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「体にメスは入れない、延命治療や葬式はしない」享年81の中尾彬が医師に"してほしい"と願った最期の迎え方

プレジデントオンライン / 2024年8月17日 10時15分

池波志乃 女優。1955年、東京都生まれ。5代目古今亭志ん生を祖父に、金原亭馬生を父に噺家一家で育つ。1978年、俳優の中尾彬さんと結婚。おしどり夫婦として有名になる。今年5月16日、自宅で1人中尾さんを看取る。

■夫婦の“覚悟”が固まった瞬間

看取りには、必ず後悔がつきまといます。終活に取り組んで、お互いがどんな最期を望んでいるのかを知り、いくら準備をしたとしても、それは変わらないはずです。私は夫婦で終活ができて、本当によかったと感じています。その一方で、後悔もあります。中尾が逝って2カ月が経ちましたが、私のなかには割り切れない複雑な思いが残っているのです。

私たち夫婦が終活をはじめるきっかけは2006年9月のことでした。家族3人が次々と倒れたのです。

まず私が筋肉に命令が伝わらずに末梢(まっしょう)神経が痺(しび)れて動かしにくくなるフィッシャー症候群で動けなくなり、病院に運び込まれました。2カ月後、私の回復を待つようにして、同居していた母がかねてから患っていたガンで亡くなり、翌年中尾が意識を失ってICUで急性肺炎の治療を受けました。

その頃なのかもしれません。私たち夫婦の覚悟が固まったのは――。

私たち夫婦には子どもはいません。親戚や妹たちに迷惑をかけられない。いつか夫婦2人で、さらに中尾は私よりも一回り以上年上ですから最後には私ひとりで、なんとかしなければならないのだ、と。

中尾も同じ気持ちだったのでしょう。とはいえ、夫婦で「終活しよう」と改めて相談したわけではありません。

私たち夫婦は、毎晩2時間くらい晩酌しながらお話をしていました。いろいろな話をするなかで、どちらともなく、そろそろ片付けはじめようという話題になりました。そうして、遺書を書き、お墓を建てたのです。

次に2人の持ち物を書き出していきました。不動産、日用品、中尾の絵が数十点、それにたくさんのネジネジ……。若い頃は一生懸命に働いて、あれも欲しい、これも欲しい、とたくさんの物を買いました。でも、年齢を重ねて、持ち物を整理してみると「こんなにあってどうするの?」と感じるほど執着がなくなってしまうのです。

不動産をはじめ、食器などの日用品、本や写真などを整理していくうち、知り合いに「それって終活ですね」と言われて「そうか、これが終活なのか」と逆に気づかされたのです。

東京・谷中のとあるお寺に建てたお墓
東京・谷中のとあるお寺に建てたお墓。中尾彬さんが自らデザイン。墓石は縦ではなくあえて横に寝かせた。

■捨てるからこそ、本当に大切なものに気づく

いま振り返ると、終活でかけがえのない2つの体験がありました。

ひとつは、夫婦で過ごした時間に改めて向き合えたこと。

たとえば昔、海外ブランドの旅行用トランクを購入しました。そうしたら、とても重たくって持ち運ぶのも一苦労。私が「どうするの?」と聞くと中尾が「これがいいんだよ」と話していました。結局、重すぎたせいで、ほとんど使いませんでした。いつしか私が掃除するときのドアストッパー代わりになって、傷だらけになってしまいました。

そんなトランクを前に「だから無駄だって言ったのに」と笑いながら昔話をするんです。そんなふうに、ひとつひとつの物にまつわる、夫婦の些細(ささい)な思い出を語り合いながら片付けました。

私たちは、46年の結婚生活を送りましたが、古い話ができるのは、長い歳月を一緒に暮らした証しであり、明るく笑い合えたのはいい関係を保てているからだという実感がわいたのです。

もうひとつ、人生の棚卸しをしていて、わかったことがあります。それが、捨てようとしても、どうしても捨てられないモノが人にはあるということ。

ある日、中尾が家を整理していたら、父の字で書かれた半紙の巻物が出てきました。私の父で落語家の金原亭(きんげんてい)馬生(ばしょう)が、ある番組で「娘さんに贈る言葉を書いてください」と頼まれて書いてくれたものでした。そのなかにこんな一節があります。

〈イザと云う時は人は助けてくれない/自分しかない/それを忘れないよう〉

若い頃、さほど考えもせずにどこかにしまい込んでいたのでしょう。見つけたあとは、後生大事に額に飾っておきました。

でも、終活をするうち、大切なのは巻物そのものではなく、父が私に贈ってくれた言葉であり、父の気持ちなのだ、とわかりました。私はこの言葉を生涯忘れないでしょう。終活とは自分にとって大切な捨てられないモノに気づく旅なのかもしれない。父の言葉との再会が、もうひとつの気づきをもたらしてくれたのです。

■「中尾は逝き方も名人だった」

中尾は81歳までがんばって生きてきました。年齢を重ねて病気もたくさんしたから、そんなに遠くない将来、老いて衰えて亡くなるか、病気が悪化して生涯を終えるか、中尾自身にも、私にもわかっていました。

あとは、どう逝くか。

中尾は私やお医者さんと相談しながら、いざというときの望みを語ったことがありました。

「足腰が痛くなり、ひんぱんに病院に通えないから主治医の先生に時々往診してもらいたい」「体にメスは入れない」「延命治療はしない」「体を管でつながれるのはイヤだけど、痛み止めはお願いしたい」「自宅で看取ってほしい」「お葬式はしない」……。

体調に波があるから、調子がいい時期は外食や旅行を楽しんだり、仕事をしたりしていましたが、年齢のせいか、調子が悪い日が徐々に増えていきました。そして5月15日に容態が急変し、翌日の夜中、自宅で私と2人のときに、本当に眠るように息を引き取りました。中尾は自分が思い描いたように、とても穏やかに旅立ったのです。「中尾は、逝き方も名人だったんだね」と褒めてあげたいほど見事な亡くなり方でした。

それでも感じるのです。

人はいつか必ず亡くなります。それはわかっていましたが、私にとっては、あまりに急な別れでした。もっと長生きしてほしかった。もっと何かしてあげられたのではないか……。うらやましいほど立派な最期だったと言いながらも、どうしても後悔が募ります。いえ、最愛の夫の看取りを経験したいま、後悔がない看取りなんてありえないのかもしれないと考えるようになったのです。

■終活のおかげでわかった最愛の人の最期の望み

私たち夫婦は中尾が亡くなるまで、18年近くかけて終活をしてきました。もちろん人は予定通りに逝けません。いよいよの時が迫ってきてから終活をはじめても、きっとうまくいかなかったでしょう。

体調が悪化して気が塞いでいるときは、目の前のことで一杯一杯で、気持ちの余裕はありません。そんなときに終活を切り出したら「何を言っているんだ」と気分を害してしまうこともあるかもしれません。そう思うと、当たり前の日常を過ごすなかで、準備を進められて本当によかったと身をもって感じています。

中尾には、私がいました。しかし私には、遺言通りに私を看取って後始末をしてくれる“私”がいません。私は、いま父の言葉を噛みしめています。自分しかない――父の言葉通り最後は、やっぱりひとりなんだな、と。

だからと言って、死に怯えるような生き方はしたくありません。そんな人生、つまらないじゃないですか。

ひとりの人生を楽しむためにも、できることは、やれるうちにやったほうがいい。それも中尾と終活に取り組んだから、わかったことです。

遺言を残す。介護が必要になった場合に備え、支援制度や施設を調べておく。信頼できる人にあらかじめお願いしておく。いつ何があってもいいように、身軽にしておくことも大切です。

最愛の人を失った寂しさや喪失感は、終活をする、しないにかかわらず、変わらなかったでしょう。ただ、もし終活をしていなかったとしたら……いまよりも、もっと深い後悔に苛(さいな)まれていた気がします。

終活のおかげで、中尾が人生の最期に何を望んでいるかわかりました。わかったからこそ、彼が望む形で、看取ってあげられました。だから、喪失感や寂しさはあれど、落ち着いた心境で中尾の死を受け止め、いまを過ごせているように感じるのです。

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池波 志乃(いけなみ・しの)
女優
女優。1955年、東京都生まれ。5代目古今亭志ん生を祖父に、金原亭馬生を父に噺家一家で育つ。1978年、俳優の中尾彬さんと結婚。おしどり夫婦として有名になる。今年5月16日、自宅で1人中尾さんを看取る。

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(女優 池波 志乃 構成=山川 徹)

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