なぜ日本軍は「神風特攻隊」をつくったのか…終戦翌日に割腹自決した海軍中将が「特攻作戦の父」と呼ばれる背景
プレジデントオンライン / 2024年8月13日 10時15分
■戦局を打開するために考案された「新兵器」
【半藤一利】マリアナ沖海戦が始まる四カ月ほど前の昭和十九年二月に、黒島亀人が、これからの戦は思い切った新兵器を導入しないと勝てないと、「特攻」用の兵器開発を発案します。徐々に海軍の頭が決死の特攻的な方向に向いていく。これがのちに回天とか震洋(しんよう)といった人間魚雷となるのですが、この段階ではあくまでも兵器でした。
【保阪正康】侍従武官だった城英一郎(えいいちろう)大佐が、体当たり攻撃を目的とする特殊攻撃隊を考案して、軍需省の航空兵器総局にいた大西瀧治郎中将に提案していますね。これが昭和十八年六月末頃のことです。大西から「まだその時期でない」と退けられていますが。いずれにせよ、ここまできたら人間爆弾で戦わざるを得ないという意見は、各所から出てきていた。石川信吾がこう言っています。
マリアナ沖海戦が済んでからだったと思うが、かつて私が第二三航空戦隊司令官当時の岡村基春(もとはる)司令がやって来て、特攻攻撃の必要を力説した。そこで、私は「飛行機の特攻攻撃はこれがほんとに最後と云う時ならよい。さもなければ、必ずこれから軍紀が乱れてくる。俺は反対だが二階の大西(航空兵器総局次長)に聞いてみよ」と言った。当時は大西中将も私の意見に同調していた。
■「特攻」が国策になった瞬間
【半藤】ですから「海軍は命令ではなくて、澎湃たる下からの要望によって、特攻に踏み切った」ということになるのですが、はたして本当にそうなのか。
昭和十九年六月、サイパン島を奪われてマリアナ諸島がいよいよダメということになり、天皇が何とか奪還できないかと下問します。大本営の結論は奪還不可能ということになったのですが、天皇は元帥会議を開くといって、伏見宮と閑院宮、永野修身と杉山元の四人の元帥を呼び、特別元帥会議を行いました。
閑院宮は病気で欠席するのですがね。そこで天皇が、なんとかサイパンを奪還しないと国の命運が尽きてしまう、というような発言をするのですが、陸海軍総長の説明を聞き、やっぱり無理だということになった。
ついにマリアナ諸島放棄を天皇も納得します。その後、天皇が退室して残った三人が話をしているときに、伏見宮が、「ここまできたら、もう特別な攻撃方法によってやるよりしようがない」ということを言うのです。
伏見宮という、現役の海軍大将による判断が間違いなくそこにはありました。それが六月二十五日です。その発言後、ほかの二人の元帥ももっともだと承知してしまう。それで軍令部も参謀本部も、かねてより検討していた「特攻攻撃」が認可されたと了解するわけです。
■特攻を推し進めた大西瀧治郎・海軍中将
【保阪】その瞬間に特攻が国策になったわけですね。昭和十九年十月の捷一号作戦で、大西瀧治郎がフィリピンのマニラに赴任したとき、マニラにいたのが福留繁でした。福留はこのとき第二航空艦隊司令長官。大西の第一航空艦隊は台湾沖航空戦でかなりやられて戦闘機が三十数機になってしまっていました。それでとうとう大西は特攻を指示する。福留がこのときのことを詳しく語っています。
大西と私は防空壕の中でベッドを並べて寝起きしていた。二三日夜大西は「特攻以外に航空攻撃の方法は立たない。第一航空艦隊は特攻一点張りでゆく第二航空隊もやれ」とさかんに口説いた。これに対して、私は「特攻はうまくゆくかも知れない。しかし、特攻で戦局を左右するような戦果は到底望めないと思う。私は部下の練度からみて、編隊集団攻撃の外自信がない。第二航空艦隊はこれで行く」と答えた。……二五日レイテ沖海戦の当日は、今日こそはと全力攻撃を企図したが、敵を発見し得ないのでまたも不成功に終わった。
この日第一航空艦隊では、関行男(ゆきお)大尉の指揮する敷島(しきしま)特攻隊が、敵特空母に対し初の特攻攻撃に成功した。後日アメリカ側の発表によると、この特攻第一日は全く敵の意表に出たもので、六機の体当たり命中があり特空母一隻を撃沈している。同夜、大西は「それみたことか、特攻に限る」とまた執拗に口説き、とうとう第二航空艦隊も爾後特攻攻撃に転換することに踏み切った。
大西はずいぶんあっけらかんと、そしてイケイケで特攻を推し進めたようなニュアンスですね。
■「大西次長は実践家で玉砕式、私は合理主義」
【半藤】最初の特攻で華々しい戦果をあげてしまった。これ以降一、二艦隊が合体となって、福留は合体した部隊の司令官になるのですが、実質は大西が指揮していました。特攻を指揮するには福留は弱いとされて、昭和二十年一月からは第一南遣艦隊に異動となっています。そのため彼はけっきょく戦後も生き残ることになります。
【保阪】昭和十九年十二月に軍令部第一部長になった富岡定俊が、敗戦直前の様子にからめて大西について語っています。大西は昭和二十年の五月に、小沢治三郎に代わって軍令部次長になっていました。
大西次長は実践家で玉砕式、私は合理主義で、作戦指導上の意見が合わず、六月頃私は任に堪えず辞任を申し出たこともある。戦争指導は、これまで軍令部の戦争指導班(班長末沢大佐)で受け持っていたが、和平のことも考慮しなければならない時期になったので、軍務局長[保科善四郎]が総合部長となり、その下に移して、軍令部は作戦一式とすることにされた。戦局はグングン悪化して、本土に対する空襲の被害は日々に激増し、遂に八月六日、八日[実際は九日]の広島長崎に対する原爆の投下となり、九日ソ連が参戦して日本の進退は茲(ここ)に窮(きわ)まった。
かくて、八月九日の最高戦争指導会議は、条件付でポツダム宣言を受諾するに一致し、翌十日午前会議[ママ]は開かれ、陸相[阿南惟幾(これちか)]、参謀総長[梅津美治郎]、軍令部総長[豊田副武]は反対の旨上奏したが、陛下から外相[東郷茂徳]の受諾意見に同意の旨聖断が下った。ところが、一二日両総長は相携(あいたずさ)えて拝謁、再び反対の旨上奏した。
■天皇の聖断が下り、8月16日に自決した
一三日夜大西次長は、米内大臣及び永野元帥の説得方を高松宮殿下に依頼し、作戦部員は手分けして永野元帥、及川[古志郎]、近藤[信竹]、野村(直邦)各大将を訪問して尽力を懇請したが、効果は無かった。かくて、一四日の御前会議となり、ポツダム宣言受諾の旨最後の聖断は下った。
大西次長は一六日官邸において自決した。八月十日頃のことだったと思う。私と大西次長は豊田総長室で激論した。私は「本土決戦で敵の第一波だけは何とかして撃退できるが、第二波に対しては目算が立たない」と言明したところ、大西次長は「君の計算は悲観に過ぎる」として、飽くまで精神論を固辞(ママ)する。大西次長は今まで陣頭に立って、飛行機の特攻攻撃を強調して来た関係もあり、今突如として無条件降伏と云うことでは、まことに苦しい立場にあったと思う。甚だ浮かばない顔をしておられた。大西次長は、あくまで降伏反対玉砕論で「天皇と雖も時に暗愚の場合がなきにあらず」とまで極論された。その翌日であったか、大西次長は部員を集めて、一席玉砕論を弁じた上、「俺について来るか」と念を押された。私は言下に「次長がその積もりならついて行きます。誓います」と即答した。然し情況は二、三日の内にがらりと変わって、最後の御聖断となり和平に決した。
富岡は、大西が「あくまで降伏反対玉砕論」で、聖断を下した天皇のことを「時に暗愚の場合がなきにあらず」と評したと言う。おそらく大西さんは実際そういうことを言ったのだと思うのですが、半藤さん、いかがですか。
■生き残った将官による弁解
【半藤】特攻作戦については、自決した大西にその責任を皆がなすりつけた印象があって、少々気の毒にも思えます。富岡の発言で私が気になるのは、天皇についての件も本当かなと思えますが、それよりも戦艦大和の沖縄特攻について「私の知らない間に……小沢[治三郎]次長のところで承知したらしい」と言っているところです。仮にも軍令部の作戦部長という立場にあったのですから、そんな責任逃れのような言い方はすべきではないです。どうも富岡さんは自分を正当化しすぎる傾向が強い。
【保阪】富岡定俊は長生きしたためか弁解が多過ぎる。その著書、『開戦と終戦』とかを読むと腹が立ってきますよ。このときの経緯を軍令部作戦部長だった中沢佑少将は、短くサラッと語っているんです。
大西第二航空艦隊長官は、レイテ沖海戦において始めて飛行機の特攻戦法を実施した。その前に一度大西中将が軍令部に来て、伊藤[整一]次長と私の前で「戦況かくなる上は、飛行機の特攻以外に方法はないと思う、中央の承認を得たい」と申出されたことがある。これに対して「中央としては特攻をやれとは言われない。しかし、当事者がやると言うならば涙をふるって認める」と返事した。
こうとでも言っておかないと軍令部の立つ瀬がないというような感じと言いますか、中沢もまた、逃げているような印象を受けました。
■戦後を生き抜くための言い訳が「特攻作戦の父」を作り上げた
【半藤】明らかに自分たちの責任逃れ。責任は大西にあり、という典型的なもの言いだと思います。大西瀧治郎だけが最後まで徹底抗戦特攻派にされてしまっているので、かなり注意して見なければいけないところです。
【保阪】これはどうなのでしょうか。富岡定俊が、「人命の尊重」と題された項で、こんなことを言っているんです。
アメリカ人は非常に人命を大切にする。……そこへ行くと日本人は潔癖すぎて、艦を沈めたら理由の如何を問わず、艦長は引責自決しなければならないように思われていた。これは日本軍人の伝統的美点であるが、まことに勿体ないことである。私は、かつて具体的に勘定したことがあるが私を少将にまで育て上げるに、日本海軍は実に時価三億円を要している。精神問題を別にしても、いざ戦さとなったら最も有効に人を使うようにしなければなるまい。
要するに艦と運命をともにするなんてまったく意味がない、と。一人の少将を育てるのに三億円。「時価」とあるので戦後の取材当時の金額で、ということでしょうけれど、本当にそんなにかかるものなんですか。
【半藤】現在のサラリーマンでも、平均生涯賃金は三億に届かないでしょう。たしかに兵学校はタダ、食うものも着るものも全部支給、少尉以上は月給が出る。それで船に乗っていると手当てがボンボン支給される。しかし、そうは言っても三億円はなんぼなんでも多すぎるような気がします。
【保阪】誇大に見積もって、自分たち将官は無駄に死んではいかん逸材だったのだと言いたかったのかもしれないですね。
【半藤】生き残ったことへの後ろめたさをふっ切るような言い訳が、他者にも自分にも必要だったのかもしれません。
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作家
1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋新社(現・文藝春秋)へ入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役を歴任。著書に『日本のいちばん長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞、以上文藝春秋)、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(毎日出版文化賞特別賞)、『墨子よみがえる』(以上平凡社)など多数。2015年菊池寛賞受賞。2021年1月逝去。
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ノンフィクション作家
1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件―軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。
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(作家 半藤 一利、ノンフィクション作家 保阪 正康)
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