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全離婚者の5分の1以上が「熟年離婚」の中、52歳エッセイストが離婚予定の夫と「10年ぶりの二人暮らし」始める訳

プレジデントオンライン / 2024年8月28日 8時15分

■信頼する夫から受けた一撃で不安障害に

私たち夫婦は、まだ夫婦修行の道半ば。オーストラリアから帰国する夫と約10年ぶりに二人暮らしをする予定で、私は東京で彼を迎える準備をしているところです。

夫とは2000年に結婚しました。3年間の同棲を経ての結婚です。夫は1960年代生まれの男性としては珍しく、あらゆる家事をこなせる人でした。3年後に長男が生まれてからも、家事と育児の担い手が2人いる状態。長男の子育ては順調に始まりました。

ところが1年ほどしてから、何ら問題のなかった夫婦の信頼関係が崩壊するようなできごとが起きました。夫のプライバシーでもあり詳しいことはお話できませんが、彼が女性をモノ扱いして、女性の尊厳を軽んじるようなことをしたのです。

やっと安心できる家庭を手に入れて、結婚してよかったと思っていた矢先のこと。夫という世界で最も信頼していた相手から思いもしない一撃を受けたのです。生まれ育った家族との関係や仕事の悩みでカウンセリングを受けていたうえに、初めての育児と職場復帰への不安で心身ともに限界だった私のメンタルはついに崩壊、不安障害というメンタルの病気を発症しました。

夫には、離婚を申し入れました。とはいえそんな状態で、とても一人で育児をする自信はなかった。育児面ではとてもいいパートナーである夫なしでは、やっていけないという気持ちもありました。彼からも懇願され、最後は離婚を引っ込めました。いろいろな思いを頭の中の押し入れに押し込んで、扉を閉めたのです。すべてなかったことにしよう。こんなことはきっとどこの男性もやっていること、傷つくほどの事件でもないんだと、自分に言い聞かせていました。

13年、夫婦のバランスが変わりました。彼が仕事を離れたのです。長年テレビ業界で忙しく働いてきた彼は、一度仕事と距離を置いて人生を俯瞰したいと考えたようでした。そんな彼の気持ちはわからないではなかった。私も働き方を変えたいとか、自分は何をしたくて働いているんだろうと考えた末に、その3年前に会社を辞めて独立していましたから。ところがいざ夫が無職になると、私の中に強烈に刷り込まれていた「男は稼ぐべき」という価値観が顕在化していったのです。「誰のおかげで食べていけると思っているの?」「働いてお金を稼ぐって大変」……気がつけば、そんな言葉を夫にぶつけるようになっていました。

同時に04年に押し入れに封印したはずの思いが、この頃になって再び頭をもたげてきました。それまで夫は一緒に家計を支える仲間。だから協力していい関係で家を回さなくちゃいけなかった。でも今は自分が経済的強者に。今ならあのときの仕返しができると、私は彼をいじめました。

このままいけば自分は人間でなくなると思いました。おそらく今自分は、彼が収入と肩書をなくしたことを受け入れられずにいる。そこで視点を変えて、彼が無職になって得たものに注目することにしました。それは時間と移動の自由。そうか、夫が仕事を辞めたおかげで、こんな貴重なものが手に入ったと考えることもできるのか……。

■オーストラリア移住と家族会議で出た結論

父の仕事の関係で、私が生まれてから3歳まで住んでいたオーストラリアのパース。息子2人と夫はそこで暮らし、私は東京で働く2拠点生活はどうだろう。そう夫に提案すると「とってもいい」と賛成してくれました。

そうして14年の2月に、夫と息子たち2人の生活拠点をパースに移し、私は東京で3週間働いて3週間パースに戻るという“渡り鳥母さん”の生活が始まりました。

その結果、夫婦関係にはさまざまな変化が起こりました。一番のプラス面は、決して英語が堪能ではない彼が、知り合いが一人もいない国で家を借り、インターネットを引き、子供たちを公立小学校に通わせて、寂しい思いをさせることなく新生活を立ち上げたこと。この人は頼れる人だ、尊敬できる人だと思えるようになった。これは大きな変化でした。

ただしその後だんだん子供たちが成長してきて、パパママの役割が減っていくようになると、再び私の古井戸の蓋が開いてしまったのです。18年くらいだったと思います。04年のできごとを、「なんであんなことをしたわけ?」と、再び問い詰めるようになりました。

そんな私に彼は、「申し訳なかった。俺なんか死ねばいい」と紋切り型で繰り返すばかり。でもそれでは思考停止です。私が求めていたのは謝罪ではない。彼にしてほしかったのは、自身がしたことと向き合って、胸の中にあるものを言語化し、可視化し……そしてそれがなぜ起きたのか、するべきことは何かを考えてほしかった。逃げずに考えて、行動してほしかったのです。

そんな夫との不毛なコミュニケーションがそれから延々続き、私のメンタルは限界に達していました。その年の12月だったと思います。日本で一人で過ごしているときにふと、あ、今なら死ねると思いました。親しい友人が自殺防止の専門家でもあるので電話をかけ、状況を説明すると「家族会議をしたほうがいい」と助言をくれました。年末にパースに戻ったときに、小5と中2の息子たちも交えた一家4人で、話し合いの場を持つことにしました。

【図表】小島慶子さんと家族の歴史

そこで私は、過去に起きたことを子供たちに全部話しました。夫が何をやったか、なぜ私が辛いのか、夫婦の間で起きていることを説明しました。

「今私は精神的に追い詰められて、どうすればいいのかわからなくなっている。彼とはお別れしたいと思うけど、離婚は君たちの問題でもある。だから君たちの気持ちを聞かせてください」

息子たちの答えはこうでした。パパがしたことはひどいこと。だけどパパは僕たちにとっていいお父さんでもある。だから僕たちが大学に入るまでは離婚はしないでほしい。そしてママには死なないでほしい、と。そうして彼らが大学に行くまでは離婚せず、今の形の家族でいることになりました。

このとき夫に意見を聞いても、壊れた機械のように「申し訳ない」と言うだけ。そんな彼の姿に、哀れさを感じるようになりました。夫は特別な悪人ではなく、ごく平凡で善良な男性です。その彼がなぜこんなにも言葉を持たず、自分と向き合うことを恐れるのか。きっとこれは、彼だけの問題ではないはずだ。ここから私の関心は、誰が・何が夫をこんなふうにしたのかに向けられるようになったのです。

子供の頃、彼はどんな人生を望んでいたのか、何がそれを阻んだのか。私を壊した彼の行動は何ゆえだったのか。女性に線引きをして、モノのように扱っていい女性とうんと大切にする女性とを分け、全く異なる態度をとるような振る舞いを、彼は一体どこで、何によって学習したのか。人権という概念をなかなか理解できないのはなぜか。考え続けました。対象を研究することで、夫婦関係の苦しさから少しずつ自由になれることも知りました。

次にやってきた夫婦の節目はコロナ禍でした。約2年間、オンラインでしか会えなかったことで、関係にも変化が生まれました。自分や相手が死ぬかもしれないと思って夫婦関係を考え直してみたら、なかなか大きな存在なんだということもよくわかった。夫はあまりにも多くの経験を共有した相手でもあり、教育移住という大冒険を成し遂げた仲間でもありました。

同時に彼も、いろいろなことを考えたのでしょう。それまでも夫に人権とは何かとか、構造的な性差別や無意識の偏見について知ってほしいと、いろんな記事のリンクを送っていたんですね。つまり、妻を大切にしているつもりだった彼が、なぜ一方で「モノ扱いしていい女性がいる」と思っていたのか、その理由を自力で考えてほしかったのです。でもずっと反応はなし。ところがコロナ禍が始まった20年ぐらいから、だんだん夫が学習し始めるようになったのです。私が送った動画の意味がわかったと詳しい感想を知らせてきたり、知らぬ間に上野千鶴子さんの本を読んでいて、これ面白いよと私に勧めてきたり。借り物ではない、彼自身の素直な感想を文字にして送ってくれるようになりました。

そうしてちょうどコロナ禍が明け、世の中が回り始めたタイミングで、子供たちは大学進学し、私の日豪渡り鳥生活も今年で終わりを告げました。10年間オーストラリアで子育てに専念した夫も、「日本に帰ってまた働こうかな」と言うようになった。ちょうど去年の暮れに、じゃあ、今後どうします? と、あらためて夫婦のことを考える機会が訪れたんですね。

約束通りお別れという方法もあったと思います。でも2〜3時間の長い電話の結果、「また2人で暮らしてみますか」と、別れない決断をしました。

まだ経済的に自立していない夫を放り出すことはできないし、子供たちとの記憶をシェアできる人は、世界中で彼しかいない。あとはコロナ禍の間にいろいろ勉強してデジタルスキルを高めた彼と、これから一緒に仕事ができると思ったことも理由です。

■夫婦における「愛」その幻想の正体は何か

夫婦関係に不安があって、お別れする決断をした人もいるでしょう。その選択肢はもちろんありだと思います。たとえお別れしても、その人と関わった月日が全部無駄だったわけではないですよね。毎日の暮らしの中で、楽しかったことも苦しかったことも、いろいろなものを見たと思います。熟年離婚をしても、私の人生は失敗だったとか、俺の人生は空っぽだとかって自責の念を持たないでほしい。十分に得たものがあったはずです。

たぶん、私も含めて、繰り返し刷り込まれてきた「愛情」という言葉の意味を考え直すところから行わないといけない。愛は苦しいもの、愛は凄まじいもの。愛は、甘くて美しくて幸せいっぱいな目指すべき理想郷ではなくて、苦しいとか、しんどいとか、許せないとか、寂しいとか、悲しいとか、さまざまな負の感情とされるものを必ず味わう滋味深い修羅道です。人と関わるというのは、そういうことですから。

私も、シンデレラの亡霊が心のなかにいますから、こんな辛い目に遭わされた相手と関わってしまった自分の結婚は失敗だったのだと後悔したことは何度もあります。でもそうではない夫婦が一体どれほどあるでしょうか。そしてそういう経験は果たして「失敗」なのでしょうか。

愛という言葉のイメージに惑わされないことも大事。「私とあなたの間にあるもの、これは愛なの? 愛じゃないの?」ではないのです。「自分が愛だと思っているものは、本当は何なのだろう。愛という言葉の解釈は、これで合っているの? 間違っているの?」から始める。そもそも愛なんて言葉にならないものだし、そのイメージは、昔見たトレンディードラマとか、結婚式のスピーチとか、いろいろなところで繰り返し学習した幻想です。だからその幻想の正体を可能な限り言語化して可視化する、つまり頭の中で客観的に扱えるようにすることから始めるのがいいのではないでしょうか。

また、相手への不満を頭の中で具体的に言葉にしてみることが大事だと思います。自己分析ですね。モヤモヤや衝動をなるべく細かく分解して、構造を眺めてみる。それを相手に伝えるかどうかはまた別の問題で、まずは自分で言語化することで、問題点が整理されるのです。とるべき行動の選択肢もいくつか見えてきます。

最近私は、単身者用のワンルームマンションから、夫婦2人向けの物件を探して引っ越しました。実はつい先週まで、この広くない居住空間に夫がいて、大きなくしゃみでもされたら耐えられないのではないかしらと、不安になることもありました。

【写真】2017年頃、オーストラリアで夫と。

その思いにちょっとした変化が起きたのは、先日ヘトヘトになって深夜に帰りついた東京のマンションで、ゴミ捨てのために乗ったエレベーターでのこと。同年代のご夫婦と一緒になったのです。エレベーターの「開く」ボタンを押してもらいながら、私にも夫がいるんだよなと、ふと思いました。一緒にゴミを捨てに行ける人がいるって、いいものだなと素直に思えたのです。

ただいまって言えるとか、美味しいものを一緒に食べるとか……過去の痛みも抱えつつ、小さな喜びをシェアする関係。悪くないなと、そんなことを実感を持って思えるようになりました。とはいえここ1週間のことです。なりたてのほやほやですね。

夫はこんどの冬には、帰ってくる予定です。

※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年8月16日号)の一部を再編集したものです。

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小島 慶子(こじま・けいこ)
タレント、エッセイスト
学習院大学法学部政治学科卒業後、95~10年TBS勤務。99年第36回ギャラクシーDJパーソナリティ賞受賞。独立後は各メディア出演、講演、執筆活動を幅広く行う。ジェンダーや発達障害に関する著述や講演をはじめ、DE&Iをテーマにした発信を積極的に行なっている。2014年より家族はオーストラリア、自身は日本で暮らす。連載、著書多数。近著に対談集『おっさん社会が生きづらい』(PHP新書)。

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(タレント、エッセイスト 小島 慶子 構成=福光 恵 図版作成=大橋昭一)

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