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原爆が奪ったのは14万人の命だけではない…一瞬で瓦礫の山になった広島城天守が往時の姿を取り戻すまで

プレジデントオンライン / 2024年8月6日 8時15分

広島城天守閣(写真=長岡外史/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。歴史評論家の香原斗志さんは「原爆は人命だけでなく、街の歴史も思い出もすべて奪った。例えば、広島の歴史と共に歩んできた広島城天守は、一瞬にして跡形もなくなってしまった」という――。

■壮麗な5重の天守が一瞬にして崩れ落ちたときの音

いまからちょうど79年前の昭和20年(1945)8月6日。朝から晴れ渡っていた広島市上空に1発の原子爆弾が落とされた。地上600メートルで閃光を放って炸裂したその爆弾は灼熱の火球となり、熱波が四方へ走った。爆心地周辺は地表面の温度が3000度から4000度に達したという。

一瞬にして広島という歴史ある都市を壊滅させ、その年の暮れまでに推計で14万人の命を奪った1発の爆弾。爆心地から北北東に約400メートルから1200メートルの位置にあった広島城もまた、ひとたまりもなかった。

本丸上段に現存し、当時の国宝に指定されていた5重5階の天守と付属する東走櫓はもちろん、本丸下段に残っていた裏御門の一部や中御門、そして二の丸の表御門、平櫓、多門櫓、太鼓櫓は、文字どおり一瞬にして失われてしまった。

広島市編『広島原爆戦災史』第二巻には、このとき、天守の北方の陸軍幼年学校内にあった軍医部の分室から校門を出ようとしていた、増本春男衛生上等兵の以下のような目撃談が収録されている。

「モウモウと舞い上がる砂塵のなかで、息のつまるような一瞬、聳え立つ五層の天守閣の崩れ落ちるもの凄い音が聞こえてきた。それはちょうど、山頂から無数の木材が、一度に転げ落ちて来るように、ドドドドー、ドドーと不気味に地面に響き伝わった」

■塩となって市民の糧になった

崩れた櫓や門は、まもなく炎に包まれ焼失してしまった。しかし、天守と東走櫓は焼けることはなく、石垣の上やその周囲に、残骸の山になった無残な姿をしばらくさらしていたという。だが、昭和21年(1946)11月に撮られた写真では、すべて片づけられてしまっている。木材はどうなったのだろうか。

それらは持ち去られ、主としてバラックを建てるための建材として、あるいは火を燃やすための薪として使われたという。昭和38年(1963)8月2日付の中国新聞には、「広島市教委の資料によると、昭和21年6月、佐伯郡水内村の人に天守の松角材五千本、杉の立ち木三十四本を譲渡」と書かれている。

また、『広島市四百年』には、家具製造業者が、これらの木材の多くの払い下げを受けて製品化したという話や、食糧事情を改善するために、木材が燃料として製塩業者に払い下げられ、国宝が塩になって市民の糧になった、という話も紹介されている。

残骸の山となっていようが、天守を構成していた木材が残っていれば、使用可能なものを組み、そこに新材も加えて、天守を再建することもできたかもしれない。しかし、被爆後の厳しい状況のなかで、天守の残材が、広島の人たちが生きるために使用されてしまったのは、致し方ないことだった。

■豊臣秀吉の大坂城を意識した

この天守は、昭和20年6月29日の空襲で焼失した岡山城(岡山県岡山市)と並ぶ、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以前の建築で、すこぶる価値が高いものだった。

毛利輝元は天正16年(1588)夏にはじめて上洛し、豊臣秀吉が築いた聚楽第を見物。続いて、秀吉に大坂城天守にも招かれている。広島城はこの上洛でカルチャーショックを受けたのちに築かれ、天守も秀吉の建築を模倣した可能性が高い。

文禄元年(1592)4月、朝鮮出兵の拠点となった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に向かう秀吉が、広島城に立ち寄っている。天守はそのときまでに完成していた可能性が高く、そうであれば秀吉もその姿を眺めていた。あるいは、なかに入ったかもしれない。

広島城天守の特徴だが、まず天守台の石垣は、平面がゆがんだ不等辺三角形である。これは石垣築造技術が未熟だった文禄(1592~96)から慶長(1596~1615)初期のころの特徴だ。そこに、石垣の平面に合わせて平面がゆがんだ2階建てを置き、大きな入母屋屋根をかけ、その上に3重3階の望楼が載せられた。望楼部分は別の建築を継ぎ足したかたちなので、下の階のゆがみは踏襲されていない。

壁面は1階から4階まで下見板が張られ、窓は外側に突き上げる板戸が釣られた格子窓で、当初は下見板には黒漆が塗られていたとみられる。しかし、5階だけは白漆喰に柱や長押を露出させた真壁で、各面の両脇に釣り鐘型で装飾的な華灯窓がもうけられ、廻縁がしつらえられた。とりわけ5階の外観は、秀吉の大坂城に酷似していた。

■桃山時代の威風を継承した美しい建築

また、屋根には三角形の屋根飾りである千鳥破風が8つもつけられた。関ヶ原以前の天守としては数が多く、非常に装飾的な外観だった。

一般には、破風は建築構造と一体のもので、このため内部には「破風の間」がもうけられ、防御のためのスペースとして活用された。しかし、広島城天守の破風はすべてが純然たる装飾で、建築構造とからんでいないので破風の間もなかった。

その理由について、広島大学名誉教授の三浦正幸氏は次のように書く。「(毛利輝元が)天守の内部構造を知らずに、大坂城に多数あった入母屋破風を誤認して飾りだけの特異な千鳥破風にしてしまったらしい」。しかし、「誤認」のおかげで、華麗な姿が創出されたということもできる。創建された当時は、軒先の瓦や鯱には金箔が貼られていたようだ。

毛利輝元画像
毛利輝元画像(画像=毛利博物館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

大天守の高さは26.6メートルで、秀吉の大坂城の約30メートルにはおよばなかったが、創建当初は東方と南方に3重3階の小天守が連結し、明治維新を迎えるまで、その姿がたもたれていた。小天守をふくめた規模では大坂城にも負けないほどで、実際、秀吉から直接影響を受け、桃山時代の威風を継承した美しい天守だった。

■「廃墟の姿こそ価値がある」という意見

原子爆弾の非人道性はいくら強調してもしきれない。その最たるものは、いうまでもなく14万人と推計される人々の命を奪ったうえ、被爆者を苦しめ続けたことである。それにくらべれば、文化財の喪失は小さなことかもしれない。しかし、私はそれ自体にはなんら罪がないこの宝石のような天守を倒壊させた一事をもってしても、原爆とそれを落としたアメリカが許せない。

原爆投下直後の広島城
原爆投下直後の広島城(写真=アメリカ陸軍航空隊/GlobalSecurity.org/PD US Air Force/Wikimedia Commons)

米軍の攻撃によって失われた天守は、名古屋城(名古屋市中区)、岡山城、和歌山城(和歌山市)、大垣城(岐阜県大垣市)、水戸城(茨城県水戸市)、広島城、福山城(広島県福山市)の7棟で、水戸城を除く6棟は戦後、再建された。

その先頭を切って、昭和33年(1958)3月に竣工したのが広島城だったが、地元の思いは複雑だったようだ。再建の構想が持ち上がったとき、広島県文化財専門委員会では反対意見が多数を占めたという。「原爆で廃墟になった広島城の姿にこそ文化財としての価値がある」というのが、その理由だった。

また、いざ再建の方針が決定してからは、当時は木造のほうが建設費用を安く抑えられたのだが、「火災に弱い」という理由で退けられた。天守が焼失したほかの城も同様で、戦争の記憶が生々しい時期だっただけに、二度と失われず、ずっとその地にそびえるように、という願いが強かった。このため耐火性、耐久性を優先し、鉄筋コンクリート造で外観だけが復元されたのである。

幸い、広島城天守に関しては、戦前に国が作成した実測図が残っていた。外観を復元するにあたってはそれを土台に、ごく細部のデザインや寸法は、古写真のほか同じ時代に建てられた現存建造物などが参考にされたという。

■木造による復元計画が進んでいるワケ

ところで、再建された当時は、鉄筋コンクリート造は耐火性が高いだけでなく、耐久性に関しては半永久的だと考えられていたが、現実にはそうではなかった。令和元年(2019)に行われた耐震診断調査で、震度6強から7程度の振動や衝撃に見舞われた場合、倒壊または崩壊する危険性が高いという結果が出た。

このため、広島市の松井一實市長は、鉄筋コンクリート造の天守を取り壊し、あらたに木造で復元すると表明した。令和7(2025)年度まで、有識者会議を何回か重ね、どの年代に合わせて復元するか、どこまで復元するか、といった課題を整理することになっている。

令和2年(2020)の時点での試算では、木造による復元には86億円かかるとされている。その後、費用はさらに高騰していると思われる。技術的な問題に加えて、それをどうやって賄うのか、難題ではある。

しかし、失われた天守のなかでも、とりわけ価値が高かった建造物である。忌まわしい原爆の記憶を克服する一助としても、戦前の雄姿が木造で精密によみがえる日が訪れることを願わざるをえない。

明治時代の絵葉書に描かれた「大天守」
明治時代の絵葉書に描かれた「大天守」(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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