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今も昔も「平和の祭典」は腐敗に悩まされていた…1200年も続いた古代オリンピックがあっけなく終わったワケ

プレジデントオンライン / 2024年8月10日 19時45分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/duncan1890

古代オリンピックと近代オリンピックの共通点はなにか。元時事通信記者の村上直久さんは「神に捧げる競技会として紀元前776年に第1回大会が開かれた。ローマ時代になっても大会は続いたが、次第に現在の近代オリンピックと似たような問題を抱えていった」という――。(第1回)

※本稿は、村上直久『国際情勢でたどるオリンピック史』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。

■古代オリンピックと近代オリンピックの違い

古代オリンピックは4年に一度、ペロポネソス半島北西部エリス地方のオリンピアで開かれた。当時では世界最大規模の競技会であり、祭典であり、途切れることなく約1200年間続いた。

競技とそれに先立つオリンピアへの選手らの移動の間、最大3カ月間はギリシャ全土で休戦となった。100年余りの近代オリンピックで、両次の大戦中、中止されたこととは好対照である。

古代オリンピックはオリンピア大祭とも呼ばれ、全能の神、ゼウスに捧げられていた。その起源には諸説あり、ギリシャ神話によると、約束を破ったアウゲイアース王を攻めたヘラクレスが勝利後、ゼウスに捧げる神殿を建て、競技会を開いたという説や、ホメロスによれば、トロイア戦争で亡くなったパトロクロスの死を悼むためアキレウスが競技会を行ったという説などがある。

オリンピア大祭のほかに古代ギリシャでは3つほど同様の競技会があった。その中で最もよく知られているのが3年ごとに隣保同盟がデルファイで開催したピュティア祭で、これはアポロンに捧げられた。残る2つのイストミア祭とネメア祭はオリンピックとピュティア祭と重ならないように開かれた。

古代ギリシャは日本の神道と同様に多神教であり、神に捧げる競技会は、日本で言えば神社での奉納相撲と似た類のものだと考えられよう。

■「運動競技」以外の競技

古代オリンピックは近代オリンピックとは異なり女人禁制であった。これはゼウスが男神であったことや、奉納競技において競技者が裸体であったことなどが関係しているとみられる。さらに、古代オリンピックは運動競技だけでなく、詩の朗読や弁論など文芸的な側面もあったことが知られている。

古代オリンピックが約12世紀も続いた後、その歴史を閉じたのは、あとで詳述するが宗教が関係している。オリンピックの開催地であるオリンピアという地名の語源はこの聖地の主祭神ゼウス・オリュンポスに由来する。

祭典の中心は当初、ゼウス神に捧げる宗教儀礼で運動競技は付随的なものだったが、時がたつにつれて運動競技が祭典の実質的な目玉となった。

オリンピックは紀元前776年の第1回大会から紀元後393年の第293回大会まで連綿と続いた。

4大競技祭の中でオリンピックが最も栄え、世界的な競技祭に成長していったのはなぜだろうか。

■なぜ世界的な祭りになったのか

オリンピアのあるエリスは小国でギリシャに1000以上あったとされる都市国家(ポリス)のなかでは、アテネやスパルタに比べると弱小国家であることは否めなかった。しかし、大国に領有されない共有・中立の神域であり、しかも対等の立場で肉体の美や能力を競い合い、勝つことは参加者が属する国における地位を確保することにつながった。

こうした事情から全ギリシャ世界の政治エリートたる貴族がこぞってオリンピックに参加するようになり、オリンピックのギリシャ世界における地位、ひいては近隣諸国をも含む形で国際的な地位が確立されるようになった。

しかし、ペルシャ戦争やペロポネソス戦争、北方のマケドニアによる侵攻など大規模な戦争に加えて、エリスはスパルタ軍やアルカディア連邦軍に攻め込まれ、後者には一時的にオリンピアの聖域管理権と大会開催権を奪われたが、その後、奪還した。

このように古代オリンピックはギリシャ情勢だけでなく、その時々の国際情勢にも翻弄されたが、紀元後4世紀まで生き延びた。なお、オリンピック期間中の休戦は全面的なものではなく、競技会の開催に支障が及ぶ戦闘行為に限って停止された。

■古代オリンピックにマラソンはなかった

古代オリンピックの競技会は5日間にわたって開かれた。近代オリンピックの2週間超よりかなり短い。

競技種目も陸上競技(トラック・アンド・フィールド)とレスリングやボクシングなどの格闘競技に限られていた。近代オリンピックの華であるマラソンは古代オリンピックにはなかった。

競技会の前日には選手団がオリンピアへ向けて行進した。約200人の選手のほかに審判団、評議員、コーチ、親族・友人、従者の奴隷ら合計1000人以上が参加したという。見物人もぞろぞろついていった。途中宿泊し、大会初日の朝に会場に着いた。

オリンピアの遺跡は1766年に英国の「古代愛好家」リチャード・チャンドラーによって発見された後、発掘作業(第一次)は1875年から1881年までドイツの考古学者クルティウスによって行われた。ゼウス神殿やヘラ神殿、ゼウスの大祭壇などを現在、見学することができる。

競技場は前古典期からローマ時代まで5度改修され、現在、見ることができるのは前4世紀中頃までに完成された第三期のものだ。コースの長さは「1スタディオン」で192.27メートル。スタディオンはスタジアムの語源である。

筆者はギリシャ旅行の際、このコースを走ってみたが、日本の学校の運動場を走るような感じで、紀元前からの競技場であるとの実感はなかなか持てなかった。

旧オリンピック競技場
写真=iStock.com/JNevitt
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/JNevitt

■大会3日目は「野外BBQ」

競技場は4万人を超える観衆を収容できた。大会初日は、選手団到着の後、資格審査と選手宣誓が行われた。宣誓はゼウス神像の前で行われ、事前トレーニングをきちんとやって来たことも強調された。

午後には少年の部の各種競技と触れ役及びラッパ手のコンテストがあった。スピーカーもマイクロフォンもない時代、競技者の出身国や氏名を大きな声で告げる触れ役は重要な存在だった。

競馬競技は4頭立て・2頭立て。4頭立て競走は、古代オリンピックの華と呼ばれ、米映画「ベン・ハー」に再現されているように迫力とスリルに満ちたものだった。五種競技は、徒競走、円盤投げ、幅跳び、槍投げ、レスリング5種目だった。

ローマ二輪馬車競争
写真=iStock.com/Tina_Rencelj
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tina_Rencelj

幅跳びの詳細については諸説あり、立ち幅跳びの5段跳びとの見方もある。勝敗は得点制ではなかったようで、どのように優勝者を決めていたのかは定かではない。

大会3日目にはゼウス大犠牲式がとり行われた。ゼウス神官団や選手、コーチ、審判、各ポリスからの祭礼使節が行列を組み、ゼウスに捧げる100頭の雄牛を連れて、金銀の什器を持ち、ゼウス神殿の周りを練り歩き、祭壇に達すると、牛を犠牲に捧げる。

100頭の牛は大腿部が煙になるまで焼かれ、残った部分は参加者にふるまわれる。古代版の巨大な野外バーベキュー・パーティーとも言えよう。焼けた牛の匂いが辺りに充満したに違いない。

■3位も2位も敗者と同じ

大会4日目は徒競走と格闘技が行われた。徒競走はコースの端から端まで駆け抜けるスタディオン走のほかに、コースを1往復する中距離走、12往復する長距離走が中心だった。

格闘技はレスリングとボクシングのほかにパンクラティオンがあった。これはさしずめ現代のプロレスに相当するだろう。噛みついたり、目つぶしをすることは禁止されているが、キック、パンチ、投げ技、締め技などは許されていた。

このほかに重装歩兵の兜と脛当てを身につけ、丸盾を持って1往復する武装競走もあった。これは競技の中で唯一同時代の軍事技術と密接に関連したものだった。兜は1.5キロ、脛当ては一組で1.2キロ、丸盾8キロの重さで、炎天下では相当な負担であったに違いない。

最終日の5日目は表彰式が行われた後、祝宴が催された。表彰されたのは勝者のみであり、2等、3等は敗者と見なされた。勝者にはオリーブの冠が授与されただけであり、金メダルなどの金目のものは与えられなかった。

表彰式の後、優勝者は迎賓館で公式の晩餐会に招かれた。そのあとは家族や友人と合流して祝宴が延々と続いた。5日間の祭典が終わった翌日、参加者はそれぞれ帰路に就いた。優勝者は帰国後、多額の報奨金がもらえることや、オリンピアに自分の像を建てるための援助が集まることを期待しながら。

■7種目で優勝したローマ皇帝

オリンピアの神域と競技会は、マケドニアのアレクサンドロス大王のインドなどへの10年に及ぶ大遠征によって事実上始まったヘレニズム時代の諸王やローマ皇帝を引きつけた。全ギリシャを挙げた祭典としてのオリンピックは、広大なヘレニズム世界に拡散していった。

古代オリンピックに、ローマは途中からギリシャの都市国家に混ざって参加を認められていた。その後、ギリシャ全土を征服しその属州としたが、征服後もオリンピア祭は続けられた。特に帝政時代にはローマ皇帝はこの栄光に満ちたギリシャ人の競技祭に敬意を表し、物質的援助を惜しまなかった。

暴君として知られる皇帝ネロは自分の歌を披露するため音楽競技を追加。ネロは7種目で優勝したが、その歌は劣悪で聞くに堪えないものだったという。その後、ネロの優勝はエリスの公式記録から削除された。

■平和の祭典が終わったワケ

ローマ時代のオリンピックでは選手のプロ化が進み、優勝選手が金銭的報酬を受け取ることも常態化した。優勝者の祖国が支払う報奨金は跳ね上がり、報奨欲しさに不正を働く者、審判を買収する者が現れ、オリンピア大祭は腐敗し始めた。

村上直久『国際情勢でたどるオリンピック史』(平凡社新書)
村上直久『国際情勢でたどるオリンピック史』(平凡社新書)

不正を行った者には以後のオリンピア大祭から追放されるとともに罰金が科せられた。これを資金源としてオリンピアに「ザーネス」と呼ばれる、不正を象徴する見せしめのゼウス像が建てられたが、記録によれば最終的に11体までつくられたという。

古代オリンピックが消滅した直接の原因はローマ帝国によるキリスト教の国教化である。ローマ帝国は313年にキリスト教を公認し、392年に国教とした。これを受けて、テオドシウス帝は392年に異教祭祀全面禁止令を発し、異教徒のゼウス神崇拝と結びついたオリンピア大祭は禁止され、393年に開催された第293回が最後の古代オリンピックとなった。

古代オリンピック消滅の背景には、ゲルマン人やヴァンダル人など異民族の侵入により、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」が崩れ、ローマ帝国はもはやオリンピア大祭の開催を支援しきれなくなったという事情もあった。すなわち、古代オリンピックの消滅は古代地中海世界の枠組みの終焉を意味する。

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村上 直久(むらかみ・なおひさ)
元時事通信記者
1949年生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。75年時事通信社入社。編集局英文部、外国経済部で記者、デスク。米UPI通信本社(ニューヨーク)出向、ブリュッセル特派員を経て、2001年に退社後、長岡技術科学大学で14年間、常勤として教鞭を執る。専門は国際関係論。定年退職後、時事総合研究所客員研究員。学術博士。日本記者クラブ会員。 著書に『国際情勢テキストブック』(日本経済評論社)、『WTO』『世界は食の安全を守れるか』『EUはどうなるか』『NATO 冷戦からウクライナ戦争まで』(以上、平凡社新書)など。

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(元時事通信記者 村上 直久)

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