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伊周は没落したが、弟・隆家の家系は明治維新まで続いた…藤原道長のライバル「定子の兄弟」の運命をわけたもの

プレジデントオンライン / 2024年8月18日 18時15分

皇后定子の兄で、藤原道長の甥である藤原伊周とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「わずか21歳で内大臣に抜擢されたが、問題行動を繰り返し自滅した。一方で、弟の隆家は国家に貢献したことから、長きにわたり皇室・摂家にその血を残した」という――。

■21歳で大出世した藤原伊周が落ちぶれたワケ

藤原道長(柄本佑)の長兄で、関白だった道隆(井浦新)を祖とする家系を中関白家と呼ぶ。NHK大河ドラマ「光る君へ」の登場人物でいえば、道隆の長女で一条天皇の皇后だった定子(高畑充希)、道隆の長男で定子の兄の伊周(三浦翔平)、次男で定子の弟の隆家(竜星涼)が、中関白家の面々である。

さて、伊周は第29回「母として」(7月27日放送)で、自分が失脚し、定子が命を落としたのは道長のせいだと決めつけ、夜な夜な道長を呪詛しはじめた。第30回「つながる言の葉」(8月4日放送)でも、一心不乱に呪詛する姿が映し出された。

三浦翔平はNHKの情報誌『ステラ』で、「しっかりの者の定子がいなくなって、伊周は完全に闇に落ちたのだと思います」と語っている。

伊周は道隆全盛のとき、弱冠21歳にして内大臣に抜擢された。叔父で8歳年上の道長が2段階下の権大納言のときだった。父の道隆は自身が飲水病(現代の糖尿病)を患っていたこともあり、自分が元気なうちに嫡男をできるかぎり出世させたいと考えたのだろう。しかし、それが裏目に出た。

山本淳子氏はこう書く。「伊周は『待ち』に入ればよかったのだ。祖父兼家がそうしたように。しかし彼は、祖父と違ってこれまでが恵まれすぎていた。試練を知らず、ほしいものは性急に手に入れたがった。高階一族(註・母親の出身一族)からおだてられすぎたのもよくなかった」(『源氏物語の時代』朝日選書)

■安倍晴明が道長に言った台詞の意味

一方、弟の隆家は、このところ伊周と対照的に描かれている。第29回では、「藤原の筆頭に立つ」と意気込む伊周に、「兄上の気持はわかるが、左大臣(註・道長)の権勢はもはや揺るがぬぞ」と諭した。

第30回でも同様だった。伊周は定子が忘れられない一条天皇(塩野瑛久)に、「そのように暗いお顔をなさらないでくださいませ。定子様が悲しみます。『枕草子』をお読みくださり、どうか華やかで楽しかった日々のことだけをお思いくださいませ」と伝える。定子を利用して天皇を操縦しようとしているようで、その場にいる隆家は、兄を怪訝な目を向けた。

さらには道長のもとを訪れ、「兄には困ったものでございます。帝のお気弱につけ込んで」と伝え、「私は過ぎたことは忘れるようにしております。出雲へ配流となったときの無念よりも、亡き姉への思いよりも、先のことが大事でございます。恐れながら、帝にも前をお向きいただきたいと存じます」と話した。

第20回「望みの先に」(5月19日放送)で、花山法皇(本郷奏多)に矢を放った伊周と隆家に厳しい処分がくだった際のこと。陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)が道長に、「隆家様は、いずれあなた様の強いお力となりまする」と告げ、伊周については「あなた様次第でございます」と答える場面があった。

兄弟の将来を暗示していたが、それが具体的に描写されるようになってきた。

■根に持つ兄と好戦的な弟

隆家は兄の伊周より5歳ほど年下だったが、正暦5年(994)にわずか16歳で従三位になり、公卿の仲間入りをしている。試練を知らずに出世した点は兄と同じだったが、うじうじしてなにかと根に持つ兄に対し、弟はまっすぐで好戦的で、性格は対照的だった。

2019年12月7日、中国・上海で開催されたY-3のプロモーションイベントに出席した俳優の竜星涼。
写真=VCG via Getty Images/ゲッティ/共同通信イメージズ
藤原隆家を演じる竜星涼。2019年12月7日、中国・上海で開催されたY-3のプロモーションイベントに出席した。 - 写真=VCG via Getty Images/ゲッティ/共同通信イメージズ

花山法皇に矢を射かける以前のこと。『大鏡』にはこんな話が載っている。隆家は法皇から「いくらお前でもわが家の前は通り抜けられまい」といわれ、日を改めて勝負することになった。隆家は頑丈な牛車と選り抜きの牛を用意し、数十人の従者とともに出かけ、突進したという。結局、法皇の万全の防備を突破できなかったというが、こうしたいいがかりに正面から答えるのが隆家らしい。

こういう性格だから、兄の伊周に相談されると、安請け合いし、花山天皇に矢を放ってしまったのだろう。長徳2年(996)正月、故藤原為光の屋敷の前で、伊周と隆家の従者が花山天皇に矢を放ち、2人の失脚につながった事件である(長徳の変)。

『栄花物語』にはこう書かれている。伊周は為光の三女を恋人にし、花山法皇は四女に交際を迫っていた。だが、伊周は花山も三女をねらっていると思い込み、弟の隆家に相談したところ、隆家は「自分にまかせろ」といって、従者をしたがえて待ち伏せ、法皇を襲撃してしまった――。

■往時の権威を取り戻しつつあったが…

法皇に矢を射たことが、兄弟が自滅して配流され、中関白家が没落することにつながったわけだが、定子が死去する前年である長保元年(999)12月、一条天皇の第一皇子である敦康親王を産んだことは、兄弟にとって大きな幸いだった。

藤原伊周
藤原伊周(画像=中央公論社『日本の絵巻16 石山寺縁起』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

中関白家はやがて春宮(皇太子)になる可能性が高い敦康親王の外戚である。一条天皇としては、伊周と隆家を皇子の外戚(叔父)にふさわしい立場に戻したい。また、最高権力者である左大臣道長も、兄弟に恨みを持たれ続けたくはない。

伊周は長保3年(1001)閏12月、大納言相当の正三位に復位。翌長保4年(1002)には、「大臣の下、大納言の上」と定められ、朝廷に会議に参加することになった。藤原実資が『小右記』に「前例のないこと」と不満げに書くなど反発は大きかったようだが、政治家として本格復帰した。

むろん、一条天皇と道長は、隆家に対しても同じ意識をいだいた。長保4年(1002)には失脚する前の官職である権中納言に復帰し、寛弘4年(1007)には従二位に叙された。

■弟・隆家が九州へ向かったワケ

その後、道長の長女である中宮彰子が敦成親王を産むと、伊周は追い詰められて行動がおかしくなり、呪詛事件に巻き込まれるなど自滅していく。

一方、隆家は「光る君へ」での「私は過ぎたことは忘れるようにしております」という発言が象徴するように、中関白家の再興に固執しなかったことが幸いしたといえよう。兄が政治生命を断たれた寛弘6年(1009)には、中納言へと出世した。

ただ、隆家は兄と違って、中央での権勢ばかりに価値を見いだすタイプではなかった。寛弘7年(1010)、伊周が没したのち、隆家は長和元年(1012)末ごろから、外傷が原因とされる眼病を患った。そして、太宰府に唐人の名医がいるというので、長徳の変ののち、兄はそこに配流されるのを死ぬほどいやがった太宰権帥への任官を望むようになった。

これには道長は反対している。なんだかんだいって中関白家にはいまなお声望がある。そのなかで隆家は、すでに記したように好戦的で、別の言葉でいえば、性悪を意味する「さがな者」だと評判だった。そんな人物が九州の在地勢力と結合したら危険だと、道長は考えたのである。

しかし、同じ眼病に悩む三条天皇が同情し、長和3年(1014)11月、太宰権帥に任じられている。

■平安最大の対外危機「刀伊の入寇」

その三条天皇は寛仁元年(1017)に亡くなる。翌年には、姉の定子が産んだ敦康親王も世を去った。すでに兄も亡く、後ろ盾はまったくなくなっていたが、そんな隆家の足下で緊急事態が発生した。寛弘3年(1019)3月から4月にかけ、女真族と思われる海賊が対馬や壱岐を襲撃したのち、九州沿岸に押し寄せたのである(刀伊の入寇)。

このとき隆家は、九州中の豪族に召集をかけ、彼らを率いて応戦し、敵に多大な損害を与えて撃退している。「光る君へ」で安倍晴明が、隆家について「いずれあなた様の強いお力となりまする」と予言したのは、このことを指したものと思われる。

その年末、隆家が太宰権帥を辞して帰京すると、その功績から「大臣、大納言にも」取り立てようという声が上がったという。しかし、「御まじらひ絶えにたれば(内裏への出仕を控えて人と交流をしていなかったので)」、実現しなかったという(『大鏡』)。

その後、長暦元年(1037)からふたたび太宰権帥を務め、長久5年(1044)正月、66歳で死去している。往生際が悪い伊周は負の運勢を引きずり、割り切った隆家は国家に貢献した。子孫についても、伊周の嫡男の道雅は問題行動を重ねた挙句、没したのに対し、道隆の家系は大臣こそ排出しなかったが明治維新まで続いた。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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