い落としてしまったのです。

■朝廷は国司の中間搾取を認める

平安時代になると、国司は一定の徴税分だけを中央に送り、残った分は着服するようになっていきました。つまり、国司による中間搾取が多くなったのです。

農民たちは朝廷に訴え出たり、国司を襲撃するようなことも頻繁に起きました。

しかし、すでに述べたように国司の抜本的な改革をしようとした菅原道真は、他の貴族たちの猛反発をくらって失脚し、大宰府に流されてしまいます。

やがて、朝廷は国司の中間搾取を認めるようになります。一定の税収を確保できれば、それを上回った分は国司の取り分にしていいということになったのです。

朝廷としては、財源を確保するための苦肉の策でしたが、農民たちはたまったものではありません。

国司は規定以上の税を取り立てるようになったり、逆に農民が税を少なくしてもらうために賄賂を渡してくることも多々ありました。こうして、ますます公田が荘園化していきました。

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写真=iStock.com/blew_i
ますます公田が荘園化した(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/blew_i

■国司は「美味しいポスト」

当時の貴族たちにとって、国司というポストは非常に美味しいものとなっていました。

特に「熟国(じゅくこく)」と呼ばれる豊かな地域に赴任する国司は、非常に潤うことになりました。

そのため、貴族たちは誰もが国司になりたがるようになったのです。

しかし、国司になるには、本人の力量よりも門閥の力が重要となっていきます。家柄がよくないとなかなか国司にはなれず、有力な貴族の後ろ盾が必要だったのです。

そのため、国司の希望者は有力な貴族に取り入って家来のようになったり、賄賂を贈ったりもするようになりました。また、有力貴族は自分の息がかかったものを熟国の国司に任命することが多々ありました。

■「国司の任命権」は藤原氏が握っていた

この「国司の不正システム」をもっとも活用したのが、あの藤原道長です。

藤原道長像
「国司の任命権」は藤原氏が握っていた(藤原道長像、画像=東京国立博物館編『日本国宝展』読売新聞社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

藤原道長は、「摂関政治」で一時代を支配した藤原氏の象徴的な人物です。藤原氏は娘を天皇に嫁がせて、次期天皇の外祖父となり、摂政・関白という天皇を補佐する役職に就いて権力を握りました。

藤原氏の権力が絶頂のころ、国中の主な国司の任命権は藤原氏が握っていました。

そのため、藤原氏には国司や国司希望者から多額の賄賂が贈られていたのです。

寛仁2(1018)年には、藤原道長の邸宅を諸国の国司に割り当てて造営させ、その際に国司の伊予守(いよのかみ)源頼光(みなもとのよりみつ)が家具調度一切を献上したという記録が残っています。

また、この当時の国司は京都に帰国するたびに、大量の米と地方の産物を藤原一族に寄進しています。

■藤原道長の時代は賄賂が富の主財源だった

藤原氏というと、荘園で巨額の富を築いたというイメージがありますが、藤原氏が荘園を拡大したのは12世紀以降のことであり、藤原道長の時代では賄賂が富の主財源だったのです。

つまり、藤原氏は賄賂によって「我が世の春」を謳歌していたわけです。

しかし、この藤原氏の蓄財術は、自分の墓穴を掘るものでもありました。

国司たちは本来国に治められるべき税を不正に横取りしていたのです。そして、国司が藤原氏に巨額の贈賄をするということは、国司たちはその贈賄分よりも大きなメリットがあったということです。

つまり、藤原氏が受け取っていた賄賂の何倍もの富が国司の手に渡っていたわけです。

大村大次郎『脱税の日本史』(宝島社)
大村大次郎『脱税の日本史』(宝島社)

その分、国の税収が減っていきます。国の税収が減り、朝廷の権威が落ちていけば、藤原氏の存立基盤も危うくなっていくのです。

藤原氏など平安の高級貴族たちというのは、なんやかんや言っても、朝廷の威厳の中で生きていました。朝廷に威厳があるからこそ、その朝廷の中で高い身分である彼らが栄華を謳歌できていたのです。

国司たちの不正を容認し、朝廷の財力が削られていけば、やがて自分たちの存立基盤が脅かされることになります。

藤原氏をはじめとする平安時代の高級貴族たちは、そこに気づいていなかったのです。

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大村 大次郎(おおむら・おおじろう)
元国税調査官
1960年生まれ。調査官として国税局に10年間勤務。退職後、出版社勤務などを経て執筆活動を始め、さまざまな媒体に寄稿。100冊以上の著書があり近著に『マスコミが報じない“公然の秘密”』(かや書房)。YouTubeで「大村大次郎チャンネル」配信中。

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(元国税調査官 大村 大次郎)

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