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パリ五輪よ、ありがとう…あなたのおかげで「東京五輪を愚直に成功させた日本」を誇れるようになりました

プレジデントオンライン / 2024年8月14日 17時15分

エッフェル塔に掲げられた五輪マーク(写真=Ibex73/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

パリオリンピックが8月11日(現地時間)に閉幕した。神戸学院大学の鈴木洋仁准教授は「今回のパリ五輪は、『誤審』疑惑や選手村での盗難の多発といった大会運営の不備が目立った。3年前の東京五輪と比較すると、対照的なポイントが多い」という――。

■パリ五輪で相次いだ「疑惑の判定」

現地時間の11日に閉幕したパリ五輪は、日本勢の「メダルラッシュ」に沸いた。金メダル・メダル総数ともに海外で開かれたオリンピックとして過去最多となった。一方、柔道や男子バスケットボールをはじめ、「疑惑の判定」が続出し、日本中に、フラストレーションがたまったのではないか。

男子バスケットボールの日本対フランス(現地時間7月30日)が、「疑い」を象徴している。

この試合では、残り16.4秒の段階で、84対80で日本がフランスをリードしていた。そこからフランスのマシュー・ストラゼルに二度、トラベリングを疑われるシーンがあった。一方、3ポイントシュートの際、日本の河村勇輝がストラゼルに体を寄せたことで「ファール」と判定される。その結果、1ポイント分のフリースローが与えられたフランスは、同点に追いつく。

トラベリングは、せめて一度は取られるべきだし、河村のジャンプは、ストラゼルの体のどこにも触っていないように見えた。敗色濃厚な状況からの劇的な展開に、会場の盛り上がりは最高潮に達する。反対に、テレビ画面のこちら側には、判定への疑い、そして怒りが募った。

この「疑惑の判定」について、スポーツ専門サイト「Number Web」でスポーツライターのミムラユウスケ氏は、「紙一重のジャッジではあったし、違う会場の試合だったら、あるいはもう一度あの状況になったら、審判が異なる判定をする可能性も十分にあるだろう」と書いている。

■試合中に「市民よ、武器を取れ!」の大合唱

なるほど今回の判定が偶然なら、ミムラ氏の言う「可能性」を想像して納得してもいい。けれども、パリ五輪での「疑惑」はバスケットボールにとどまらない。

筆者の印象に残っているのが柔道の混合団体の決勝(現地時間8月3日)。この試合で物議を醸したのが、3勝3敗で迎えた代表戦の出場者を決める「デジタルルーレット」の結果だ。

その前に、まず驚いたのは、試合中に行われたフランス国歌の大合唱だ。

柔道には、ゴルフやテニスほどの静けさを求められないとはいえ、試合中に大声で、フランス国歌を歌い上げるのは、観戦マナーの度を越している。3年前の東京五輪は無観客だったので、あくまで「たられば」にとどまるが、仮に、柔道の会場で、日本人の観客が「君が代」を大合唱していたら、どうとらえられたか。

もとより、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」は、フランス革命の歌で、歌詞には血生ぐささしかない。「市民よ、武器を取れ!」と呼びかけ、敵を殺そうと煽り立てる歌は、「平和の祭典」であるはずの五輪、それも、「礼に始まり、礼に終わる」柔道とは、正反対である。

■ホスト国としての「礼」をあまりに失している

このような圧倒的にアウェーな状況で行われたのが、前述の「デジタルルーレット」だ。そこで選ばれたのは「フランスの英雄」とされるテディ・リネールだった。あまりにできすぎている展開に日本のネットユーザーからは、「ズルーレット」などと批判する声が相次いだ。

このルーレットについては、東京五輪の柔道男子60キロ級金メダリストの高藤直寿氏がテレビ朝日系「サンデーLIVE‼」で指摘した通り、「不正は絶対ない」のだろうし、全日本柔道連盟の関係者は「透明性は確保されているという認識でいる」と述べている。それが公式見解である。

一方、試合中の国歌の大合唱に象徴されるような、ホスト国には、あまりに「礼」を失した姿勢が、これまで述べてきたような「疑惑」を際立たせているのではないだろうか。

「衣食足りて礼節を知る」ということわざを、いまさらフランスに説いても詮(せん)ないが、裏を返せば、今の同国は、衣食が足りていないのかもしれない。先に行われた同国の総選挙は、「極右」や「極左」をはじめ四分五裂し、国のまとまりを欠き、パリでは野宿者が次々に立ち退かされている。開会式当日(7月26日)に起きた高速鉄道TGVを狙ったテロ事件は、発生から2週間以上が過ぎた本稿執筆時点(8月13日)でもなお、犯人逮捕に至っていない。

■3年前の東京五輪ではどうだったか

オリンピックを開催する国にふさわしい礼節どころか、治安を守り、人々や選手を安心させる役割すら、まともに果たせていないのではないか。そんなフランスに対して、日本への礼節を期待するほうが間違いなのかもしれない。

こうした思いは、3年前の東京大会と比べてみると、よりクリアになる。

2021年、新型コロナウイルス感染症の蔓延により、同大会は、五輪史上はじめて、無観客で開催された。当時は、オリンピックの開催そのものに日本中が反対しているかのような空気であり、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長(当時)が「パンデミックの所でやるのは普通ではない」と発言するなど、多くの「専門家」が、反対の大合唱だった。加えて、新聞やテレビ、ネット上でも、この流れに同調して、五輪自体を敵視しているかのような世論がつくられていた。

都庁に掲げられた2020年夏季オリンピックのロゴ
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/winhorse

■お粗末な大会運営と現地マスコミの翼賛

東京大会では、選手村や競技施設の出入りに、感染症対策のため、厳格な管理がなされた。前例のない中で、大会組織委員会をはじめとする運営側には、大会そのものの進行だけではなく、感染対策を両立させる、という、きわめて困難なミッションが課された。

にもかかわらず、競技では、今回のような「誤審」騒ぎは起こらなかったし、運営の面でも、きわめて順調に遂行された。少なくとも、メディアから、そうした批判が目立ったとは言えない。

ひるがえって、今回のパリ大会は、どうか。

夏季大会では8年ぶりとなる有観客というだけではなく、100年ぶりにパリで開かれたこともあってか、地元フランスのメディアは、翼賛、賛美一色に染め上げられていた。ふだんは政府に批判的な新聞であっても、日本では賛否の分かれた開会式を絶賛している。

パリ大会は、東京のときとは逆に、マスコミの力強い後押しのなかで開催されている。もちろん、新型コロナウイルス対策など、どこ吹く風である。

だが、大会の運営は、順調とは言いがたい。「誤審」の疑いにとどまらない。選手村については、「食事の乏しさ」「競技場への移動時間の長さ」さらには「空調設備の不整備といった」批判が相次いだ。これだけなら、まだ稚拙というか認識不足だと甘受できたかもしれない。選手村で盗難が頻発したことからは、もはや、パリにもフランスにも、運営する資格に疑問符がつく。

オリンピック・パラリンピックのために装飾されたフランス・パリ市庁舎
写真=iStock.com/HJBC
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/HJBC

■日本人がパリ五輪から学ぶべきこと

メディアから袋叩きにされ、難しい運営を強いられながら、無事に大会を終えた東京と、マスコミから応援され、コロナ対策も不要でありながら、これほどまでに不満が相次ぐパリとは、対照的だと言えよう。それでも今回のパリ大会は、日本人にとって、とても貴重な機会だった。「日本人が大切にすべきもの」を、3年越しであらためて教えてくれたからである。

それは、日本のオリンピック参加を進めた柔道の父・嘉納治五郎が説いた「礼」の精神だ。当時ヨーロッパで流行した「ジャポニズム(日本趣味)」の的だった柔道は、そのジャポニズムの本場たるフランスで「JUDO」になり広まった。その一方で、嘉納の大切にした礼節は、今回のパリ大会には見出しがたい。

観客の大合唱だけでなく、試合後に、畳を降りる前どころか、決まり技の直後に派手なガッツポーズを決め、会場に向けて雄叫びを上げるフランスの選手には、「礼」のかけらも見られなかった。

だからこそ、柔道の母国・日本に求められるのは、冷静になってフランスを許し、認め、自分たちの「道」を究めていく、愚直な姿勢を世界に示していくことにほかならない。それこそが嘉納治五郎が目指した「柔道の国際化」であり、「見るスポーツ」としての発展である(※1)。いくら柔道が「JUDO」という別のものに変えられようと、嘉納治五郎の精神は消えないし、日本人の礼節もまた、変化しても失ってはいけないものが、そこにあるからである(※2)

参考文献
※1:井上俊『武道の誕生』(吉川弘文館)
※2:広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)

■なぜパリ五輪に対する批判が盛り上がったのか

すると、日本のSNSでパリ五輪に対する批判が盛り上がったのは、礼を失していた、そうみられるのかもしれない。

決してそうではない。そこには2つの理由がある。ひとつは、3年前の東京大会において強いられたフラストレーションであり、もうひとつは、日本勢の活躍である。

上述のように、3年前は無観客を強いられ、さらに、素直に盛り上がってはいけないかのような呪縛があった。今回は、そうした足かせがないどころか、開催都市のパリだけではなく、世界中がバックアップした。にもかかわらず、あまりにも運営が拙い。せっかくの機会を活かしきれていない。であれば、3年前に日本が余儀なくされた我慢は、いったい何だったのか。そんなイライラが募っているから、パリ大会に向ける視線が厳しかったのではないか。

それだけではない。そうしたお粗末な運営をものともせず、日本チームは、海外開催では過去最高数の金メダルを獲得したからである。それも、柔道や体操、レスリングといった「お家芸」にとどまらない。スケートボードやブレイキンといった、新しい競技どころか、フェンシングや馬術、近代五種といった、欧州を本場とするスポーツでも、次々とメダルを得た。

開催都市の「礼」を見せられないパリを舞台に、そこを本場とする種目で、日本代表が次々に勇姿を見せる。その姿は、日本が欧州に劣っている、といった思い込みを拭い去って余りある。だからこそ、大会をきちんと遂行してほしい。そんな願いが、日本のSNSでのパリ大会への批判につながったのではないか。

■東京大会の意義を、あらためて見直す

きわめつけは、東京とパリ、両大会のメダルをめぐる騒動だろう。

バドミントン男子シングルスで東京とパリの連覇を達成したデンマークのビクトル・アクセルセンが、両大会の金メダルを比べる動画を公開するなど、終盤になって、あらためて、大会運営の粗雑さに注目が集まった。

パリ五輪のメダル=2024年2月8日、パリ郊外サンドニ
写真=時事通信フォト
パリ五輪のメダル=2024年2月8日、パリ郊外サンドニ - 写真=時事通信フォト

本当にメダル作りに優劣があったかどうか、よりも重要なことがある。大会のイメージとして、最後になって、こんな、みっともない動画が広く共有されたところであり、その残念な感じが、今大会には最初から最後までつきまとったところが、大切なのである。

3年が過ぎて、あらためて、あの東京大会が乗り越えた壁の高さを、日本だけではなく、世界が痛感したからである。そして、日本選手の躍進が、地元開催というアドバンテージによるものだけではないと証明したからである。

日本スゴイ、と煽り立てたいわけではない。そうではなく、ここまでみてきたように、パリ大会の不評ぶりと、日本勢の存在感の大きさは、あの東京大会があったからなのだ、と世界中に示したところにこそ、今大会の意味があったと言えよう。

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鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)
神戸学院大学現代社会学部 准教授
1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て現職。専門は、歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)、『「三代目」スタディーズ 世代と系図から読む近代日本』(青弓社)など。共著(分担執筆)として、『運動としての大衆文化:協働・ファン・文化工作』(大塚英志編、水声社)、『「明治日本と革命中国」の思想史 近代東アジアにおける「知」とナショナリズムの相互還流』(楊際開、伊東貴之編著、ミネルヴァ書房)などがある。

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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)

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