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利き腕を失ったけれど、もう一度みんなと野球がしたい…闘病生活を続ける「元近鉄戦士」が今も悔やむこと

プレジデントオンライン / 2024年8月11日 9時15分

力投する近鉄先発の佐野重樹(1999年7月8日、大阪ドーム) - 写真=時事通信フォト

絶望的な状況に追い込まれても、決してあきらめない人がいる。元プロ野球選手の佐野慈紀さんは、今年5月、病のため利き腕である右腕を失った。今、彼は何を思うのか。ノンフィクションライターの長谷川晶一さんによる『プロ野球アウトロー列伝 異端の男たち』(大洋図書)より、佐野さんへのインタビューの一部を紹介する――。

■中継ぎ投手として初の1億円プレーヤーになった投手

入団時、バファローズを率いていたのが仰木彬だった。佐野は1年目から38試合に登板。6勝2敗2セーブという好成績を残した。仰木は佐野を評価していたのだ。

「いえいえ、“評価している”というよりは、仰木さんはすごくゲンを担ぐ人なんです。僕が挙げた6勝はほとんど逆転勝利でした。勝ち運があって、体力があるから起用されただけなんです(笑)」

このとき、佐野の能力を最大限に引き出してくれたのが女房役の光山英和である。きっかけはルーキーイヤーの91年、シーズン半ばに訪れた対ライオンズ戦だった。

「コントロールには絶対の自信があったので、開幕一軍に残れて何試合かは無難に投げていました。でも、ある日の西武戦ではいつものピッチングが全然通用しない。ほぼKO状態の一死満塁で秋山(幸二)さんを打席に迎えました……」

マウンド上の佐野は「明日からは二軍だな……」と覚悟を決めていた。と同時に「どうせ二軍に行くんなら、秋山さんと真っ向勝負したる」と考えた。

「アウトコースのスライダーという光山さんのサインに首を振って、インコースばかり投げました。全部、インコースにストレートを投げた結果、レフト線にタイムリーツーベースを打たれて、結局試合をぶち壊しました……」

■名将・仰木彬から言われたひと言

ようやくライオンズの猛攻が終わり、ベンチに戻ると、光山は「何で真っ直ぐばかり投げさせるんだ」と、仰木から激しい叱責を受けることとなった。

「でも、光山さんは何も言わずに黙って怒られているんです。で、謝りに行ったんです。すると光山さんは、“えぇねん。お前、あんないいボール投げれるなら、これからはもっと投げてこいよ”って言ってくれたんです。あのときは本当に嬉しかったし、感激しました」

結局、佐野は二軍に降格することはなかった。仰木もまた「お前、ようやく思い切り投げられるようになったな」と言ってくれたのだという。

「それからは、“もう光山さんに恥をかかすわけにはいかない”って思いが強くなりました。元々、コントロールはよかったので、結果も伴っていたし、勝ち試合にも使ってもらえるようになったんです」

物事に動じることなく、ピンチの場面でも腹を括ることができ、楽天的に、そして前向きに考えることのできる佐野はプロ向きの性格だったのである。

■居心地がいいチーム

佐野にとって、当時のバファローズは実に居心地がいいチームだった。

「僕はピッチャーなのでピッチャー陣といつも一緒に過ごしていました。みんな仲がよくて、壁がないんです。技術的なことに関しても、“プロならば盗んで覚えろ”ということはなく、自分の経験や情報は何でも教えてくれる。その代わりに、“そこから這い上がれるかどうかはお前次第やぞ”という雰囲気がありました。遊び過ぎたときにはきちんと“ダメなものはダメだ”と叱ってくれる。すごく居心地がいい空間でした」

しかし、佐野にとっての幸福な時代は長くは続かなかった。92年限りで仰木が退任すると、後任の鈴木啓示監督への不満が次第に大きくなっていく。

「結論から言うと、鈴木監督には完全に反発していました。鈴木体制になってから野手の雰囲気がおかしくなって、さらにピッチャー陣の調整に口出し始めてからは、“こんな野球で勝てるはずがない”って、監督を見下し始めてしまったんです」

94年開幕戦、バファローズはライオンズに敗れている。戦前には「野茂と心中する」と口にしていた鈴木監督は、先発の野茂が好投していたにもかかわらず、9回ピンチの場面で急遽、赤堀元之にスイッチした。しかし、伊東勤に逆転満塁サヨナラホームランを浴びてチームは敗れた。

藤井寺球場
藤井寺球場(写真=Gomurafuji/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons)

■あれだけ楽しかったチームなのに…

「あの日、チームの主砲である石井(浩郎)さんのホームランでリードしていたのに、途中で石井さんを交代させてしまった。さらに、ライトの鈴木(貴久)さんも代えてしまった。鈴木さんは打撃はもちろん、すごく守備もいいのに代える理由がわからなかった。西武との大事な開幕戦で野手の主力を次々と外し、最後には野茂まで交代してしまった。開幕早々、いきなり石井さんを潰した、鈴木さんを潰した、さらにエースの野茂も、リリーフエースの赤堀も潰してしまった。完全に選手たちの心は離れていきました」

鈴木監督時代に、かつての仲間たちは散り散りになった。95年から野茂はメジャーリーガーとなり、吉井理人はヤクルトスワローズに移籍する。気心知れた仲間たちが少しずつチームを去っていく。それでも佐野は、鈴木監督時代にキャリアハイの成績を残している。

本人が述懐する。「不信感しかなかったから反発しただけですよ……」

仰木監督時代を振り返ると「本当にいい仲間と楽しい時間だった」と語った。しかし、仰木が去った後となると「反発と不信感ばかりだった」と表情が曇る。

「先輩たちは頼りになるお兄ちゃんという感覚でした。ヤンチャな弟たちに、自由に好き勝手にやらせてくれる雰囲気がありました。でも、どんどんみんながチームを離れていく。あれだけ楽しかったチームなのに、少しも楽しくない。そんな中で、気がつけば自分たちがチームの中心選手となっていました」

それは、バファローズへの愛があふれる発言だった。

■すべては「近鉄愛」ゆえに

97年、現役プロ野球選手でありながら、映画『恋と花火と観覧車』に出演した。撮影時は28歳だったが、41歳独身で糖尿病もちの電気屋のおっさん「海老原義和」役での出演だった。後に糖尿病に苦しむことになる佐野にとっては皮肉な役回りであった。

「この頃、オフシーズンになるととんねるずのタカさん(石橋貴明)の番組に呼ばれる機会が多くて、それをきっかけに秋元康さんと知り合いになりました。で、“今度、映画を作るんだけど、出てみない?”と誘われたので出ることにしました」

現役選手が映画に出ることには賛否両論があった。しかし、この頃の佐野には「メディアに出て目立ちたい」という確たる思いがあった。自己顕示欲を満たすためではない。「近鉄のために」という思いがあったからである。

「阿波野さんがいなくなり、吉井さんがチームを去って、野茂もいなくなった。チーム成績も低迷していたので、新聞記者もほとんど姿を見せなくなった。僕としては、“近鉄はこんなにいいチームなのに、どうして注目されないんだろう?”という悔しさがありました。それでこの頃は、“オレが近鉄を背負っているんだ”と勝手に使命感を感じていましたね」

■野茂英雄への懺悔

後に「ピッカリ投法」と名づけられる、自身の薄くなった頭髪をアピールするピッチングフォームで注目された。佐野にとって、仰木時代のバファローズは青春であり、プロとしての刺激を味わうことのできる至福の時期だった。

しかしその後、盟友である野茂との金銭トラブルが週刊誌を賑わせたことは記憶に新しい。野茂の好意で借りた金の返済を怠り続けたのだ。

「この件について、僕から言えることは何もないです。全面的に僕が不義理をしました……」佐野の口は重い。

長谷川晶一『プロ野球アウトロー列伝 異端の男たち』(大洋図書)
長谷川晶一『プロ野球アウトロー列伝 異端の男たち』(大洋図書)

「信用を取り戻すことは簡単ではないと思います。でも、きちんと誠意を持って接しているつもりです。もう一度昔の仲間とは堂々と顔を上げて会いたい。もうこれ以上、野茂も、昔の仲間も、ファンの人たちも裏切りたくない。それが今の率直な心境なんです。もしも許されるのならば、もう一度野茂と向き合って、きちんと謝罪がしたいです……」

薄くなった頭髪をネタに「ピッカリ投法」を披露していた頃とは打って変わった神妙な面持ちで佐野は言った。

……以上が2021年に行ったロングインタビューにおける佐野の発言である。それから3年が経過して、「右腕切断」というショッキングな現実の中で、彼は現在も闘病生活を続けている。

■「左手一本でも必ずもう一度再現します」

「最初に言ったように、まだまだ“受け入れる”という境地には達していません。でも、僕は野球人なので、これからも野球を通じて生きていくつもりです。あのピッカリ投法も、左手一本でも必ずもう一度再現します。約束します、僕は野球人ですから」

右腕を切断した佐野慈紀氏
写真=「佐野慈紀のピッカリブログ」より

かつて行ったインタビューでは、「近鉄愛」が、そこかしこに現れていた。その近鉄も、04年の球界再編騒動で姿を消した。かつて佐野はこんなことを言っていた。

「僕は2003年の1シーズンだけオリックスに在籍したから、余計に強く感じるんですけど、やっぱり、近鉄とオリックスは別のチームです。近鉄というチームは一度も日本一を経験することなく消滅しました。もちろん、一OBとして“近鉄として日本一になりたかった”という思いはありますけど、正直言えば、“仰木監督の下、あのメンバーで日本一になりたかった”という思いの方が強いです」

このとき、「もしも生まれ変わるとしたら、再びプロ野球選手になりたいですか?」と尋ねた。佐野は静かな口調で言った。「どうですかね、もう近鉄はないんでね……」その答えを受けて、「もしも近鉄が今も存在していたら?」と続けた。

「……近鉄が今もあれば? もちろんプロ野球選手になりたいですよ。いや、“近鉄に入りたい”というよりは、“あのメンバーで野球がしたい”という思いですね。あのときの近鉄は本当にいいチームだったから……」

■プロ野球ファンにどうしても伝えたいこと

大きな手術を終えた直後であるにもかかわらず、いや、大病を経験したからこそ、佐野の胸中には「自分は野球人なのだ」という思いが色濃くにじんでいた。

闘病生活はしばらくの間続く。それでも、彼の胸の内には「野球人である」という誇りがある。二度目のインタビューの最後に、入院中の佐野はこんなことを口にした。

「野球ってね、楽しいものなんですよ……」

続く言葉を待った。

「……ファンの人からすれば、見ていて腹が立つこともたくさんあると思うんです。そのときに、一喜一憂するのは当然のことだと思うんですけど、でも最後には“今日も野球って面白かったな”って思ってほしい。そう思ってもらえることで、たとえその日失敗した選手でも、明日からまた頑張れるんです。それだけは改めて伝えたいです」

それは、自らを「野球人」と語る男の心からの思いだった。この思いがある限り、彼は決してファイティングポーズを取ることをやめない。「野球ってね、楽しいものなんですよ……」不屈の野球人――佐野慈紀の、野球に対する熱い思いはさらに燃え盛っている。

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長谷川 晶一(はせがわ・しょういち)
ノンフィクションライター
1970年、東京都に生まれる。早稲田大学卒業後、出版社勤務を経て、2003年からノンフィクションライターとして、主に野球をテーマとして活動を開始。主な著書として、1992年、翌1993年の日本シリーズの死闘を描いた『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『プロ野球語辞典シリーズ』(誠文堂新光社)、『プロ野球ヒストリー大事典』(朝日新聞出版)などがある。また、生前の野村克也氏の最晩年の肉声を記録した『弱い男』(星海社新書)の構成、『野村克也全語録』(プレジデント社)の解説も担当する。

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佐野 慈紀(さの・しげき)
元プロ野球選手
1968年4月30日生まれ、愛媛県松山市出身。本名・旧登録名は佐野重樹。松山商業高校では3年次に夏の甲子園準優勝、近畿大学工学部ではエースとして広島六大学リーグ10連覇に貢献。90年ドラフト3位で近鉄入団し、初年度から一軍の中継ぎ投手として活躍した。中日、オリックスを経て03年限りで現役引退。右投右打、身長175cm・体重87kg。

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(ノンフィクションライター 長谷川 晶一、元プロ野球選手 佐野 慈紀)

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