「お義父さんは認知症じゃない、ボケてるだけ」献身的に介護をする妻が、私にさらりとそう言ったワケ【2024夏のイチオシ】
プレジデントオンライン / 2024年8月14日 10時15分
■明らかに妻にこびへつらう様子を見せた認知症の父
「あ〜らぁ、いらっしゃい」
父はそう言って満面の笑みで私を迎えた。いや、私を、ではなく妻を、だろう。いきなり妻のほうにすり寄って手を握ろうとしたのである。力関係に敏感な父。見るからに彼女にこびへつらっていた。
「お元気でしたか? お父さん」
妻が丁重に挨拶すると、父は「あら、やだぁ」と妙な声を出して、こう続けた。
「元気、最高。バッチグーよ」
「ああ、それはよかった」
ふたりは握手を交わし、ひとまず私は安堵(あんど)した。「復讐」と言われていたので修羅場のような展開になったらどうしようかと心配していたのである。
■衣服が散乱した家を片付ける妻に認知症の父がかけた一言
妻はまず仏壇で母に挨拶した。そして2階に上がってジャージに着替え、家の掃除にかかる。掃除というより家中の殺菌・消毒をするのだ。
父はトイレの後も手を洗わないので不潔きわまりない上に、好物のあんパンや煮豆を食べると、その手でいろいろな場所を触る。雑菌や糖分がテーブルや椅子、場合によっては畳や床にまで広がっているので、それを除菌用ウェットティッシュで丁寧に拭き取る。かかりつけ医からも「高齢なのでノロウイルスに注意してください」と指導されており、家全体を消毒しなければならないのである。
居間には服や下着が散乱していた。なぜなら父は手近にあるものを着る。家の中をうろうろしてそれを脱ぎ、また手近にあるものを着る。手近にある順に着ては脱ぎ、ということを繰り返すので、洗濯済みのものと洗濯すべきものの区別がつかないのだが、妻は一つひとつ広げて汚れや臭いを点検、仕分けして洗濯する。洗濯すると、父が手にとる順番、気温の変化などを予測してハンガーに干しておく。居間の散乱も彼女からすると想定内の移動らしい。
てきぱきとした妻の作業を、犬のようにじっと見つめる父。おもむろに彼女ににじり寄り、こう声をかけた。
「何か手伝おうか?」
■「いいです」と断る妻に駄々をこねる父
やる気満々の風情なのだが、妻はきっぱり答えた。
「いいです」
「いいって言ったってさ」
父が言い返そうとすると、妻が遮った。
「お父さんは休んでいてください」
父は首を振り、こう言った。
「お姉さんが働いているのに、あたしが休むわけにはいきません」
労働者の矜持を示しているようなのだが、父が動くことで汚れや雑菌が拡散していくわけで、父にはその場でじっとしていてほしいのだ。
「お気持ちはいただきます。でも、お父さんはゆっくりしていてください」
妻が優しく声をかけると、父は「やだ」と駄々をこねた。
「お父さんは自分のことをなさってください」
そう言われて父の目が宙を泳いだ。自分のこと? 自分のことって何なのか、と傍らで聞いていた私も思った。
「テレビでもご覧になったらどうですか?」
■何度断られても「手伝おうか?」
妻の問いかけが聞こえないかのように父は家の中をうろうろし始めた。探し物でも始めたようだが、何かを思いついたように戻ってきて、妻にこう言った。
「何か手伝おうか?」
妻は初めて言われたかのように「いいです。私がやりますから」と答えた。父は「いいですって言ったって」「だってお姉さんが働いているのに」と反復し、妻は「いいんです。お気になさらずに」と断った。このやりとりを何回も繰り返したのだが、繰り返しながらも彼女の作業は着実に進み、洗濯の合間を縫って彼女は2階に上がった。そして原稿校正の仕事を始めると、父はその隣に正座してこう声をかけた。
「ここにいていいか?」
「いてもいいですけど、私は仕事中なのでお話しできません」
「何か手伝おうか?」
「お父さんにこの仕事は手伝えません」
父は聞こえなかったのか、変わらぬ調子で「ここはあったかいな」と妻に話しかけた。そして近所の様子などを報告し、ひとしきり話し終えた様子だったので、私は「お茶でも飲もうか」と父を誘った。仕事の邪魔、迷惑だということに気がつかないのかと見るに見かねたのである。そして父とふたりで妻から後ずさりするように1階に下り、台所で湯を沸かした。テーブルにあんパンを並べ、お茶をすすると、おもむろに父が顔を近づけ、私にこう囁いた。
「2階に誰かいるのか?」
■まるで母や妻を恐れているかのような仕草
何を言い出すのかと私は驚いた。
――いるよ。
「だ、誰が?」
おびえる父。
――エミちゃん。さっきから掃除してくれて。今は仕事をしているけど。
私がそう説明すると、父はきょとんとした。
「ほら、今、カタンって音がしたよな」
――したね。
「2階に誰かいるんじゃないのか?」
――だから、エミちゃんがいる。
「いるのか?」
――いる。
「いるんだな」
父は電話では、2階に母がいると言っていた。誰かはともかく「いる」ことを確認できたようだった。
「じゃあ、これだな」
父はそう言って、口にチャックをする仕草をした。「黙る」ということなので、私がうなずくと、父は野球のブロックサインのように、小指を立て、人差し指で天井を指し、口にチャックをした。意味としては「女」「天」「黙る」。呪を切るような素早い動き。母や妻を恐れているだけかもしれないが、まるで天照大御神などの信仰の原点のようだった。
■認知症であっても「人として真摯に接したい」
――ちょっと見てくるから。
父にそう言い残して、私は2階へ上がった。そして妻の前に正座し、父のあまりにしつこい問題行動をお詫びした。どうしようもない父ですみません、と頭を下げたのだが、彼女は「そういうことじゃないのよ」と首を振った。
「私は人として真摯(しんし)に接したい。お父さんに敬意を払うべきでしょ。親なんだから」
ダメなことはダメと言うべき。なんでもかんでも肯定するのは失礼だというのである。母も父に対して「そうじゃなくて、こうでしょ!」と否定しまくっていたようだが、否定されることで行動が制御されていたともいえる。大体、父自身も自分のしていることが正しいとは思っておらず、否定されることで安心していた節がある。
「だから私はお父さんにかまわない」
――かまわない?
「お母さんは本当にずっとかまっていたでしょ。お母さんは否定することで生きるパワーを与えていた。否定するほうも疲れるのよ。でも絶対にあきらめなかった。愛していたのね。そのお母さんの不在を思い知ってほしい。私はお母さんじゃないから」
――それで手伝いも断るわけ?
■認知症介護では「できることを奪わない」のがセオリー
父は何度も「手伝おうか?」と繰り返していた。通常、認知症介護は「『認知症だから』と何もかも家族がやってしまうことはやめましょう。認知症患者からできることを奪ってはいけないのです」(井桁之総著『認知症 ありのままを認め、そのこころを知る』論創社 2020年 以下同)とされる。「手伝おうか?」と言われたら、どんどん手伝ってもらう。自分でできる、自分にはやることがある、と実感することが生きるよろこびにつながるとされているのだ。
実際、私も父にできることを考える。何かできそうなことがあれば、それをやってもらい、それに対して感謝したりなんかすると、ハッピーな気持ちになるのではないかと。逆に「患者の行動に対して『違う!』『そうじゃなくて、こうでしょ!』と冷たい言葉を浴びせると、認知症患者は周囲の反応に驚き、自分ではなく周囲が誤作動を起こしたと感じるのです」という。周囲の誤作動に苛まれることになるので、たとえ失敗しても「『失敗してしまった』と思わせない配慮が必要」だというのだ。
■これまでの介護は「私の自己満足」だった
「それって介護者の自己満足でしょ」
いきなり否定され、私は絶句した。
「決して本人の満足じゃない」
あらためて振り返ってみると、例えば私は父に「テーブルを拭いておいて」などとお願いする。すると父は床を拭く雑巾でテーブルを拭いてしまい、私がすべてやり直すことになる。父はそれをじっと見ていたので、おそらく「できる」ことではなく、「できない」ことを思い知らせただけなのだろう。
テーブルを雑巾ではなくウェットティッシュで拭かせるために、ウェットティッシュを手に持たせ、私が「こうやって拭いてね」と少し実演してみせたこともあったが、父は「わかった」とうなずき、ウェットティッシュで折り紙のような作業を始めた。それを持たせ、私が手を添えてテーブルを拭き、一応「ありがとう」と感謝したのだが、父からすれば何に対する感謝なのかわからず、むしろ屈辱を味わっていたのかもしれない。
むしろ「邪魔だから休んでいてね」と言ったほうがお互いすっきりするし、父も役に立てたような気がするのかもしれない。
■「お父さんはただボケてるだけ」
――でも、まあ、おやじはいかんせん認知症だからね。
私がつぶやくと、妻がさらりとこう言った。
「お父さんは認知症じゃないわよ」
――そうなの?
「ボケてるだけでしょ」
「認知症」はあくまで行政用語。親子のことを社会問題にすり替えるな。「ボケてるだけ」とは自分の親としてきちんと向き合うべきだという愛の宣言なのである。
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ノンフィクション作家
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『からくり民主主義』、『道徳教室』など。『はい、泳げません』は長谷川博己、綾瀬はるか共演で映画化。
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(ノンフィクション作家 髙橋 秀実)
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